渋沢栄一と重要人物

渋沢栄一と伊藤博文

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「伊藤博文」(いとうひろぶみ)は、日本の初代内閣総理大臣です。「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)が明治新政府の大蔵省(現在の財務省)の官僚として勤務することになったとき、伊藤博文は大蔵少輔(おおくらしょうゆう:現在の大蔵省事務次官である大蔵大輔の次席)役で、言わば部下と上司として出会います。そののち、2人は金融面だけでなく、明治時代の日本の近代化に大きな影響を与える数々の新規事業に共に携わりました。興味深いのは、お札の肖像にまつわる2人の関係です。渋沢栄一は、令和で10,000円札の肖像に選ばれますが、実は、1963年(昭和38年)発行の1,000円札においても肖像の最終候補でした。結果、このときに選ばれたのは伊藤博文ですが、2人の間にはどのような裏話があるのでしょう。

それぞれの立場から新時代を開いた伊藤博文と渋沢栄一

立憲政治の扉を開いた初代総理大臣「伊藤博文」

伊藤博文

伊藤博文

「伊藤博文」(いとうひろぶみ)は、1841年(天保12年)に、江戸時代の長州藩(現在の山口県)で、農家の長男として誕生しました。

「松下村塾」(しょうかそんじゅく)で「吉田松陰」(よしだしょういん)の教えを受け、先輩である「高杉晋作」(たかすぎしんさく)らと尊王攘夷運動を起こし、次いで倒幕運動を展開。明治維新後は、大蔵少輔などの重職を歴任します。

1871年(明治4年)に政府から欧米に派遣された「岩倉具視」(いわくらともみ)を正史とする「岩倉使節団」に「大久保利通」(おおくぼとしみち)や「木戸孝允」(きどたかよし)らと共に参加。そののち、伊藤博文は大久保利通の信頼を得て、彼を支えていきます。

工部省(こうぶしょう)の初代工部卿となった1873年(明治6年)から1878年(明治11年)においては、日本の近代国家建設の社会基盤整備と殖産興業を推進。自由民権運動が高まると、政府内で立憲政治への移行が浮上し、その方針をめぐり「大隈重信」(おおくましげのぶ)と対立することになります。

「明治14年の政変」で大隈重信を退けると、1885年(明治18年)に内閣制度を創設し、初代内閣総理大臣に就任しました。憲法作成にも着手し、1889年(明治22年)に「大日本帝国憲法」(明治憲法)を発布。伊藤博文は、計4度も内閣総理大臣を務めます。

「日露戦争」後、韓国を事実上の保護国とした際には、初代韓国統監も務めましたが、1909年(明治42年)、中国のハルピン駅で韓国人に暗殺され、その生涯を終えました。

日本の資本主義の父「渋沢栄一」

1840年(天保11年)に、現在の埼玉県深谷市にある豪農の家に生まれた「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、伊藤博文と1歳違いです。

実は渋沢栄一も、徳川幕府による統治の未来に限界を感じ、若い頃は過激な尊王攘夷論者として横浜の外国人居留地区焼き討ちなどを計画。

結果的に実行に及ばず、そののち、渋沢栄一に惚れ込んだ一橋家家老待遇「平岡円四郎」(ひらおかえんしろう)の推挙により、25歳のときに一橋家に仕官。のちの江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」に、武士として仕えます。

1867年(慶応3年)、渋沢栄一が27歳のときに、徳川慶喜の弟「徳川昭武/民部公子」(とくがわあきたけ/みんぶこうし)率いるパリ万博使節団の一員として渡欧。欧州で学んだ、金融や株式会社の仕組みなど経済の諸制度の知識を活かして、帰国後は大蔵省(現在の財務省)の官僚となり、貨幣制度や金融財政改革を行っていきます。

しかし、1873年(明治6年)、緊縮財政案が政府の中枢に受け入れられなかったことなどをきっかけに大蔵省を退官。直前に設立していた「第一国立銀行」(現在のみずほ銀行)の頭取に就任します。

そののち、「王子製紙株式会社」や「東京ガス株式会社」、「東京海上火災保険株式会社」、「サッポロビール株式会社」など、現代において誰もが知る企業も含めた約500社もの会社設立に携わりました。渋沢栄一が日本の近代化にもたらした功績は大きく、「日本の資本主義の父」と称されています。

晩年、汽車内で渋沢栄一と伊藤博文が交わした会話とは

渋沢栄一と伊藤博文は、近代日本の経済と政治をそれぞれの立場から育てた人物です。この2人の交流は様々ありますが、渋沢栄一は、晩年に伊藤博文と交わした会話が心に深く残っていると語っています。

1901年(明治34年)頃、渋沢栄一は神奈川県の大磯から帰る汽車のなかで伊藤博文と偶然出くわします。このとき伊藤博文は、「渋沢さんはいつも徳川慶喜公を誉めたたえておられますが、実は私は立派な大名のひとりくらいに思っておりました。しかし最近、徳川慶喜公は非常に優れた立派な方であることを知りました。」といった内容を語りだしました。渋沢栄一は、なかなか人を信用せず、認めない伊藤博文が、なぜ今、このような話をするのか疑問に感じ、そう思った理由を尋ねます。

2人が汽車に乗り合わせた一昨夜、有栖川宮家でスペインの王族を迎えた晩餐会がありました。伊藤博文は、ともに招かれた当の徳川慶喜と次のような会話をしたと語ったのです。

