実在した忍者

伊賀流忍者

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忍者の力を存分に活かし、最も活躍したのが戦国時代。諸大名は、有力な忍者を雇い入れるために争ったこともあると言われるほど、忍者は重宝されました。この頃から忍者の数が増え、主君を持たない野武士や山賊などが出世の手段として忍者を生業とするようになりました。このようにして、流派の異なる様々な忍者が誕生。数ある流派の中でも代表的な忍者が「伊賀流忍者」です。

伊賀流忍者のルーツ

伊賀流忍者の発祥として、「菊岡如幻」(きくおかにょげん)が著した「伊乱記」に、「上代より伊賀の遺風として、そのいにしえの御色多由也(おいろたゆや)より謀術を伝えて」とあります。

御色多由也は秦の始皇帝の臣「徐福」(じょふく)の日本名と言われています。

始皇帝の命を受けて不老長寿の仙薬(薬草)を求めて日本にやって来た徐福は、紀州(和歌山県三重県南部)の山々を探したが見付からず、日本人に捕鯨や紙漉き、煙草の作り方を教える一方で、忍術も教えたと書かれています。

伊賀の土地柄が優秀な人材を輩出

伊賀流忍者が力を付けた背景には、地形的な理由があります。伊賀国(現在の三重県伊賀市)は、山岳地帯が続くため、忍術のひとつである山岳兵法(山岳地帯における戦いの方法)を磨くことができました。この時代は、多くの山城が築かれたため、山岳地帯での戦も多く、伝令としての役割を忍者が担っていたことから、山を素早く移動できる忍者が重宝されたのです。

しかし、山岳地帯は日本各地にあるため、他の流派も山岳兵法には自信があったはずです。その上で突出して名が知られているのには、伊賀が京都に近く優秀な人材が輩出しやすいということから挙げられます。

そもそも伊賀と京都の距離は、「伊賀向いたら九里」(イガ剥いたら栗)という洒落言葉で表現されるほど近く、実際には9里(約35km)ではありませんが、それほど近いという意味で使われています。伊賀を流れる川は北や西に流れながら淀川(琵琶湖水源の大阪湾に流れ込む川)に合流するため、古来より京都との交流が深い土地でした。

京都に近いと優秀な人材が生まれるのには、3つの理由があります。ひとつ目が、京都は政治の中心で忍者を必要とする組織が多いということです。

どこかに行くためには、徒歩か馬しかない時代、伊賀までの距離が近く依頼しやすいということが利点でした。京都に在住するもしくは出入りする公家や武将達にとっても、伊賀流忍者は利用しやすかったのでしょう。

2つ目に、京都で政争(政権を奪い合いあうことや政治的抗争)に敗れた一族の隠れ里になったり、受け入れていたりしていたことです。こうやって教養を持った人材が流入してきたため、情勢や政治に精通する忍者を育成できました。敵の城に忍び込んで密談を聴き「密談を急報しなければいけない内容なのか、定時報告で十分なのか」などの判断を自身で下せるようになり、様々な場面で活躍したと言われているのです。

3つ目は、2つ目同様に教養ある人材の流入により、文字の読み書きができる忍者が輩出できたこと。そもそも文字の読み書きができる者が少なかった時代で、忍者も必ず求められているわけではなかったため、できなかった忍者も多かったはずです。そのため、文字の読み書きができる忍者が多かった点も、伊賀流忍者の特徴だったようです。

伊賀流忍者の得意技「火術」

伊賀流忍者は、呪術を得意としていました。前述したように京都からの亡命者が多く、その中には、呪術や奇術を得意とした物部家(もののべけ)を祖先とする一族や渡来系民族の服部家などがいました。

代表的な呪術が「九字護身法」(くじごしんほう)です。これは「臨兵闘者皆陣列在前」(りんひょうとうしゃかいじんれつざいぜん)と、両手で印を結び、右人差し指と中指を刀に見立て、九字を切る方法です。

九字護身法は、自己暗示をかけて精神統一を促す「印明護身法」(いんみょうごしんほう:[浄三業]、[蓮華印]など5種類の印を結び呪文を唱える)「十字の秘術」([天]、[龍]、[虎]など十の文字を手の平に書いて、飲んだり握ったりする)とともに用いられました。

伊賀流忍者の得意技「火術」

伊賀流忍者の得意技「火術」

また、呪術の他に、伊賀流忍者は火術を得意としました。映画やマンガで見かける、ピンチに陥った忍者が火薬玉を爆発させて煙とともに消えるといった火術を、実際の伊賀流忍者も最も得意としていたのです。

