渋沢栄一と重要人物

渋沢栄一と大久保利通

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薩摩藩(現在の鹿児島県)出身の「大久保利通」(おおくぼとしみち)は、幕末に「西郷隆盛」と共に、長州藩(現在の山口県)と「薩長同盟」を締結するなど、討幕や明治維新において活躍した人物です。明治政府では初代内務卿(太政官制における首相)として実権を握り、近代国家の建設をけん引しました。
「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、大久保利通について「お互いに相手が嫌いだった」と表現すると同時に、大久保利通は達識(たっしき:物事を広く深く見通す見識)の人物であり、「公の日常を見るたびに、器ならずとは大久保公のごとき人を言うのであろう」とも語っています。大久保利通の「器ならず」とはどのようなものか、2人の関係性と共に紹介しましょう。

幕末から明治の日本をけん引した大久保利通

下級藩士から首相まで走り抜けた鹿児島の雄

大久保利通

大久保利通

「大久保利通」(おおくぼとしみち)は、1830年(文政13年/天保元年)、薩摩藩(現在の鹿児島県)の下級藩士の子として生まれました。

青年となった大久保利通は、囲碁を通じて藩主「島津斉彬」(しまづなりあきら)の目に留まるようになり、幼馴染だった「西郷隆盛」と共に、幕末の表舞台に登場することになります。

薩摩藩では「尊王攘夷」(そんのうじょうい:天皇を尊び、外敵を斥けようとすること)を唱える若手藩士のリーダー的存在に成長し、やがて31歳という若さで島津斉彬の異母弟、「島津久光」(しまづひさみつ)の側近に抜擢。「公武合体」(こうぶがったい)策を進める藩政にかかわるようになります。

そして大久保利通は、西郷隆盛と共に薩長同盟締結に奔走し、倒幕の中心人物として活躍。ついには、王政復古により徳川の世を終わらせたのです。

江戸幕府終焉後の大久保利通は、明治新政府でも中枢を担い、西郷隆盛や「木戸孝允」(きどたかよし)別名「桂小五郎」(かつらこごろう)、「岩倉具視」(いわくらともみ)らと政治を主導。廃藩置県など明治時代前期における大改革を成し遂げます。

1871年(明治4年)、41歳のときには、「岩倉遣外使節団」の副使として欧米を視察。西洋の進んだ技術や文化に圧倒され、「富国強兵」(ふこくきょうへい:資本主義化と近代的軍事力創設を目指した政策)の必要性を痛感したと言います。

帰国後は初代内務卿に就き、現在、世界遺産に認定されている「富岡製糸場」(とみおかせいしじょう:群馬県富岡市)の創始など、殖産興業による日本の近代化に向けて尽力しました。

しかし活躍の最中、不平士族に襲われ、1878年(明治11年)に非業の死を遂げたのです。

大久保利通を嫌うも、偉大さを痛感していた渋沢栄一

歳費問題で対立した2人

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、1840年(天保11年)生まれで大久保利通から見て10歳年下です。当時の10歳差は、今の感覚とは大きく異なるもの。

渋沢栄一は、かなり上の立場だった大久保利通について、自著で「大久保利通に嫌わる」と見出しを付けて書いています。

1869年(明治2年)から大蔵官僚として働いていた渋沢栄一に対して、大久保利通は1871年(明治4年)に大蔵卿(大蔵大臣)として就任。就任早々、大久保利通は、渋沢栄一を同列の大蔵大丞(おおくらたいじょう:実務上の最高位)と共に呼び出します。

話の内容は、陸軍省の歳費額を8,000,000円、海軍省の歳費額を2,500,000円とする政府の決議について、「大蔵省[現在の財務省]としては受けるつもりだが良いか」と尋ねるものでした。可否を尋ねる体裁は形式上のことで、大久保利通のなかではすでに決定事項です。

渋沢栄一は大久保利通の思考を理解しつつ、明確に反対の意を伝えました。政府の方針に沿うことが希望ではあるものの、当時、大蔵省は全国の歳入額の把握に努めている最中。まだ正確な額が掴めておらず、現状から考えて政府が巨額な軍事費を安易に定めるのは財政上危険だと考えたのです。

また、陸軍と海軍が額を決めてしまうと、他の省からも予算要求が舞い込み、そうなれば国家財政が破綻しかねません。渋沢栄一は、論理的な理由から歳費額は歳入額に応じて決めるしかなく、今回の決定はしばらく見合わせて欲しいと大久保利通に述べたのです。

自分の意に反する渋沢栄一の主張に大久保利通は激昂し、色を帯びた顔と激しい口調で「渋沢は我が国の陸海軍がどうなっても構わないのか」と詰問したと言います。

渋沢栄一も負けず、「我が国の陸海軍の早急な近代化が必要であることは十分に承知している。しかし、歳入額が明らかでない今、巨額の支出を決めるのは会計の理に反している。ご質問があったゆえ、意見を述べたまで。」と返答。しかし、結果的には渋沢栄一以外の反対がなかったため、政府の決定に沿って進められました。

渋沢栄一の著書「渋沢、大久保に反抗す」によると、腹の虫が治まらなかった渋沢栄一は、ただちに辞表を提出しようと直属の上司であった「井上馨」(いのうえかおる)のもとを訪れますが、このときは井上馨に慰留され大蔵省に残ることに。

渋沢栄一はのちにこの件を振り返る際、大久保利通について大蔵省の主権者でありながら財政が分かっていないという不信が芽生えたと書いています。また、渋沢栄一は大久保利通の偉大さを認めつつ、「なんだか嫌な人だと感じたものである。大久保公もまた、私を嫌な男だと思われたと見え、私は大変、公に嫌われたものである」と表現。

しかし渋沢栄一は、大久保利通との「嫌い嫌われる関係」を語るなかで、「私などは特にそうだが、若いうちは遠慮なく思ったままを言ってしまい、人に嫌われたりすることにもなる。しかし、長いうちには結局、本当のところが人にも知られるようになるから、青年諸君はこのあたりを心得ておくことが大事だ」とも綴っています。

器ならずな大久保利通を物語るエピソード

渋沢栄一は、歳費案の一件で辞任も考えるほど大久保利通に憤慨しつつ、著書「実験論語処世談」で「大久保公は、私にとって虫の好かぬ嫌な人であったにしろ、公の達識には驚かざるを得なかった。私は大久保卿の日常を見るたびに、器ならずとは、公のような人を言うのだろうと、感嘆の情を禁じえなかった」と書いています。渋沢栄一にとって、大久保利通は全く底の知れない人であり、素直に偉大だと思うと共に、何となく気味悪くも思え、それが大久保利通を嫌な人だと思う一因かもしれないと考えていたのです。

「器ならず」とは、「君子は器ならず」と言う、特定のことだけで役立つのではなく、様々な方面で自由に才能を発揮できることが望ましいという意味の論語です。

大久保利通の暗殺理由のひとつに、「国の金を無駄遣いしている」との糾弾がありました。しかし死後の調査で、大久保利通の銀行口座に預金はほぼなく、逆に現在の価値で1億円以上もの債務を負っていたことが分かっています。

実は、大久保利通は改革を進めるなかで、必要な資金が足りなかった場合に、身銭を切って賄っていたのです。そして大久保利通の死後、その債権を取り立てる者は現れませんでした。渋沢栄一が感じた器ならずな大久保利通は、私利私欲のためではなく、新しい日本のために尽くすことだけを考えていた人物で、周囲にもその想いが伝わっていたことを物語っています。

渋沢栄一と大久保利通

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