実在した忍者

甲賀流忍者

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甲賀流忍者とは、忍者を語るうえで欠かすことのできない有名な忍者の里「甲賀」を中心に活躍した忍者集団です。同じく忍者の里として知られる「伊賀」と並び、忍術の一派として広く知られています。しかし、甲賀流忍者はどういった特徴があるのか。いつごろ誕生し活躍していたのか。そもそも、甲賀とはいったいどこにある地域なのか。意外と知らない甲賀流忍者についてご紹介します。

甲賀流忍者の特徴

甲賀地図

甲賀地図

甲賀流忍者とは、甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市・湖南市)を中心に活躍した忍者集団のことを指します。同じく忍者の里である伊賀国(現在の三重県伊賀市名張市)とは、山を挟んで隣接しています。ちなみに、「甲賀」の読み方は「こうが」と思われがちですが、実は「こうか」が正解。

こうかの読みを使った「甲賀コーラ」なる商品も存在し、伊賀の「忍ジャーエール」とともに、ご当地名物として販売されています。

甲賀流忍者の一番の特徴は、甲賀の里を領地とする歴代の領主達との緩やかな主従関係です。甲賀は近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)に属する土地でしたが、六角家などの近江を治めていた守護(将軍から地域の監督権を許された役職)の直接的な支配下には入らず、要請を受けた際に協力する、半ば独立した勢力としての立場を築き上げました。

戦国時代、統治者が存在しない地域では各勢力がバラバラに行動し、地域の中から有力者が生まれて統治が進むか、外部勢力に飲み込まれることが常でした。

しかし甲賀では、「惣」(そう)と呼ばれる独自の自治体系が発展。親類などの同じ名前が集まった小さな「同名中惣」(どうみょうちゅうそう)や、甲賀郡全体をまとめるための「甲賀郡中惣」など、関係する範囲の階層ごとに共同体が組織されます。

惣で里の方針や里内部での争いごとの解決など、様々なことがらを合議(集まって相談すること)で決定する体制が確立したため、統治者不在でも秩序立った行動が可能でした。

里全体で団結したひとつの勢力として存在したため、領主の支配を受けず独立性を保つことができたのです。

また、甲賀郡には大小200近くの陣地があったとされますが、一般的にイメージする城といった構えでなく、小高い丘の上に土塁(土で造られた壁)と城館を築いた陣地だったと言われています。小さな物では1辺が50m前後、大きい物で1辺100mを超える正方形の丘に城館を備え、その周りに高さ3mほどの土塁を廻らせた陣地が甲賀のあちらこちらに存在しました。

城ほどの強固な防御力はありませんが、周辺にいくつも同規模の陣地があるため、どこに主力が潜んでいるか判別が難しかったとされています。

さらに高い土塁に囲まれた城館ひとつを攻め落とすのも容易ではなく、その規模以上に守りやすく攻めづらい陣地を構えていたことも、特色のひとつです。さらに甲賀郡の山々には多くの薬草が自生していたため、それらの薬草を利用した薬の知識も発展。

「多賀坊」(たがぼう)と「朝熊坊」(あさまぼう)という2つの薬僧(修行を行ないながら薬の作成にも長けた僧侶)の系統が存在し、それぞれの系統に属する山伏が薬を配りながら各地を回って山岳信仰(山を敬い神と崇拝したり儀礼を行なったりすること)を広めていきました。

そうした背景から、甲賀忍者は全国の情報を多く入手し、また他国への潜入の際にも山伏として行動することで疑いの目を向けられにくく諜報活動がしやすかったと考えられます。

甲賀流忍者の発祥と隆盛

甲賀の地で生まれた甲賀流忍者は、もとは修験道(山にこもり厳しい修行を経て悟りを得ようとする山岳信仰、修行者を山伏と呼ぶことで知られる)に端を発するとされています。

修験道の開祖「役行者」(えんのぎょうじゃ)が飛鳥時代に開山したとされる飯道山(はんどうさん:滋賀県甲賀市信楽町)で修行を行なう修験者や、都から逃げ延びてきた落ち武者などが一体となって地侍(百姓に近い身分の下級武士)の集団を形成。

この集団が、室町時代後期に前述の惣へと発展します。

さらに、惣を構成する人員が修験者や落ち武者などが主力で、集団の中に飛び抜けた地位や実力を持った存在がいなかったことが合議制の自治組織誕生の土壌となりました。

そして甲賀流忍者の名を世に広めたのは、1487年(長享元年)の室町幕府と六角家の戦い「長享・延徳の乱」(ちょうきょう・えんとくのらん)でした。

領主の六角家とともに幕府軍を相手に戦った甲賀流忍者は、乱の中で起こった「鈎の陣」(まがりのじん)と呼ばれる戦に参加。敵が攻めてくると亀が手足を引っ込めるように山中に身を隠し、敵が撤退すれば後ろから攻撃を加える「亀六ノ法」(かめりくのほう)という戦法で幕府軍を翻弄します。

