渋沢栄一の功績

渋沢栄一と渋沢平九郎
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渋沢栄一と渋沢平九郎 渋沢栄一と渋沢平九郎
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「渋沢平九郎」(しぶさわへいくろう)は、「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)の従兄であり義弟、そしてのちに養子となった人物です。1868年(慶応4年)7月、渋沢平九郎は「飯能戦争」(はんのうせんそう)で新政府軍と戦い、黒山(くろやま:現在の埼玉県入間郡越生町)で自刃(じじん:刀物で自分の生命を絶つこと)し、わずか20歳でその生涯を終えたのです。このとき、渋沢栄一は「徳川昭武/民部公子」(とくがわあきたけ/みんぶこうし)を団長とするパリ万博使節団の一員として欧州に滞在していました。渋沢栄一と渋沢平九郎の関係、そして渋沢平九郎の生涯について紹介します。

渋沢栄一の功績渋沢栄一の功績
渋沢栄一に関連する人物、功績・教えについてご紹介します。

渋沢平九郎とは

渋沢平九郎

渋沢平九郎

「渋沢平九郎」(しぶさわへいくろう)は、1847年(弘化4年)、武蔵国榛沢郡下手計村(むさしのくにはんざわぐんしもてばかむら:現在の埼玉県深谷市)の尾高家に生まれました。

渋沢平九郎の母は「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)の父と姉弟。渋沢平九郎にとって、渋沢栄一は7歳上の従兄にあたります。

尾高家は名主(江戸時代の村役人)を務めるほどの豪農で、渋沢平九郎は、6、7歳のときに学問を、10歳頃には渋沢栄一も通った「神道無念流」の剣術を習い始めます。剣術を得意とし、18歳頃には人に教えるほどの腕前に成長。渋沢平九郎の非凡さは他でも発揮され、幼少時、父の浄瑠璃を聞いただけで、周囲の大人が驚くほど上手に謡ったというエピソードも残っています。

兄の「尾高惇忠」(おだかあつただ/おだかじゅんちゅう)や「尾高長七郎」(おだかちょうしちろう)、従兄弟の渋谷栄一や「渋沢喜作」(しぶさわきさく)のちの「渋沢成一郎」(しぶさわせいいちろう)などの影響もあり、「尊皇攘夷」(そんのうじょうい:天皇を尊び、外敵を斥けようとすること)の思想を抱いて、自身も国事に奔走することを夢みていたのです。

1867年(慶応3年)に、渋沢栄一の「見立養子」(みたてようし)となり、このときから渋沢姓を名乗ります。見立養子とは、当時、幕臣が海外へ出向く際、万一に備えて自分の後嗣(こうし:あとつぎ)を指名していくというもの。渋沢栄一もパリ万博使節団の一員となった際、渋沢平九郎を見立養子としました。

また、渋沢平九郎の兄・尾高惇忠は、渋沢栄一より5歳上。幼少期から学問に秀で、17歳で自宅に私塾「尾高塾」を開講。渋沢栄一も、尾高塾で教えを受けたひとり。尾高惇忠は、明治時代に入ると実業家として活躍し、世界遺産「富岡製糸場」(とみおかせいしじょう:群馬県富岡市)の初代所長も務めています。また、尾高惇忠の妹「尾高千代」(おだかちよ)は、渋沢栄一の最初の妻です。渋沢平九郎は、渋沢栄一の従兄であり、義弟、そして養子という関係性でした。

徳川慶喜の護衛「彰義隊」の一員に

大政奉還

大政奉還

渋沢平九郎は、渋沢栄一の見立養子になったことで、1867年(慶応3年)の夏以降、江戸で幕臣の子弟として文武の修行に励みます。

しかし、同年10月、江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が「大政奉還」(たいせいほうかん:江戸幕府の統治権を朝廷に返上したできごと)を行ったことで、自身の進退に迷い、郷里に戻ることを決意。実家に戻った渋沢平九郎は、兄の尾高惇忠に「開国し、海外の文明を取り入れて国を富ますことが大事で、徳川慶喜公の決断は国家を思っての行為。この徳川慶喜公に尽くし、男子の本懐を全うしよう」と叱咤激励されたと言います。

しかし、1868年(慶応4年)、薩摩藩(現在の鹿児島県)と長州藩(現在の山口県)が中心となった「新政府軍」と江戸幕府との内戦「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)が勃発。徳川慶喜は、同年2月の「鳥羽・伏見の戦い」で新政府軍に敗れたあと、徳川家の菩提寺「寛永寺」(かんえいじ:東京都台東区)で謹慎する道を選びます。新政府に対して恭順(きょうじゅん:命令に謹んで従う態度)の姿勢を示したのです。

そして、同年3月15日、江戸幕府側の「勝海舟」と新政府軍の「西郷隆盛」は膝を突き合わせて会談し、同年4月11日に「江戸城」(現在の東京都千代田区)は無血開城となりました。江戸時代は完全に終止符が打たれたのです。

