江戸時代、現在の福岡県久留米市近辺にあたる久留米藩の基礎を築いた「有馬忠頼」(ありまただより)。その有馬忠頼が身に付けたと伝わるのは、通称「大熊」と呼ばれる甲冑「熊毛植五枚胴具足」(くまげうえごまいどうぐそく)です。ここでは、有馬忠頼という人物を甲冑を通して見ていきます。
熊毛植五枚胴具足
熊毛植五枚胴具足の肩や胴、太腿まわりを守る部分を覆うのは「熊の毛」とされており、兜から伸びた大きな角と合わせて、大熊のような強さや迫力を表現。
正面の前立には「獅噛」(しかみ)という鬼のような表情をした獅子の飾りが付いています。
獅噛は、霊獣とされた獅子が噛んでいる飾りのことで、力強さを表しており、甲冑や仏像、火鉢の脚などの飾りとしてよく用いられた物。大きな角と共に、戦場で威厳を放っていたのではないでしょうか。
戦国の乱世が終わり江戸時代になると、大名家にはその家らしい特徴を受け継いだ「御家流」の甲冑が作られるようになりました。有馬家も、この大熊の甲冑の特徴的な形が継承されています。
4代藩主である有馬頼元が身に付けたと伝わる甲冑は「小熊」と称され、有馬忠頼の甲冑を写した物。籠手に銀象嵌が施され、大熊よりも華美に作られています。
獅噛兜は、以降も有馬家に継承され、有馬家を特徴付ける物となったのです。
※2018年(平成30年)現在「熊毛植五枚胴具足」は、個人蔵とされています。
1603年(慶長8年)、有馬忠頼は丹波国(現在の京都府)福知山城主「有馬豊氏」(ありまとようじ)の次男として生まれます。母親の「連姫」(れんひめ)は、徳川家康の養女であったため、徳川家康は子の誕生をとても喜んだと言われています。
1637年(寛永14年)に起きた「島原の乱」では、父と共に参加。39歳のときに父が亡くなり、家督を継いで筑後国(現在の福岡県)久留米藩主となりました。
そもそも有馬忠頼が継いだ有馬家は、もともと播磨国(現在の兵庫県西南部)などを支配した「赤松満祐」(あかまつみつすけ)氏がルーツとされています。15世紀に入ると、赤松氏の支配する播磨国で一揆が発生するなど、赤松氏の立場が揺らぎ始めます。
さらに6代将軍足利義教(あしかがよしのり)が赤松氏の本家を冷遇し庶流の血筋を優遇。それが原因で赤松満祐は、足利義教を暗殺します。
これが、1441年(嘉吉元年)に起きた「嘉吉の乱」(かきつのらん)と呼ばれる出来事で、赤松氏は幕府軍から追い討ちされるのです。
水天宮(福岡県久留米市)
有馬家は1620年(元和6年)、筑後国久留米に21万石を拝領。有馬忠頼は父に次いで、久留米藩の第2代藩主として治水工事や学問奨励など藩政に務めます。
そして「水天宮」(すいてんぐう:当時は尼御前大明神と尊称)の社殿を造営するため、城下の筑後川近くの広大な土地を寄進した、と水天宮の由来に書かれているのです。
その後、第9代藩主の「有馬頼徳」(ありまよりのり)によって、参勤交代の最中も江戸で水天宮へとお参りできるよう、江戸にあった有馬藩邸に水天宮(東京都)が作られました。
それ以降は当主と共に場所が移り、2018年(平成30年)現在は東京都中央区日本橋にあります。毎月5日に限り、お屋敷の門を開き、人々のお参りを許したことから「なさけありまの水天宮」と、その情け深さを慕われました。
城下に土地を用意して社殿の造営をしたという話だけであれば、信心深い心の持ち主だったという話で終わります。しかし、有馬忠頼は敬神の心を持つ半面で、性格はやや激しい面があったと言われているのです。
西本願寺のとある宗徒のふるまいを、有馬忠頼は無礼と感じました。すると領内の寺社へこぞって東本願寺への転派を強要。拒否した寺社は潰していったという逸話が残されています。
家臣や城下の百姓に対しても厳しい姿勢を取り、久留米藩主として基礎を築いたものの、太陽のような温かい政治だったとは言い難いようです。それは、有馬忠頼の最期についての諸説からも感じられます。
有馬忠頼が亡くなったのは、52歳の頃。参勤交代の最中に船内で病死したという説と、日頃から恨みを持っていた小姓の家族に斬殺されたという説も伝わっています。
様々な逸話の真相はよく分かりませんが、逸話から想像される有馬忠頼は気性の激しいイメージ。力強くインパクトのある甲冑が、よく似合う人物だったのかもしれません。