徳川十五代将軍

第15代将軍/徳川慶喜

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「徳川家康」(とくがわいえやす)から始まった徳川家歴代の征夷大将軍において、最後の将軍となったのは、水戸で育ち勤皇精神溢れる「一橋家」(ひとつばしけ)の養子「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)でした。将軍になることを拒んでいた一橋慶喜が、15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)となったとき、怒濤の時代に何を思い、どのように向き合っていったでしょうか。約300年続いた江戸幕府の崩壊を、その中心で体験した最後の将軍の軌跡を辿ります。

徳川十五代将軍徳川十五代将軍
江戸時代を語る上で欠かせない徳川十五代将軍の姿を紐解きます。

将来を嘱望された徳川慶喜の青年時代

教育熱心な父の方針で水戸へ

徳川慶喜

徳川慶喜

1837年(天保8年)、江戸「水戸藩」(みとはん)の藩邸において水戸藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の七男が誕生しました。

当主と嫡男以外は松平姓を名乗る「御三家」(ごさんけ)の決まりによって、「松平七郎麻呂」(まつだいらしちろうまろ)と名付けられた男児が、のちの「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)です。

徳川慶喜の父である徳川斉昭は、水戸藩2代藩主「水戸光圀」(みとみつくに)の勤皇精神や教育方針を崇敬していました。

父・徳川斉昭の「子供は水戸で教育すべき」という考えに基づき、松平七郎麻呂も生後7ヵ月以降は水戸で暮らし、徳川斉昭が作った藩校「弘道館」(こうどうかん)で学問と武術を学んでいます。

尊皇攘夷論者だった父の影響を受けて成長した松平七郎麻呂は、元服後に「松平昭致」(まつだいらあきむね)に改名。

幼い頃から聡明だった松平昭致の名は、12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)の耳にも入っており、御三家「一橋家」(ひとつばしけ)の跡継ぎに請われます。1847年(弘化4年)松平昭致は一橋家を相続。将軍・徳川家慶から1字を賜り「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)と名乗りました。

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将軍跡継ぎ問題

徳川家慶は、一橋慶喜に将軍を継がせたいほど気に入っていましたが、「徳川宗家」(とくがわそうけ)は「直系の長子による相続」が基本。

そのため、13代将軍には1853年(嘉永6年)ペリーの黒船が来港したさなかに亡くなった徳川家慶の息子「徳川家定」(とくがわいえさだ)が就きました。しかし、徳川家定は病弱だったことに加え、人前が苦手という性格から将軍に向いておらず、子どもにも恵まれなかったため、跡継ぎの問題が浮上します。

14代将軍候補に選ばれたのは、一橋慶喜と紀州藩主「徳川慶福」(とくがわよしとみ)の2人。支持者は2派に分かれましたが、一橋慶喜を推していた「一橋派」(ひとつばしは)の「阿部正弘」(あべのまさひろ)、「島津斉彬」(しまづなりあきら)が亡くなり、一橋派の勢力が弱まった結果、徳川慶福を推していた「南紀派」(なんきは)の「井伊直弼」(いいなおすけ)に押し切られる形で、1858年(安政5年)、14代将軍として徳川慶福改め「徳川家茂」(とくがわいえもち)が就任します。

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大老・井伊直弼との対立

井伊直弼

井伊直弼

2度に及ぶ将軍就任を逃した徳川慶喜ですが、それほど将軍職にはこだわらない一方で、幕政には積極的にかかわっていました。

1858年(安政5年)、大老の井伊直弼が天皇の許可を得ないまま、不公平条約と呼ばれる「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)に調印してしまいます。

尊皇精神旺盛な徳川慶喜は、勝手な行動に出た井伊直弼と対立。その際に井伊直弼を詰問したことが原因で、謹慎処分となりました。

井伊直弼は「安政の大獄」(あんせいのたいごく)などの弾圧政策で「尊皇派」(そんのうは)を圧迫しましたが、翌年には「桜田門外の変」(さくらだもんがいのへん)で水戸浪士達に殺害されました。そして、1860年(万延元年)ようやく一橋慶喜の謹慎も解かれることになります。

1862年(文久2年)、将軍後見役となった一橋慶喜は「文久の改革」(ぶんきゅうのかいかく)を実行しました。黒船来航以来、大きく揺れていた幕府の体制を、非常時にも機能するよう対応させたのです。で朝廷を護衛し、畿内の治安維持を担う京都守護職の設置や、参勤交代制度の緩和などはその一環でした。

また、1863年(文久3年)、徳川家茂が徳川幕府の将軍としては230年ぶりとなる上洛を果たした際には、一橋慶喜が一足先に上洛。将軍の名代として朝廷と攘夷の実行についての交渉を担当するなど、陰日向に幕政を支え続けます。

井伊直弼

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戦う禁裏御守衛総督、徳川慶喜!