この頃、徳川慶喜の護衛を目的に、旧幕臣らにより軍事組織「彰義隊」(しょうぎたい)が結成されました。頭取は、渋沢栄一の従兄、渋沢成一郎。旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いで敗れたあとも、あくまで江戸幕府に忠義を貫き、幕府を再興することを目論んでいました。兄である尾高惇忠の言葉を深く胸に刻んでいた渋沢平九郎は、兄と共に彰義隊に入隊。

一方で、フランスにいた渋沢栄一に、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れたこと、早く「徳川昭武/民部公子」(とくがわあきたけ/みんぶこうし)と共に帰国して欲しいといった、切実な思いに溢れる書簡を送っています。

上野戦争により彰義隊壊滅

明治維新が進むなか、彰義隊内部で意見の対立が起こり、渋沢平九郎は兄の尾高惇忠と従兄の渋沢成一郎と共に彰義隊を離れ、別に「振武軍」(しんぶぐん)を結成。振武軍は江戸を出て組織の立て直しを図ります。

一方、彰義隊は1868年(慶応4年)5月15日、上野で政府軍と衝突し「上野戦争」(うえのせんそう)が勃発。衝突の知らせを受けた渋沢平九郎達は、もとは同志の彰義隊を援護しようと、夜を徹して上野へ向かいます。しかし、田無(たなし:現在の東京都西東京市田無町)まで来たところで、彰義隊はすでに敗れ壊滅状態であることを知ったのです。

渋沢平九郎の最期

能仁寺

能仁寺

彰義隊の残党を吸収して総勢1,000~1,500人とも言われた振武軍は、再び江戸を離れ、一橋家の領がある飯能(はんのう:現在の埼玉県飯能市)に入り、「能仁寺」(のうにんじ:埼玉県飯能市)に本陣を構えます。

しかし、1868年(慶応4年)5月23日、新政府軍は飯能まで侵攻し、「飯能戦争」(はんのうせんそう)が勃発しました。

渋沢平九郎は、振武軍隊長の渋沢成一郎らと共に150人ほどで出陣しますが、最新装備の新政府軍を前に勝敗は明らかで、振武軍はあっという間に敗れて離散。兄とも離れてしまった渋沢平九郎は落ち延びて、故郷を目指します。

ひとりで郷里を目指す渋沢平九郎に、運命の分かれ道が訪れました。峠の茶屋でしばし休憩を取った渋沢平九郎は、茶屋の主人から落ち延びやすい道を勧められます。しかし、一刻も早く故郷に戻るためか、渋沢平九郎は提案を聞かず、予定していた黒山村(現在の埼玉県入間郡越生町)に降りる道を選択。

道中で新政府軍の兵と遭遇し、争ったものの「もはやここまで」と観念し、自刃に至ったのです。渋沢平九郎は、わずか20歳でした。

渋沢栄一が帰国後、渋沢平九郎の最期が判明

全洞院

全洞院

渋沢平九郎は斬首され、「法恩寺」(ほうおんじ:埼玉県入間郡越生町)門前でさらし首になったのち弔われました。

身近な者が誰も知らないまま、胴体は黒山村の人々によって「全洞院」(ぜんどういん:埼玉県入間郡越生町)に埋葬されたのです。

日本に戻ってきた渋沢栄一は、渋沢平九郎の消息が得られないまま、5年余りを過ごします。

1873年(明治6年)、渋沢平九郎の最期を知る黒山村の人々の情報が入り、ようやく渋沢平九郎の遺骨の存在が判明。渋沢平九郎は、渋沢栄一らによって谷中(やなか:現在の東京都台東区)にあった渋沢家の墓地に改葬され、渋沢平九郎が最期を迎えた場所には、自刃碑も建てられました。

渋沢平九郎が若い命を捧げた彰義隊や振武軍は、ひとつには徳川慶喜の汚名をそそぐことを掲げていました。現代では、徳川慶喜の大英断とも言われる大政奉還ですが、当時は徳川幕府が自ら負けを認めたと、徳川慶喜は逆賊の扱いを受けていたのです。

しかし、徳川慶喜の英断は、「いたずらに権勢を慕えば、世を騒乱に陥れることになる。戦いは断固避けねばならぬ」と熟考の末に至ったもの。渋沢栄一はフランスにありながら、幕末期に徳川慶喜の側近だった経験から、徳川慶喜の思いを十分に理解していました。そして渋沢栄一の養子となった渋沢平九郎は、徳川慶喜の名誉挽回のために立ち上がったのです。

一族から将来を有望視されていたことが窺える渋沢平九郎の夭逝は痛ましい限りですが、渋沢平九郎は渋沢栄一の思いと共に戦ったと言えます。

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