渋沢栄一と重要人物

渋沢栄一と井上馨

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幕末に長州藩士として活躍した「井上馨」(いのうえかおる)は、明治政府では「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)の直属の上司となった人物です。渋沢栄一が「大隈重信」(おおくましげのぶ)の強い説得により大蔵省(現在の財務省)の官僚になった際、大蔵大丞(おおくらたいじょう)と言う実務のトップを務めていたのが井上馨でした。井上馨は、理財(財貨の有効運用)の才能が突出していたと言われています。渋沢栄一は、井上馨の右腕として活躍。度量衡(どりょうこう)や租税制度の改正、貨幣・禄制の改革、鉄道敷設など、次々と重要案件を手掛け、スピード出世していきます。そんな2人の関係を物語る逸話を紹介しましょう。

明治新政府で共に奔走した渋沢栄一と井上馨

井上馨

井上馨

長州藩(現在の山口県)、藩士の子として生まれた「井上馨」(いのうえかおる)は、やがて藩主「毛利敬親」(もうりたかちか)の側近となります。

幕末期当初は、「松下村塾」(しょうかそんじゅく:山口県萩市)の門下生と「尊王攘夷運動」(そんのうじょういうんどう:江戸時代末期に起こった反幕排外運動)に加わり、「高杉晋作」(たかすぎしんさく)らと「イギリス公使館襲撃」なども共謀。

しかし、1863年(文久3年)に「伊藤博文」(いとうひろぶみ)らとイギリスへの留学を経験すると、開国論に転向しました。

明治維新後の1871年(明治4年)、明治政府では大蔵大輔(おおくらたいふ:現在の財務省事務次官)となり、「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)らと共に、国の金融システムを大きく変える一大プロジェクト「貨幣制度改革」を実施します。

1873年(明治6年)に大蔵省(現在の財務省)を辞職後、一旦、実業界に身を置きますが、2年後には伊藤博文の強い要請もあり、政界に復帰。1885年(明治18年)の第1次伊藤内閣では、外務大臣に就任しています。

そののち、各種大臣職を歴任しました。突出した理財の才能があった井上馨は、大蔵省時代から三井財閥をはじめ、実業界とも深いかかわりを持ち、「三井物産」(東京都千代田区)の前身となった会社を設立した他、「日本郵船」(東京都千代田区)の設立にも尽力。鉄道事業などにも関与しました。

予算公表制度のきっかけを作った渋沢栄一と井上馨

渋沢栄一は、大蔵省でこの井上馨を直属の上司として新しい制度を創り、様々な改革を実行していきます。2人は大蔵省内でそれぞれ大きく出世。しかし、井上馨が大蔵省の実質的なトップである大蔵大輔、渋沢栄一が大蔵大丞として実務トップを担っていた1873年(明治6年)、2人は共に大蔵省をすっぱりと辞めるのです。渋沢栄一が33歳のときでした。

辞職の要因となったひとつには、大蔵省から内閣に入った「大隈重信」(おおくましげのぶ)との財政政策を巡る対立がありました。

大隈重信は財源を無視して積極財政を推し進めようとし、一方、井上馨と渋沢栄一は緊縮財政を主張。

その結果、大蔵省にあった予算編成権が正院(内閣)に移されることになり、これに抗議する形で井上馨と渋沢栄一は辞任したのです。

具体的に言うと政府首脳陣は、学校制度や司法制度の整備などの急激な近代化に着手するため、全国に学校や裁判所などを設置する予算を大蔵省に要求します。

これに、井上馨と渋沢栄一は反対の意を示したのです。反対の理由は明白で、1871年(明治4年)の廃藩置県により明治政府は旧藩士の家禄や藩債を引き継ぎ、さらに1873年(明治6年)1月の徴兵制により軍事費も増大。

当時、日本の財政は非常に厳しく、井上馨と渋沢栄一らは、地租(土地を対象に賦課された租税)による安定した税源の確保と家禄処分による歳出カットを目指すことなどで奮闘しており、「入ヲ量リテ出ヲ制スル」という立場は、何が何でも譲れないものでした。財政を鑑み、早急な近代化のための出費は受け入れられなかったのです。

結果的に大隈重信らの主張に敗れた井上馨と渋沢栄一は、大蔵省を去るわけですが、このできごとは、現在の日本政府が毎年の予算を公表する予算公表制度のきっかけに大きくかかわっています。

井上馨と渋沢栄一は、辞表を提出すると共に、政府の方針には1,000万円もの歳出超過があることを指摘した政府財政に関する「建言書」(けんげんしょ:官庁などに対して意見をまとめた文書)を連名で提出。新聞にも公表したことから、大きな物議を醸し、政府はこれを鎮静化させるために、1873年(明治6年)の歳入出見込会計表を発表。ここから我が国の予算公表制度が始まったのです。

渋沢栄一による井上馨の評価

1840年(天保11年)生まれの渋沢栄一と、1835年(天保6年)生まれの井上馨は、井上馨が5歳年上。井上馨は非常に弁が立つ人物で、ガミガミ屋としても知られていました。また、大蔵大輔のときには、事実上の大蔵省のトップとして「今清盛」と呼ばれるほどの権勢を振るったとも言われています。井上馨と大隈重信は、大隅重信の仲介で結婚するような間柄でしたが、その大隈重信とも真っ向から対立。信念を曲げない気性の持ち主であったことが窺えます。

渋沢栄一自身は井上馨のことを、感情家で失敗に対して容赦がなく、人や物事の良いところではなく、悪いところを見る面があると評価。著書のなかで、井上馨との関係について「井上候はすこぶる機敏の人で、見識も高く、よく私を諒解[了解]して下されたのみならず、また至って面白い磊落[らいらく:度量が広く、小事にこだわらないこと]なたちで、私と一緒になって楽しむいわゆる遊び仲間にもなられたので、井上候と私とは肝胆[かんたん:心の奥底]相照らす親しい間柄にまで進んだ」と書いています。

また、財政政策の方針では2人の意見は一致しており、渋沢栄一が大蔵省を辞める決意をしたとき、井上馨は「下野[げや:官職を辞め民間に下ること]して好きなようにするのも良い」と共感。渋沢栄一は井上馨に対し、同志としての思いを強く抱いていたと予測できます。

ただ、渋沢栄一と井上馨の大蔵省を去ったあとの道は違っていました。再び政府に戻った井上馨に対し、渋沢栄一は民間人であり経済人としての道を歩み続けたのです。

渋沢栄一著「論語と算盤」には、「もちろん私も井上さんと同じく、内閣と意見は違っていたけれど、私の辞したのは喧嘩ではない。主旨が違う。当時の我国は、政治でも教育でも着々改善すべき必要がある。しかし、我が日本は商売が最も振るわぬ。これが振るわねば、日本の国富を増進することができぬ。」と記されています。

渋沢栄一はこうした思いから政界に戻らず、経済界から日本の近代化に貢献したのです。

渋沢栄一と井上馨

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