そうした神出鬼没なゲリラ戦法や、敵陣に火を放ち指揮系統を乱すなどの破壊工作を繰り返して活躍。一躍、甲賀流忍者の存在が注目を浴びるようになったのです。

そして戦の中でも特に活躍した21の甲賀流忍者の家が六角家から感謝状をもらい、「甲賀二十一家」として以降の甲賀流忍者の中心的役割を担いました。

最後の戦場を駆けた甲賀流忍者

六角家と緩やかな協力関係を築いていた甲賀流忍者ですが、六角家が「観音寺城の戦い」で織田信長に敗れると、今度は織田信長に仕えるようになりました。

以降、織田信長・豊臣秀吉徳川家康と主を変えていきます。3人の中でも、特に徳川家康は甲賀忍者を厚遇しました。そのきっかけとなったのは、関ヶ原の戦いの前哨戦となった伏見城の戦いです。

当時伏見城(京都府京都市伏見区)を居城としていた徳川家康が、会津(現在の福島県西部)の「上杉景勝」を討つため「会津征伐」に出陣した際、甲賀流忍者を含む1,800人余の将兵が守備を任されていました。

しかし上杉景勝に呼応した「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)ら40,000の西軍が、徳川家康の留守を狙って伏見城を攻撃しました。

守備隊は圧倒的な兵力差で劣勢を強いられるも、籠城戦で善戦。最終的に落城し全滅してしまいますが、徳川家康は関ヶ原の戦い後、劣勢のなか伏見城を守り続けた守備隊を高く評価し、その将兵の子孫や遺族を重用。

甲賀流忍者の縁者も取り立て、徳川家康の配下で甲賀出身でもある「山岡景友」(やまおかかげとも)の指揮下に「甲賀百人衆」を編成。江戸城を守る鉄砲隊を任されました。

その後の大坂の陣では鉄砲隊として功績を挙げ、さらに多くの甲賀流忍者が雇い入れられることとなりました。

1637年(寛永14年)には、九州でキリシタンや農民、浪人達が起こした一揆として知られる島原の乱が勃発。乱の鎮圧を任された幕府軍の総大将「松平信綱」(まつだいらのぶつな)に対し、甲賀流忍者達は幕府軍への参陣を志願。志願した300人ほどのうち10人の忍者が現地での諜報活動要員として加わりました。

江戸時代に入り、戦国時代のような戦乱の世でなくなってしまい戦場という活躍の場を求めていた甲賀流忍者が志願したのは当然のことと言えるでしょう。

そして10人は一揆軍の籠城する原城跡長崎県南島原市南有馬町)に忍び込み、城内の状況を調べる役目を任されます。

しかし、突然の参加のため事前準備ができておらず一揆軍内部に内通者が作れていなかったことや、狭い敷地内に多くの市民を含む一揆軍が密集している城内では敵の目を盗んでの活動が困難に。

その結果、塀の高さや沼の深さ、幕府軍の布陣する城から原城までの距離などは記録できたものの、その後行なった城内への侵入は失敗。落とし穴に落ち一揆軍に発見されてしまい、投石などにより2人が重傷を負って退却することとなりました。

甲賀出身の著名な武将

滝川一益(たきがわかずます)
滝川一益

滝川一益

織田信長の家臣であった「滝川一益」も、甲賀の出身として有名です。

滝川一益は鉄砲の腕を見出されて織田信長に仕えるようになりますが、その技術は鉄砲や火薬の扱いに長けた忍術の訓練で磨いたとされています。

しかし滝川一益の主君・織田信長は、甲賀流忍者やその主君・六角家と対立したびたび戦を交えていました。そのため滝川一益は、甲賀の里が記した文献の中で滝川一益の行動に「反逆」の表現を用いられるなど、故郷から裏切り者のような扱いを受けることとなってしまいました。

また、滝川一益が織田信長から拝領したとされる「古備前高綱太刀」(こびぜんたかつなのたち)が、重要文化財として静嘉堂文庫美術館東京都世田谷区)に収蔵されています。

山岡景友(やまおかかげとも)
山岡景友は、徳川家康に仕えた家臣です。

甲賀の出身だったこともあり、関ヶ原の戦いの功績で「甲賀百人衆」を与えられ、同郷の甲賀流忍者をまとめ上げ指揮しました。

また徳川家康が徳川幕府を開いた際には、常陸国古渡藩(ひたちのくにふっとはん:現在の茨城県稲敷市古渡)の初代藩主となりました。

杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅぼう)
「杉谷善住坊」は、織田信長暗殺を企てた忍者です。

金ヶ崎の戦いで、「浅井長政」(あざいながまさ)の離反によって敗走を余儀なくされた織田信長に対し、善住坊は火縄銃での狙撃を実行しました。

しかし織田信長はかすり傷を負うも、致命傷には至らず暗殺失敗。その場では逃亡した善住坊でしたが、後日捕縛され処刑されました。

戦乱の世では生き抜くための技術として発展してきた忍者や忍術でしたが、太平の世となった江戸時代には戦乱が減少しその価値が薄れていきました。

それは甲賀流忍者にとっても他人事ではありません。そんな江戸時代に起こった島原の乱で多くの甲賀流忍者が参陣を志願したのも、忍者の存在価値を改めて世間に認めさせるためだったのかもしれません。

さらには同時期に、甲賀・伊賀の忍者達が流派を超えて忍術を記した書「萬川集海」(まんせんしゅうかい)を作成し、江戸時代中期には江戸幕府へその写本を献上しました。

それまで口頭で伝えてきた忍術を文字として残すことで、忍者の先人達が積み重ねてきた技術を絶やすことがないよう努力した結果、、今日の世に忍者や忍術の詳細が伝わっているのです。

甲賀流忍者

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