火薬玉以外にも、火矢や狼煙(のろし:煙を上げて情報伝達する手段)、ほうり火矢(矢が付いていない投擲用の火器)、鉄砲も操ったと言われています。

伊賀は藻草(もぐさ)や樟脳(しょうのう)といった火薬の原料が周囲から入手しやすい土地柄で、火薬に詳しい人物も多かったために発達しました。

伊賀の上忍

戦国時代、伊賀と甲賀の代表的な忍者を総称して「伊賀服部、甲賀望月」と呼び、伊賀の大姓(有力な一族)が服部家で、甲賀は望月家でした。

そんな服部家の中でも「服部半蔵(半三)保長」(はっとりはんぞうやすなが)は、伊賀にいる3人の上忍(忍者の司令官のような存在)のひとりでした。服部半蔵保長は、千賀地(ちがち:現在の三重県伊賀市予野)を本拠としていました。

もうひとりが「百地丹波」(ももちたんば)で、喰代(ほおじろ:現在の三重県伊賀市喰代)、伊賀龍口(いがりゅうぐち:現在の三重県名張市)、大和龍口(やまとりゅうぐち:現在の奈良県宇陀市)などに砦を持っていたとされています。

最後のひとりが「藤林長門」(ふじばやしながと)で、湯舟(ゆぶね:現在の三重県伊賀市湯舟)を本拠としていたとされています。

この3人は、地域を考えると伊賀を三分する忍者の名家だったと考えられているのです。

服部半蔵保長は伊賀を出て松平家(のちの徳川家)に仕えていたため、実際に千賀地を治めていたのは、服部半蔵保長の兄「千賀地保元」(ちがちやすもと)の子「千賀地則直」(ちがちのりただ)だったと言われています。

丹波は天正伊賀の乱においての活躍はわずかですが、織田信長と戦っていたことは文献にも残っています。しかし、長門だけは文献に一切名前が出てきません。ただし、伊賀には3人の上忍がいたというのが忍者伝書「萬川集海」(ばんせんしゅうかい)に残っています。

この著者は長門の子孫「藤林保義」(ふじばやしやすよし)ということで、自分の先祖を偉く見せるために上忍に仕立て上げたのかもしれません。さらに、上忍・中忍・下忍という区別は、本来身分や地位の上下を表す言葉ではなく、忍術の巧拙で表されました。

長門は上忍ではあったが身分は低かったため、藤林保義が誤解させるような文章を書いて、先祖の地位を高く見せたのかもしれないと言われています。

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伊賀流忍者の名を知らしめた出来事

天正の伊賀攻め
天正伊賀の乱とも言われますが、伊賀側が乱を起こしたわけではないため、天正の伊賀攻めと呼ばれる方が多いです。

織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)が、織田信長に良いところを見せようと思ったのか、勝手に伊賀に攻め込みました。

まず、織田信雄は丸山城(三重県伊賀市)を修復させて、攻略の足掛かりにしようとしたところ、南伊賀の土豪が集まって攻撃を仕掛けて砦を落としました。

面子をつぶされた織田信雄はあとに引けず、攻め続けます。人数は劣っていた伊賀側でしたが、山岳の地の利を活かし、山陰から弓や鉄砲を使ったり、夜中に声を上げて夜襲に見せかけたりして、徐々に兵力を削いでいき、勝利しました。

しかし2度目の侵攻では、織田側は準備に時間を費やし大軍で攻めてきました。伊賀側は奮闘するものの、太刀打ちできず城を空けわたすことになったのです。こうして故郷を失った忍者達は各地へ赴いて、そこの大名に雇われるようになりました。

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神君伊賀越え
織田信長が討たれた本能寺の変の直後、自らも身の危険を感じた「徳川家康」が、伊賀・甲賀忍者の支援を受けて摂津国堺(現在の大阪府堺市)から三河国(現在の愛知県東部)に帰還しています。

堺にいた徳川家康は、人目に付く東海道での移動を避けて伊賀国(現在の三重県西部)を経由し三河国へ。地の利を活かした防衛術・生存術に長けた忍者達が、自国を目指す徳川家康とその家臣を警護しました。

この行程を支えた功績から、徳川家康は伊賀・甲賀忍者を兵力として召し抱え重用。江戸幕府が開かれてからも、代々徳川家に仕えることとなりました。

伊賀という土地柄から優秀な忍者が生まれ、裏の舞台で活躍した伊賀流忍者。それが土豪の成長によって表舞台に顔を出すようになり、後世にも名を残す代表的な忍者となりました。現代の忍者のモデルがあるのは、伊賀流忍者の働きがあったからこそでしょう。

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