1864年(元治元年)一橋慶喜は、「禁裏御守衛総督」(きんりごしゅえいそうとく)に就任しました。禁裏御守衛総督とは、幕府公認の禁裏(京都御所)を警護するための役職のこと。つまり、一橋慶喜は京における幕府勢力の中心となったのです。

同年7月の「禁門の変」(きんもんのへん)においては、一橋慶喜が「会津藩」(あいづはん)、「桑名藩」(くわなはん)、「大垣藩」(おおがきはん)、「薩摩藩」(さつまはん)など諸藩の総指揮者として「長州藩」(ちょうしゅうはん)の勢力を御所から撃退し、勇猛ぶりを発揮しました。歴代将軍のなかで、馬にも乗らずに敵と日本刀で戦ったのは一橋慶喜だけです。

また一橋慶喜は、条約締結についての勅許(天皇による許可)を得るために、切腹覚悟で朝廷と激しく交渉し、勅許を得ることに成功しました。

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第15代将軍・徳川慶喜誕生

固辞しながらの将軍職就任

禁門の変の報復として、1864年(元治元年)に「第一次長州征伐」(だいいちじちょうしゅうせいばつ)を行なった幕府は、さらなる報復のために、再度長州に向かいます。しかし、1866年(慶応2年)の「第二次長州征伐」(だいにじちょうしゅうせいばつ)では、薩摩藩が長州藩と手を組んだため、幕府は苦戦を強いられました。

さらに、「大坂城」(現在の大阪城)では徳川家茂が死亡。連敗を重ねる幕府を救うべく、一橋慶喜は休戦協定を取り付けました。

そんな一橋慶喜に3度目の次期将軍就任の要請がかかります。しかし、一橋慶喜は徳川宗家だけは相続したものの「大奥や譜代大名が反対しており、世間も私に野心があるように噂している」と言って将軍就任を拒否しましたが、その4ヵ月後、「将軍宣下」(しょうぐんせんげ:天皇の命令で征夷大将軍職に任じること)を受け、15代将軍に就任したのです。

なお、徳川慶喜がすぐに将軍就任を受けなかった理由は、恩を売った形で「仕方なく」就任することで、自分のやり方で政治を有利に進める目的だったのではないかと言われています。

将軍就任後も徳川慶喜は畿内を離れず、朝廷との連携を重視していました。徳川慶喜は将軍在職中、「江戸城」(えどじょう)に足を踏み入れなかった唯一の徳川将軍です。その間、徳川慶喜は開国へと向けて準備を進めます。

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慶応の改革

徳川慶喜は、「慶応の改革」(けいおうのかいかく)を推進しました。フランス公使「レオン・ロッシュ」の助言に基づいて、ヨーロッパの行政組織を参考に新体制を作ろうとしたのです。

慶応の改革の一環で徳川慶喜は新たな人材の登用や、新生陸軍の整備、フランスの支援による「横須賀製鉄所」(よこすかせいてつじょ)の建設などを行ないました。徳川慶喜が目指したのは、新体制による幕府を中心とした中央集権国家づくりでした。

この時点で徳川慶喜は、まだ幕府の存続を諦めてはいません。しかし、これが結果的に江戸幕府最後の改革となりました。

徳川幕府、終わりの始まりとその終焉

大政奉還

外国嫌いで「反倒幕派」(はんとうばくは)の「孝明天皇」(こうめいてんのう)が、1867年(慶応3年)1月に崩御すると「倒幕派」(とうばくは)の公家「岩倉具視」(いわくらともみ)などが、「明治天皇」(めいじてんのう)を擁立した新政権を立てる気運が沸き起こりました。

大政奉還

大政奉還

これを機に、薩摩藩と長州藩は武力による倒幕を狙い始めます。

危機を察知した徳川慶喜は思い切ったことを実行します。それが「大政奉還」(たいせいほうかん)でした。

1867年(慶応3年)、京都の「二条城」(にじょうじょう)において、幕府は明治天皇に政権を返上し、今後は諸侯による合議の政治を行なうことにしたのです。

これによって、256年間続いた江戸幕府は実質的に終わりを迎えます。

この決断の裏には、徳川慶喜のある思惑が隠されていました。政権を朝廷に返還したという姿勢を見せれば、薩摩も長州も倒幕の大義名分を失うことになります。徳川慶喜は大政奉還の実行によって、徳川の政治力を維持したまま、薩摩藩・長州藩との武力衝突を回避したのです。

