江戸時代
島原の乱
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島原の乱

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1637年(寛永14年)12月11日から1638年(寛永15年)4月12日の間、日本の歴史上最大規模の一揆が発生しました。九州西部に位置する島原半島と天草諸島の領民が、藩の圧制や重税に耐えかね、キリシタン(カトリック教徒)迫害への不満も積み重なって、内戦を起こしたのです。幕末以前では最後の本格的な内戦となり、攻防は4年にもわたりました。鎮圧の1年後には、ポルトガル人が日本から追放された上、「鎖国」へと繋がっていったのです。

島原の乱が起きた理由と背景

飢饉

飢饉

別称「島原・天草の乱」、「島原・天草一揆」とも呼ばれる島原の乱。当時、松倉勝家が領した島原藩のある肥前島原半島と、寺沢堅高(てらざわかたたか)が領した唐津藩の飛地・肥後天草諸島の領民たちが両藩に一揆を起こしました。

きっかけは百姓の酷使や重い年貢、飢饉でしたが、これらに加えキリシタンの迫害を受け、領民の不満が高まったことに起因します。

3年間続いた凶作と苛烈な年貢の取り立て

1634年からの3年間、島原は天候が悪く、凶作が続いたことにより米の収穫が芳しくありませんでした。そのため、島原の大名であった松倉勝家は、米や麦だけでなく煙草や茄子の実まで年貢として厳しく取り立てたとされます。さらに人頭税や住宅税など様々な税を設定し厳しく取り立てたてたことが、オランダ商館長の日記など多くの記録に残っているのです。

おのずと年貢を納められない者が出てくるのに対し、松倉勝家は非情な見せしめとして拷問を行ないました。その手法は筆舌に尽くしがたく、村の責任者である庄屋から、女子供を人質に取り藁蓑(わらみの)を着せて火を点け、もがきくるしむ姿を「蓑踊り」と呼んでいたと記録が残っています。

江戸時代初期、幕府は諸大名の力を抑え込むため、諸藩に通常よりも多い石高を設定していました。石高が高ければおのずと納めなければならない年貢も増えていき、領主の取り立てがエスカレートしていったと考えられます。

キリシタン大名の転封、後任の領主による圧政と迫害

「キリシタン大名」とは、戦国時代から江戸時代にかけてキリスト教に入信し、洗礼を受けた大名のことです。もともと、島原は有馬晴信、天草諸島は小西行長という熱心なキリシタン大名が統治しておりキリスト教信仰も盛んでしたが、島原では後任の領主の入赴により状況が変わっていきます。

1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」のあとに、天草諸島は寺沢堅高の父である寺沢広高の領地となり、1614年(慶長19年)に島原は松倉勝家の父である松倉重政の領地になりました。松倉重政は、江戸城改築の公儀普請役となり、計画倒れに終わったルソン島遠征のための先遣隊派遣の準備や、島原城とその城下町の新築をするなどと勢力的に活動していましたが、それらの政策のために領民から過剰な年貢の取り立てを行なっていきます。これらの政策に嫡男の松倉勝家も倣って悪政を進めていったのです。

こうして松倉氏による統治が始まったことで、キリシタンへの迫害が始まり、改宗を拒んだキリシタンにも凄惨な拷問や処刑が行なわれるようになります。当初は、南蛮貿易面での政治的利点もあったことから比較的弾圧は緩やかだったようですが、1625年(寛永2年)に将軍徳川家康にキリシタン対策の甘さを指摘されたことを皮切りに、徹底した弾圧を行なうようになりました。

顔に「吉利支丹」(きりしたん)の文字を焼き鏝で焼き付ける、指を切り落とす、熱湯責めにするなど、痛ましい拷問の記録が残っています。

キリシタン大名の元家臣による一揆の先導

島原の元領主であった有馬晴信の家臣たちは、有馬晴信が島原を去ったのちも島原に残りました。しかし、松倉重政が自分の家臣を大勢率いて来たことにより厳しい立場に立たされ、結果武士身分を剥奪され、百姓へと転じ領民を指揮するようになっていきました。