伊藤博文は徳川慶喜に、維新の初めの頃、尊王を大事に考えていた動機について尋ねました。すると徳川慶喜は迷惑そうに、「水戸家の教えを守ったに過ぎない」と答えます。水戸家は義公(ぎこう:水戸光圀[みとみつくに]の尊称)の時代から皇室を尊ぶことをすべての基準にしていたのです。徳川慶喜の父「徳川斉昭」(とくがわなりあき)も同様の志を貫いていました。そして徳川慶喜は、常々「今後、朝廷と徳川本家との間で戦争という大変なことにもなったとしても、水戸家は朝廷に対してを引くようなことはしてはいけない」と教えられて育ったと続けます。

徳川慶喜は、幼いとき、この言葉をそれほど重要に捉えていなかったと言いますが、20歳になり、再度父から念を押されたと言うのです。「黒船が来航するなどし、こののち、世の中はどのように変わるか分からない。先祖代々受け継がれてきた水戸家の家訓を忘れるではないぞ」と。徳川慶喜は、「この言葉がいつも心に刻まれていたので、ただそれに従ったまでです。」と伊藤博文に語ったのです。

この返答に感銘を受けた伊藤博文は、徳川慶喜を奥ゆかしく、本当に偉大な人物だと、渋沢栄一に話しました。渋沢栄一は、伊藤博文が徳川慶喜の真の思いを深く理解してくれたことに心を熱くしたと言います。

そののち、1909年(明治42年)に渋沢栄一は、伊藤博文がハルビン駅で暗殺されたという訃報をアメリカで受け取りました。当初は容易に信じられず、「もし事実とするなら」と伊藤博文の功績を語りながらも、哀哭(あいこく:声を上げて泣き悲しむこと)して言葉に詰まったと伝わっています。

徳川十五代将軍一覧
徳川家康を含む、江戸幕府を治めた徳川家15人の将軍についてご紹介します。

1963年改訂版1,000円札の候補となった渋沢栄一と伊藤博文

2024年度から発行の10,000円札

2024年度から発行の10,000円札

1963年(昭和38年)11月に新しく発行された1,000円札の肖像には、「明治天皇」、伊藤博文、岩倉具視、「野口英世」、渋沢栄一、「内村鑑三」(うちむらかんぞう)、「夏目漱石」、「西周」(にしあまね)、「和気清麻呂」(わけのきよまろ)という9人の候補が挙がりました。

そのなかから、最終候補に絞られたのが、伊藤博文と渋沢栄一の2人。結果的に、昭和38年の新1,000円札の肖像には伊藤博文が選ばれたわけですが、実は、この決定の裏にあったのは、「髭」(ひげ)の存在だったと言います。

当時の技術では、偽造防止のために髭をたくわえた人物の方が良いと言うことで、髭がなかった渋沢栄一は伊藤博文に敗れたのです。現在は、偽造防止の技術も向上。渋沢栄一は、令和における10,000円札の肖像に採用されるに至りました。

渋沢栄一と伊藤博文

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東京都北区の渋沢史料館

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「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、在官中に製紙会社を起業し、現在の東京都北区王子に工場を設立しました。渋沢栄一が実業家としての第一歩を歩み始めた東京都北区は、そのあとも渋沢栄一にとって特別な町となっていきます。渋沢栄一が実業家人生を送ったゆかりの町である「東京都北区」と、晩年を過ごした旧邸跡に建つ「渋沢史料館」について見ていきましょう。

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渋沢栄一の名言

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「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、明治時代に経済や商工業の面で日本を近代国家にすべく奔走した、「日本の資本主義の父」と呼ばれる人物です。驚くのは、生涯に何と500もの会社を設立したこと。渋沢栄一が立ち上げにかかわった会社を紹介すると、みずほ銀行やサッポロビールなど誰もが知っている会社がズラリと並びます。まさに渋沢栄一は、日本経済の礎を築いた人物と言えるのです。 渋沢栄一の経済を見る才能が大きく花開いたきっかけとなったのは、明治維新前後の約2年間、パリ万博幕府使節団の一員としてフランスをはじめとする欧州各国を訪問したこと。特に、パリの銀行家「フリュリ・エラール」との出会いは、渋沢栄一の「近代日本経済の発展に一生を捧げよう」という意思を力強く後押ししたものでした。そんな2人の出会いと、渋沢栄一がフリュリ・エラールから学んだポイントを紹介しましょう。

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渋沢栄一と大隈重信の出合い

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「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)と「大隈重信」(おおくましげのぶ)は、明治政府において、部下と上司の関係で仕事をした間柄です。渋沢栄一が「大蔵省租税正」(現在の財務省主税局長)着任を要請されたとき、「大蔵大輔」(おおくらたいふ:現在の財務省事務次官)を務めていたのが大隈重信でした。 渋沢栄一は当初、大蔵官僚として新政府で働くという要請を断るため、大蔵省に出向きますが、「浩然の気に満ちた人」(こうぜんのき:天地にみなぎっている、万物の生命力や活力の源となる気のこと)であった大隅重信に説得されて受諾。結果的に、渋沢栄一が広く社会で活躍するきっかけを作ったのが大隈重信と言えるのです。この2人の間にどのようなやりとりがあったのでしょうか。また、渋沢栄一が評する「浩然の気に満ちた大隈重信」とはどういう人物だったのでしょう。

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