歴史上の人物と日本刀

明楽茂村の薙刀 武州住藤原兼永
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明楽茂村の薙刀 武州住藤原兼永 明楽茂村の薙刀 武州住藤原兼永
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徳川家の御用鍛冶として、幕末まで日本刀の作刀を続けた「藤原兼永」(ふじわらかねなが)。その藤原兼永が作刀した日本刀の所有者で有名なのが、「明楽茂村」(あけらしげむら)です。
明楽茂村は、将軍に御目見できない「御家人」の身分でありながら、幕府の要職である勘定奉行を9年間務め「旗本」にまで大出世した人物。この大出世には、ある秘密が隠されていました。そんな明楽茂村とは一体どんな人物だったのでしょうか。
明楽茂村について紹介すると共に、明楽茂村が所持した薙刀の歴史と特徴についてご紹介します。

大出世を成し遂げた「明楽茂村」とは

明楽茂村

明楽茂村

「明楽茂村」(あけらしげむら)は、「御庭番」(おにわばん:将軍から直接命令を受け諜報活動を行なう隠密)を務めていた父「明楽源之助茂昭」(あけらげんのすけしげあきら)の子として、1760年(宝暦10年)に生まれました。

父の明楽茂昭は、明楽家2代目「明楽政晴」(あけらまさはる)の三男で、1746年(延享3年)に分家を立て「御広敷伊賀者」(おひろしきいがもの)となり、のちに「御広敷御庭番」(おひろしきおにわばん)に任命。

つまり、明楽茂村は明楽家の本家ではない御目見以下の分家出身にもかかわらず、父から引き継いだ御広敷御庭番を皮切りに、「腰物奉行」(こしものぶぎょう)、「勘定吟味役」(かんじょうぎんみやく)、ついには三奉行のひとつである「勘定奉行」(かんじょうぶぎょう)を命じられるまでに大出世した人物です。

特殊な役職の御庭番とは

明楽茂村が勘定奉行まで務めるようになった背景には、実は父から引き継いだ御庭番という特殊な役職が関係しています。それは、どのような仕事なのでしょうか。

忍者

忍者

御庭番とは、8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)が設置した役職です。

諸説ありますが、伊賀者甲賀者など忍者の末裔で組織されていたと言われており、徳川吉宗が藩主だった「彦根藩」(現在の滋賀県彦根市)には、御庭番と同様の職務を行なう役職が存在。

徳川吉宗が8代将軍に就任するときに江戸に同行させたことが、その興りと言われています。

表向きは文字通り、江戸城本丸に設けられた御庭番所に待機し、奥庭の警備をする仕事。しかし、それはあくまで表向きで、実際は将軍、老中若年寄、目付の名を受けた大名の動静を探るなどの「隠密活動」や、将軍に謁見し一般世情を「上申」(じょうしん:意見を上の者に申し述べること)するなど、重要な役割を果たしていたのです。

御庭番が出世しやすかった理由

御庭番は、任務の特殊性から、将軍に直接目通りが叶い、命令を受けたり報告したりすることもありました。そのため自分の力量を、将軍や老中に直接評価してもらうことができ、他の役職と比べて出世する機会に恵まれていたのです。

俸禄(ほうろく:現在の給与)も、実際は旗本と同じぐらい(200俵程度)は貰っていたと考えられています。また、御庭番であった下級の御家人は、幕末までに大半の家が、旗本に取り立てられています。

明楽茂村が歴任した役職

明楽茂村は、御庭番から様々な役職を歴任し、勘定奉行まで大出世。明楽茂村がどのぐらいの禄を貰える地位にあったのかに触れながら、歴任した主な役職をご説明します。

腰物奉行

試し切り

試し切り

腰物奉行とは、若年寄の支配下で200石から700石高の旗本が任命される役職。大名から将軍に献上される刀剣類や、将軍から褒美として与えられる刀剣類の取り扱いを司りました。

