土佐国(とさのくに:現在の高知県)1国を領有していた土佐藩のルーツは、戦国時代に「土佐七雄」(とさしちゆう:室町時代末期から戦国時代に、土佐国に存在した7つの豪族の総称)のひとりだった「長宗我部/長曾我部元親」(ちょうそかべもとちか)が領主となったことに始まります。
その後、息子の「長宗我部盛親」(ちょうそかべもりちか)が領主を引き継ぎましたが、「関ヶ原の戦い」で敗軍となった「西軍」に与していたことから、土佐国を没収されました。そして、長宗我部氏に替わって土佐に入封した「山内家」(やまうちけ)が、明治維新に至るまでのおよそ270年統治していくこととなったのです。
今回は、土佐藩を代々牽引してきた山内家の歴史を振り返ると共に、土佐藩3代藩主の愛刀を鍛えた「新刀の祖」と称される刀匠「堀川国広」(ほりかわくにひろ)についてご紹介します。
高知城
1600年(慶長5年)、遠江国掛川(とおとうみのくにかけがわ:現在の静岡県掛川市)60,000石から土佐国(とさのくに:現在の高知県)240,000石へ、大幅な加増転封を果たしやって来た「山内一豊」(やまうちかつとよ/かずとよ)。
1603年(慶長8年)に、前領主である長宗我部氏(ちょうそかべし)が居城としていた「浦戸城」(うらどじょう:現在の高知市浦戸)から、広い土地で城下町を開くために、高知平野の中心にある「大高坂山」(おおたかさかやま)に新城を築いて移転し、この城を「河中山城」(こうちやまじょう:現在の高知城)と命名。ここから土佐藩山内家の藩政が始まりました。
山内一豊公像
河中山城の築城と共に幕開けした土佐藩ですが、初代藩主・山内一豊は入国時から大きな問題を抱えていました。
前領主・長宗我部氏に仕えていた「半農半士」(はんのうはんし:普段は農業に従事しながら、戦が起こったときには武装して参戦した者)の兵士達によって編成された「一領具足」(いちりょうぐそく)による、新領主反対運動が広まっていたのです。
当時、山内一豊には暗殺対策として6人の影武者がいた記録も残っており、土佐藩がこのとき、いかに緊迫した状態であったかが窺えます。
山内一豊は頻発する反対運動への対策として、反乱に加担する者を弾圧するだけではなく、山内一豊に協力的な者は積極的に家臣に登用し、他藩へ移る者に対しても柔軟な対応を見せて、反対運動の収束を図りました。
しかし、山内一豊の代以降においても、一領具足から家臣になった者と、山内家の譜代家臣だった者のあいだには明らかに身分格差が生じており、一領具足の血を引く者は藩内で冷遇され続けたのです。この問題の根は深く、土佐藩では幕末に至るまで両者の確執が尾を引きました。
山内一豊の跡を継いで2代藩主となった「山内忠義」(やまうちただよし)は、初代が命名した「河中」が水害を連想させる不吉な字であるとして「高智城」と表記を改称。のちに「智」から「知」の表記となり、現在の「高知」という地名になったのです。
また、山内忠義は自分の「髭」にこだわりを持つ一風変わった人物で、立派な髭の持ち主を見付けるとライバル視していたとか。大の相撲ファンという一面も持っており、山内忠義自身が恰幅の良い体格で、身長が6尺(約180cm)もあったと伝えられています。当時、男性の平均身長は160cm以下だったことを考えると、大男の藩主として注目を集める存在だったのではないでしょうか。
山内忠義の治世では、土佐藩で奉行職を務めていた「野中兼山」(のなかけんざん)を重用し、藩政改革を行いました。改革の主導者となった野中兼山は、新田開発、一領具足の郷士(ごうし:半農半士であるなど、武士階級の下層に属した者)登用、国産品の奨励・専売など多くの政策を次々と打ち出します。特に一領具足の郷士登用においては、山内家と対立する彼らとの協調を図りながら、開発事業の人材確保や家臣団の強化につなげた画期的な改革となりました。
こうして、山内忠義と共に藩政の基礎の構築に貢献した野中兼山ですが、その改革は大事業だったこともあって、裏側では、負担を強いられた民衆から不満の声が上がっていたのです。この民衆の声を利用した反野中兼山派によって、次代で野中兼山は失脚に追い込まれてしまうことに。以後、土佐藩では、反野中兼山派が藩政を動かすようになっていきました。
4代藩主「山内豊昌」(やまうちとよまさ)の時代には、地方知行制(じかたちぎょうせい)から俸禄制(ほうろくせい)への転換が行われ、1683年(天和3年)以降は毎年の年貢を平均して徴収する「平等免」(ならしめん)が実施されました。
その後、1690年(元禄3年)には藩政の基本方針を示した「元禄大定目」(げんろくだいじょうもく)という法令を定めます。土佐藩は経済的に安定した状態となり、この時代に藩政は、全盛期を迎えたのです。しかし、5代目以降になると大地震や城下町の大火による災害が重なり、藩財政は貧窮の道を辿っていくことに。
この土佐藩の財政難を救ったのが、土佐藩の「名君」と称された9代藩主「山内豊雍」(やまうちとよちか)です。先代から続く財政再建の問題を打破するべく、山内豊雍は土佐藩の藩校「教授館」(こうじゅかん)の学者である「谷真潮」(たにましお)を起用し、彼の教えをもとに、「徹底的な経費削減」を目指した藩政改革を行います。