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王政復古の大号令

「討幕派」(とうばくは)の薩摩藩・長州藩にとって大政奉還は、非常に厄介な政策でした。徳川慶喜が合議体の筆頭格のままでは、新しい政府で思うような政治ができないからです。

そこで、1867年(慶応3年)今度は討幕派がクーデターを起こします。御所にて明治天皇臨席のもと、「徳川家」(とくがわけ)を排除した新政府樹立を宣言。これが「王政復古の大号令」(おうせいふっこのだいごうれい)です。

討幕派は江戸幕府を完全に廃止し、徳川家はすべての役職も領地も返上すべきだと要求。この切り返しに徳川家も黙ってはいられません。対立を深めた両者は「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)への道を突き進んでいきます。

戊辰戦争で採った徳川慶喜の行動

錦の御旗

錦の御旗

1868年(慶応4年)ついに戊辰戦争が勃発しました。

このときに、薩長連合は天皇に認められた印である「錦の御旗」(にしきのみはた)を掲げたのです。

それは、薩長が官軍、旧幕府軍が朝敵(賊軍)となったことを意味しました。

1868年(慶応4年)1月3日、「鳥羽・伏見の戦い」(とば・ふしみのたたかい)において、徳川慶喜は後世まで非難される行動を起こします。

旧幕府軍が形勢不利になった途端、自軍の兵に対して「最後の一兵になっても決して退いてはならない」と厳命しておきながら、自身は拠点だった大坂城から退却してしまったのです。

さらに、側近や妾、旧幕府軍で共に戦っていた会津藩主「松平容保」(まつだいらかたもり)や桑名藩主「松平定敬」(まつだいらさだあき)達を無理やり連れて軍艦「開陽丸」(かいようまる)でさっさと江戸に逃亡。このとき、艦長の「榎本武揚」(えのもとたけあき)にも退却を伝えることなく、戦地に置き去りにしていました。

この言い逃れのできない敵前逃亡が、旧幕府軍の瓦解を招いたのです。

江戸無血開城

西郷隆盛・勝海舟

西郷隆盛・勝海舟

そののち、朝敵となった徳川慶喜は、東京都台東区にある天台宗関東総本山の徳川家菩提寺「寛永寺」(かんえいじ)で謹慎しました。

1868年(慶応4年)2月には、旧幕府軍「勝海舟」(かつかいしゅう)に事態収拾を一任し、徳川家当主の座も養子である「田安亀之助」(たやすかめのすけ)に譲ってしまいます。

4月11日、新政府軍の参謀「西郷隆盛」(さいごうたかもり)と勝海舟の交渉により、江戸城は新政府軍に明け渡されました。誰ひとりとして血を流すことなく開城に至ったこのできごとは、「江戸無血開城」(えどむけつかいじょう)とも呼ばれています。江戸城を明け渡すということは、徳川家が政権を失うことと同義です。

こののち徳川慶喜はそのまま隠居生活に入り、幕府制度や征夷大将軍は廃止。こうして徳川慶喜は、日本史上最後の征夷大将軍となったのです。

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「黙して語らず」の徳川慶喜に対する評価

禁門の変、大政奉還、江戸城無血開城、鳥羽・伏見の戦い

徳川慶喜は禁門の変において、陣頭指揮を執って勇敢に戦いました。しかし、単に勇猛だっただけではなく、先を読む頭脳をかね備えた人物でもあったと言われています。

大政奉還を行なったことは、間違いなく徳川慶喜にとって最大の功績です。この英断により内乱を防ぎ、それに乗じた諸外国からの侵略も阻止。それだけを考えても徳川慶喜の判断は正しかったと言えます。これに加えて、勝海舟に江戸の無血開城を実行させたことも、江戸市民が戦争に巻き込まれる事態を回避した意味において、十分評価に値するのです。

しかし、大政奉還後すぐに幕府の新体制を整えることができていれば、討幕派による王政復古のクーデターと戊辰戦争を防げたかもしれません。

さらによく分かっていないのは、鳥羽・伏見の戦いにおける徳川慶喜の行動。戦場に多くの兵を置いたまま敵前逃亡した事実は、責められても仕方がないことです。

徳川慶喜が逃亡した理由には諸説あり「切れ者と言われた明晰な頭脳を持つ徳川慶喜には、旧幕府軍の負けが見えていたから逃亡した」という説や、「勤皇派だった徳川慶喜は、薩摩と戦う覚悟はあっても、自分が朝敵となることを恐れたから」という説などがあります。

