渋沢栄一と重要人物

渋沢栄一と徳川昭武

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明治維新へ突入寸前の幕末に、「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)はフランスのパリにいました。渋沢栄一が渡仏した目的は、1867年(慶応3年)に開催されたパリ万国博覧会へ、江戸幕府が派遣する「パリ万博使節団」の一員として参加すること。このときの経験が近代日本における「資本主義の父」と呼ばれるほどの偉業を成し遂げることに繋がるのです。そして、このパリ万博使節団の団長が、「徳川慶喜」の弟である「徳川昭武/民部公子」(とくがわあきたけ/みんぶこうし)でした。当時の徳川昭武は、まだ14歳。渋沢栄一が、なぜパリ万博使節団の一員に選ばれたのかを含め、徳川昭武との関係をご紹介します。

徳川慶喜の弟であり水戸藩最後の藩主・徳川昭武

徳川昭武

徳川昭武

「徳川昭武/民部公子」(とくがわあきたけ/みんぶこうし)は、水戸藩(現在の茨城県)9代藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の十八男で、江戸幕府最後の将軍「徳川慶喜」の弟です。

1866年(慶応2年)に、「徳川御三卿」のひとつである「清水徳川家」の当主となり、のちに水戸藩最後の藩主となります。

徳川御三卿とは、「水戸徳川家」と「尾張徳川家」、「紀州徳川家」から成る「徳川御三家」に次ぐ地位を持ち、御三家同様、徳川将軍家に嗣子がない場合に、将軍を世に送り出す資格を有していた「田安徳川家」と「一橋徳川家」、そして清水徳川家のこと。大名のように独立した領地を持つことがない代わりに、「江戸城」(現在の東京都千代田区)内に屋敷があり、家臣は江戸幕府から派遣され、将軍家とは家族のような間柄でした。

14歳の初々しいパリ万博使節団団長

1867年(慶応3年)、当時、民部公子と呼ばれていた徳川昭武に、日本を背負う大きな役割が託されます。フランスのパリにおいて、春から秋にかけて、かつてない規模で開催されるパリ万国博覧会に、江戸幕府15代将軍となった徳川慶喜の名代(みょうだい:ある人物の代わりを務める者)として、派遣されることになったのです。

このパリ万国博覧会への日本の参加は、幕末期における列強諸国の間で起こっていた派遣争いが絡んでいました。駐日フランス公使の「レオン・ロッシュ」が、日本もフランスと通商条約を結んでいる以上、皇帝ナポレオン3世主催のパリ万国博覧会へ代表使節を派遣することが国際的儀礼であると、江戸幕府に対して熱心に建言。

徳川慶喜はこれを了承し、その団長に弟の徳川昭武を選んだのです。徳川昭武は、このときまだ14歳でした。

渋沢栄一がパリ万博使節団に参加した理由

徳川昭武率いるパリ万博使節団には20数名が随行し、そのひとりとして経済に明るい「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)が選ばれます。渋沢栄一が27歳の頃でした。

これは、渋沢栄一が「尊王攘夷」(天皇を敬い、外敵を排除しようとする思想)論者の一農民から、一橋徳川家に仕官する武士となり、さらには、幕臣になってわずか4年ほどのこと。

驚くべき急展開ですが、渋沢栄一のフランス行きは、徳川慶喜直々のお声がかりによるものでした。

一橋徳川家中で出世した渋沢栄一は、藩のレベルではありますが、今で言う財務省の事務方トップに当たる、「勘定組頭」(かんじょうくみがしら)に就任。そして、藩札を刷って世の中に流通させる構想を打ち立て、実際に藩札引き換えの会所も設立。荷為替手形(にがわせてがた:輸出代金の決済のために、買主を支払人として、売主である輸出者が振り出した為替手形)に関する貸金の手続きを行ったり、お金の貸付業務をしたりするなど、現代の日本経済における「造幣局」(大阪市北区)や「日本銀行」(東京都中央区)、そして「民間金融機関」が担う役割を、自ら構築して実践したのです。

パリ万国博覧会のあと、そのまま現地での留学も予定されていた14歳の徳川昭武が、長期のフランス滞在を滞りなく行うためには、勘定方(かんじょうかた:江戸幕府や各藩において、金銭の出納を担当した役職)が十分に務められ、徳川昭武の身の回りにおける雑事も扱う者が必要。渋沢栄一は、まさにその適任者でした。