そのため、彼らの身分は百姓であっても形だけのもので、いずれにしても武器の使用に熟練した兵士であったため、領民の中で力を持ったのです。領民たちは、旧有馬氏の家臣たちのもとに集まり、やがて組織化していった結果一揆勢となっていきましたが、天草でも小西行長らの改易政策により発生した大量の浪人を中心に一揆が組織されていったことにより、島原と天草で呼応するように一揆は膨れ上がっていきました。

キリシタンのカリスマ「天草四郎」

天草四郎

天草四郎

島原の乱の首謀者たちは湯島にて会談を行ない、キリシタンの間でカリスマ的な人気を誇っていた当時16歳の天草四郎を一揆のリーダーに据えることを決定しました。本名は「益田四郎」、諱(いみな)は「時貞」、キリシタンであったため洗礼名を持ち「ジェロニモ」と名乗っていましたが、改宗運動によって見せかけの棄教をしていたことから一揆の際には「フランシスコ」と名乗り、一般には「天草四郎時貞」として知られていきます。

彼の出生については諸説あり、俗説では豊臣秀頼の庶子だったのではないかと言う説もあります。ミステリアスな人物で、優れた教養を持ち、海面を歩いたなど超自然的な力を持っていた逸話もありますが、真実は定かではありません。

キリシタンによる苛烈な改宗運動

一揆勢は、他の村々や周囲の人々にキリシタンになるように迫り、従わない者たちに攻撃を加えました。キリシタンになる者は仲間として迎え入れるが、ならない者は皆殺しにすると迫り、住民たちは否応なくキリシタンになったと言います。通常の一揆は、メンバーに加わることのみを周囲に強要するものであったのに対し、島原の一揆勢が通常と異なったのは改宗を求めた点です。

運動の内容は穏やかなものではなく、寺社への攻撃や僧侶、神職の殺害など苛烈な内容でした。キリシタンの弾圧に赴いた代官を斬り殺したあと、周辺の村に代官や出家した者、神職の人間を皆殺しにするよう触れ回り、寺社の人間だけにとどまらず、旅人までも殺してしまいました。そのような状況下で、1637年(寛永14年)12月11日、有馬村のキリシタンたちが代官所に押し寄せ、代官の林兵左衛門を殺害した事件が皮切りになり、「島原の乱」が勃発したのです。

原城での篭城戦

原城での篭城戦

原城での篭城戦

島原半島で反乱軍が蜂起したことを受け、島原藩は討伐軍を送り込み戦いましたが、兵の疲労を鑑みて島原城へ篭城し防備を固めました。それを受けた一揆勢は、城下町を焼き払うなど攻撃を加えましたが落城させるには至りません。数日後には天草でも一揆が蜂起し、本渡城に攻め入りさらには富岡城を攻撃しますが、いずれも攻め落とすまでには至らず、一揆勢は九州諸藩の討伐勢から逃れるため旧有馬家の居城であった廃城の原城に篭城しました。

こうして島原と天草の一揆勢は合流し、その数は約3万になったと言います。一揆勢は、城を修繕し武器弾薬や食料を運びこみ討伐軍との戦いに備えました。

乱を受けた幕府は、討伐上使として板倉重昌らを原城に送り攻め込みましたが、城の守りはかたく、一揆軍の士気の高さに反して討伐軍の統率が甘かったことから攻防は難航します。そのあとも討伐上使を送り込むもいずれも上手くいかず、業を煮やした長崎奉行はオランダ商館長に依頼し大砲を入手し、さらにオランダ船を島原に派遣し艦砲射撃を行ないましたが、これも落城には至らず兵糧攻めなどを行ないました。

4月末には軍議にて総攻撃が決定し、諸大名が次々と原城を攻撃、食糧が尽きかけていたことに総攻撃も加わり、ついに原城は落城し天草四郎は討ち取られ、一揆軍は皆殺しになり4年にわたった乱に終止符が打たれたのです。その後、島原半島と天草諸島の生き残ったキリシタンはその多くが処刑され、幕府の禁教策は加速していきました。そして、長きにわたる「鎖国」の道へと繋がっていったのです。

武将達が戦った全国各地の古戦場をご紹介!

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