幕府の許可を得て200,000石の格式を100,000石に切り下げ、贈答の省略化、所有する宝器の売却、藩主自身倹約に努めるなど、土佐藩全体で大規模な経費削減活動を実施していきました。この政策が功を奏して、土佐藩の財政状況はようやく改善し、土佐藩山内家の失われかけていた信用の回復にもつながっていったのです。
こうして、改革に貢献した谷真潮は藩政に大きな功績を残し、また長きに亘って叶わなかった藩政改革の成功を収めた藩主・山内豊雍は「中興の英主」として領民から讃えられることに。さらに、山内豊雍はこの改革で蓄えた余財を窮民救済にあてるなど、領民ファーストな名君として、仁徳に溢れた藩政を行っていきました。
土佐藩には、自らを「鯨海酔侯」(げいかいすいこう:鯨の泳ぐ海の酔いどれ大名)と称し、酒を死ぬまで愛した豪快な藩主「山内容堂/豊信」(やまうちようどう/とよしげ)という人物がいました。
彼は1849年(嘉永2年)に15代藩主に就くと、黒船来航の際に幕府へ意見書を提出した「吉田東洋」(よしだとうよう)を仕置役に抜擢。さらには、彼の私塾の門下生である「福岡孝弟」(ふくおかたかちか)、「岩崎弥太郎」(いわさきやたろう)、「板垣退助」(いたがきたいすけ)などの優秀な若手も登用。彼らは「新おこぜ組」と呼ばれ、山内容堂と吉田東洋を筆頭に藩政改革へ着手していきました。ちなみに、新おこぜ組という名は、13代藩主の時代に「おこぜ組」が発足していたことに由来しています。
また、山内容堂の藩政には、力強いパートナーがもうひとりいました。それは、土佐藩の重臣「後藤象二郎」(ごとうしょうじろう)。後藤象二郎は、幼い頃に父を亡くしたため、義理の叔父である吉田東洋に育てられた人物。吉田東洋の死後に彼の意志を継承し、近代化を図る幕末の藩政を、山内容堂のそばで支えていきます。
そしてこの頃の土佐では、「坂本龍馬」(さかもとりょうま)や「中岡慎太郎」(なかおかしんたろう)などの藩外で活動する志士も目立ち始めていました。坂本龍馬が起草した新国家体制の指針となる「船中八策」 (せんちゅうはっさく)は、後藤象二郎から朝廷と幕府の一体化を模索していた山内容堂へと伝わり、この進言を受けた山内容堂は、江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)に建白(けんぱく:政府や上役などに対して、自分の意見を公に申し立てること。またはその書面)したことで、1867年(慶応3年)の「大政奉還」(たいせいほうかん)へとつながったのです。
山内神社
こうして山内容堂は、日本が近代国家を目指す大きな1歩に貢献し、大偉業を果たしたことで幕末史にその名を刻みました。
高知市にある「山内神社」には、土佐藩山内家の歴代藩主が祀られており、境内には山内容堂の銅像が建てられています。
酒器を片手にあぐらをかく山内容堂の銅像から、酒豪藩主の偉業を祝う宴の情景を思い浮かべてみてはいかがでしょうか。
1609年(慶長14年)に2代藩主・山内忠義の長男として生まれた「山内忠豊」(やまうちただとよ)は、1656年(明暦2年)に父の跡を継ぎ、3代藩主に就きました。前代から重用していた野中兼山を失脚させたことでも知られる山内忠豊は、名だたる英雄から愛された刀匠「堀川国広」(ほりかわくにひろ)を愛刀としていたと伝えられています。
堀川国広は、1531年(享禄4年)に日向国(ひゅうがのくに:現在の宮崎県、及び鹿児島県の一部)で刀工の父・堀川国昌(ほりかわくにまさ)の子として生まれました。幼い頃に父親を亡くしてしまった堀川国広は、父のような刀工になりたいという夢を抱きながら、高齢の母親と共に、困窮した生活を送っていたと言われています。
その後、堀川国広は飫肥藩(おびはん:現在の宮崎県日南市)の領主である「伊東家」(いとうけ)に仕えていましたが、薩摩国(さつまのくに:現在の鹿児島県西半部)の領主「島津氏」(しまづし)の侵攻により、伊東家は没落してしまうことに。九州各地を転々とするようになった堀川国広は、山の中に籠って修験者(しゅげんしゃ:山岳信仰と密教や神道などの要素が結び付いた「修験道」を修業する人。[山伏:やまぶし]とも)となってから、本格的に日本刀を鍛えるようになっていきます。
長年に亘る放浪生活ののち、1599年(慶長4年)には、山城国(やましろのくに:現在の京都府南半部)の一条堀川に定住することを決意した堀川国広は、その地名から、自身の刀工銘を「堀川国広」と称したのです。定住するまでの約40年のあいだに、あらゆる作刀技術を習得していた堀川国広は、堀川派としてブランドを築き上げていきました。また、門人の養育に努めた堀川国広は、自身の門下から、新刀鍛冶における多くの名工を輩出しています。
こうした背景から、「新刀の祖」と呼ばれるようになった堀川国広。その作刀における技量の高さにより、古刀の「相州正宗」(そうしゅうまさむね)や新々刀(しんしんとう)の「水心子正秀」(すいしんしまさひで)らと共に「中興の三傑」として讃えられ、日本刀の歴史に多大なる影響を及ぼしました。