近代化への貢献度

徳川慶喜は、将軍在職中に様々な政策を行なったように思えますが、その期間はたった1年。その間、難しい交渉や日本の将来を見越した改革などを実行します。

幕府の懸案事項、天皇の許可なく米国と結んでしまった日米修好通商条約の許可をようやく取り付けることができたのは、徳川慶喜の尽力あってのことでした。

また、慶応の改革では、横須賀製鉄所や造船所を設立し軍制改革などを行ない、のちの日本の近代化に貢献しています。

さらに、徳川慶喜は家臣として一橋時代から仕えていた「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)を将軍名代の随員に抜擢し、ヨーロッパを見聞させました。大政奉還ののちに帰国した渋沢栄一に対して徳川慶喜は「これからはお前の好きな道を行きなさい」と独り立ちさせます。

渋沢栄一はそののち、日本銀行東京証券取引所などを設立。日本の近代資本主義国家としての基礎を築き、現代では「日本資本主義の父」として知られる偉人のひとりに数えられています。

徳川慶喜の余生

1869年(明治2年)9月に戊辰戦争が終了すると、徳川慶喜の謹慎も解かれ、静岡で趣味に没頭する生活を送りました。

一時は貴族院議員を務めた徳川慶喜ですが、任期を終えると、すぐにまた趣味の生活に戻っています。特にカメラが好きで、様々な風景撮影を楽しみました。当時珍しい自転車を乗り回し、弓道や手裏剣術などの鍛錬も欠かなかったと言われています。

地元の人々には「けいき様」や「けいきさん」と呼ばれて親しまれており、徳川慶喜自身も「けいき」と呼ばれることを好んでいました。

一方で、旧幕府関係者に対しては距離を置いていたとされており、困窮するかつての家臣に対しても知らぬ顔をしていたと言われています。その理由ははっきりしていませんが、もう政治にかかわりたくなかったのではないかという説が有力です。

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徳川慶喜の愛刀

1913年(大正2年)11月22日、徳川慶喜は風邪から急性肺炎を併発して亡くなりました。享年77歳。歴代の徳川将軍のなかでも1番の長生きでした。

徳川慶喜にまつわる刀剣として知られているのが「本庄正宗」(ほんじょうまさむね)。4代将軍「徳川家綱」(とくがわいえつな)以降の徳川将軍家に代々伝わる宝刀です。本刀の持ち主を遡れば「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)、「島津義弘」(しまづよしひろ)、「徳川家康」(とくがわいえやす)など、錚々たる武将が名を連ねます。

本刀は、そののち徳川宗家16代、17代へと継承されましたが、終戦直後に17代宗家「徳川家正」(とくがわいえまさ)のもとから進駐軍に押収され、そのあとは昭和初期の段階で国宝(旧国宝)に指定されたものの、現代まで行方不明になっている幻の1振です。

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徳川慶喜の辞世の句

「この世をば しばしの夢と 聞きたれど おもへば長き 月日なりけり」

徳川慶喜が遺した辞世の句の意味は、「この世の人生とは短い夢のようなものだと聞いていたが、振り返ってみれば、ずいぶんと長い年月であった。」

徳川慶喜の人生は、将軍を辞めてからの期間のほうが長かったのです。静かに趣味に生きた余生から見れば、怒濤の時代だった幕末も遠い過去のできごととなり、人生を長く感じたのかもしれません。

また、徳川慶喜は次のような言葉も残しています。

「家康公は日本を治めるために幕府を開いたが、私は幕府を葬り去るために将軍職に就いた。」

幾度となく征夷大将軍になることを拒み、大政奉還や江戸無血開城など、徳川慶喜が新しい世を望んでいたことを示す言葉だと言えます。

「徳川家康の再来」とまで言われた最後の将軍、徳川慶喜。その奇才ぶりは、確かに徳川家康を彷彿とさせるもので、徳川慶喜が行なったことは結果的に新時代の礎を築きました。鳥羽・伏見の戦いの敵前逃亡の件や討幕運動最大の敵として、徳川慶喜の評価には賛否両論あります。

ただ、徳川慶喜は倒幕勢力との争いでの立ち振る舞いからも分かるように、徳川将軍のなかでも市民の命を尊び、争いから遠ざけるための行動を優先する屈指の将軍でもありました。徳川慶喜の英断がなければ、より多くの命が失われただろうと言われており、約700年も続いた武家政権を自らの手で終わらせたことも併せて、近年では徳川慶喜を再評価する流れもあります。

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