さらには、徳川昭武のお付きとして水戸藩から7人の藩士のお供が要望として出されため、外国人を敵対視する頑固な水戸藩士と、他の随行者との仲介役も必要。そこで徳川慶喜は、「渋沢栄一を派遣するのが良い。渋沢栄一ならば思慮があり、臨機応変の対応が取れる。学問の心得もあり、人間性もしっかりしている。それに前途有望な人物だから、渋沢栄一自身が海外を知ることも大事だ。」と語り、渋沢栄一を推挙したのです。

このパリ万博使節団派遣がなければ、渋沢栄一の運命は大きく変わっていたかもしれません。

なぜなら、このとき渋沢栄一は、自身が仕える一橋慶喜が江戸幕府15代将軍の座に就いたことで、例えようのない大きな葛藤を抱えていました。

のちに渋沢栄一は、「自分は実に逆境の人となった。」と語っていますが、これは、「もともと倒幕を志していた自分が、一橋徳川家に仕官しただけでも自己矛盾なのに、徳川慶喜が将軍になることで自動的に幕臣にまでなってしまった。これほど初志に反することはない。」ということを意味しています。

しかし、その思い以上に渋沢栄一を悩ませていたのは、様々な状況から判断して、いずれ江戸幕府は、倒れる運命にあることに強い確信を抱いている自分が、江戸幕府を延命させるため、倒幕派の征伐に乗り出す立場にならざるを得ないということ。一時は農民に戻ることさえ考えたほどの葛藤が、渋沢栄一のなかにあったのです。

そんな思いを抱えたまま、渋沢栄一は心ならずも幕臣として、「陸軍奉行支配調役」(りくぐんぶぎょうしはいしらべやく)に任じられます。そして、京都の屯所(とんしょ)に勤務していた渋沢栄一のもとに舞い込んだのが、パリ万博使節団の一員への要請。渋沢栄一は、「喜んでフランスに行かせて頂きます」と、二つ返事で承諾します。のちに渋沢栄一が果たした活躍を考えると、パリ万博使節団への参加を決めたこの瞬間は、渋沢栄一にとってこれからの道が一気に開けた瞬間でした。

渋沢栄一は、「私はもう攘夷論者ではありません。今は、外国のことを知りたいと強く願っております。」と答え、徳川慶喜直々の要請であると聞かされると、その期待に応えるべく、徳川昭武の洋行(欧米への旅行、または留学)に、心魂(しんこん)を傾けることを誓ったのです。

ヨーロッパの発展に目を見張り学んだ2年間

徳川昭武率いるパリ万博使節団一行は、1867年(慶応3年)1月に、横浜港を出港。上海や香港、ベトナムのサイゴン、シンガポール、スリランカなどに立ち寄り、当時、掘削(くっさく)工事が進められていたスエズ運河なども見聞しつつ、フランスのマルセイユ、リヨンを経てパリに入りました。

そして彼らは、パリ万国博覧会への参加を終えたのち、欧州各地を視察。

スイスやオランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなどを訪れ、欧州列強のすさまじい産業の発展や軍事力に驚嘆しながら、近代国家の社会や経済の仕組み、様々な分野における最新技術など、多くのことを学んだのです。

そして渋沢栄一は、日本がこれらの列強諸国に追い付くためには、欧州各国などの海外で、すでに始められていた新しい社会構造や経済活動の仕組みなどを、早急に取り入れなければならないと痛感しました。

渋沢栄一達が、約2年間の洋行を終えて帰国したのは、1868年(慶応4年/明治元年)の終わりでした。1867年(慶応3年)に「大政奉還」が行われ、明治新政府からの帰国命令を受けてのことです。渋沢栄一は、予測していたこととは言え、パリの空の下で「江戸幕府が倒れた」との報を受け取った際の驚きは、言語に絶するような思いだったことを、のちに語っています。

徳川昭武は帰国後、水戸藩最後の藩主に。1876年(明治9年)には、アメリカ大博覧会の御用掛(ごようががり)として渡米し、そののち、再びフランスに留学しました。帰国後は、長年に亘って「明治天皇」に奉仕する道を歩みます。

渋沢栄一は明治政府に招かれ、欧州で学んだことを存分に活かし、大蔵省(現在の財務省)の一員として新しい国づくりに深くかかわりました。そして、1873年(明治6年)に大蔵省を辞したあとは、民間経済人として大いに活躍していくのです。

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渋沢栄一と西郷隆盛の出合い

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渋沢栄一とフリュリ・エラール

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