日本刀の試し切りを任されることもあり、山田浅右衛門(やまだあさえもん:江戸時代に日本刀の試し切りを命じられていた山田家の当主が名乗っていた名称)の試し切りを将軍に報告する職務も命じられていました。

明楽茂村は、1813年(文化10年)に腰物奉行に就任すると、加増されて100俵高となりました。

勘定吟味役

勘定吟味役は、勘定所の職務を監査する役職で、5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)が1682年(天和2年)に勘定所に設置。500石の旗本・御家人が任命される業務で、1722年(享保7年)には裁判を扱う公事方(くじかた)と財政を扱う勝手方(かってがた)に分けられました。1758年(宝暦8年)になると、直属の部下10人(のちに3名追加され13人)が就き、監査機関として確立。

なお勘定吟味役は、勘定所内では勘定奉行の次の地位でしたが、実際は老中支配であり、勘定所の役人に不正があった場合には、老中に報告しなければなりませんでした。明楽茂村は、1816年(文化13年)にさらに100俵を加増されています。

勘定奉行

勘定奉行は、寺社奉行・町奉行と共に三奉行のひとつとされ、勘定所の長官として幕府の財政の運営や直轄地の管理を任されていた役職です。また、評定所(ひょうじょうしょ)の構成員でもありました。

評定所は、老中、寺社奉行、町奉行、勘定奉行、目付が列席し、合議によって訴追を裁決する最高司法機関。原則として裁決は多数決で決められますが、多数決で決まらないときは老中の裁決に一任されました。勘定奉行は旗本から選ばれ、役高3,000石、役料700俵、手当金300両で定員は約4人。1722年(享保7年)には、財政を扱う勝手方と裁判を扱う公事方に分けられました。

明楽茂村は、1832年(天保3年)の勘定奉行就任時に500俵高となり、さらに1837年(天保8年)に加増されて800石高となっています。

このように明楽茂村は出世を遂げ、勘定吟味役に任命されて以降は、死去するまで財政のエキスパートとして、勘定吟味役と勘定奉行を25年間務め上げました。

刀工「藤原兼永」と明楽茂村の愛刀

藤原兼永(ふじわらかねなが)とは、1555~1569年(弘治元年~永禄12年)頃に、武州の下原鍛冶として活躍した刀工。

山本勘助

山本勘助

武州とは、武蔵国(むさしのくに)の別称で、現在の東京都埼玉県神奈川県の一部。下原鍛冶とは、現在の東京都八王子周辺で、室町時代の大永年間に「山本但馬周重」(やまもとたじまちかしげ)を始祖とした鍛冶集団のこと。

北条氏滅亡後、武田氏・北条氏・上杉氏など有力武将の庇護により栄え、幕末まで徳川氏の御用鍛冶として、日本刀を作刀しました。

なお、「武田信玄」(たけだしんげん)の家臣「山本勘助」(やまもとかんすけ)も、藤原兼永が作った日本刀を愛刀としていたことで有名です。

薙刀は、「武州藤原兼永」の銘が切られた、刀工・藤原兼永が作刀した1振。「霞兼永」(かすみかねなが)という号が付けられた名刀。霞には、物がぼやけてはっきり見えない、転じて消え去るという意味があり、まさに忍者の理念を表す言葉。忍者の末裔で、隠密活動により大出世した、明楽茂村にふさわしい名前の薙刀と言えるのです。

1831年(天保2年)、明楽茂村が諸大夫(しょだいぶ)となり飛騨守を称するようになったときに、官位にふさわしい武具として取り揃えられ、以降明楽家に受け継がれました。

薙刀 銘 武州住藤原兼永
薙刀 銘 武州住藤原兼永
武州住藤原兼永
鑑定区分
保存刀剣
刃長
48.8
所蔵・伝来
明楽家→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

明楽茂村の薙刀 武州住藤原兼永
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