神社にお参りに行くと「日本刀」が奉納されていることや、御神体として祀られていることがあります。日本刀などの刀剣は、一振りするだけで物や人を切断できる武器。そのため刀剣は人々に恐れられると同時に、聖なる物として霊威が宿ると信じられてきました。「日本刀と神社」では、日本刀と神社の関係性と、日本刀が神社に奉納される理由について解説しています。
日本の刀剣について説明する前に、中国の剣が中国国内でどのような役割を持っていたのか解説しましょう。それは紀元前770~紀元前221年の春秋戦国時代に遡り、「呉」(ご)や「越」(えつ)の国では剣が戦場の主要武器でした。特に優れた剣は持ち主と共に伝説となり、語り継がれるようになるのです。
例えば、後漢時代初期に書かれた春秋戦国時代の呉と越に関する書物「越絶書」(えつぜつしょ)に登場する「太阿剣」(たいあのつるぎ)は、持ち主の「楚王」(そおう)が、自国に攻め込んできた「晋公」(しんこう)を剣が持つ霊的な力で退けたとあります。
干将・莫邪
さらに、呉と越に関する歴史書「呉越春秋」(ごえつしゅんじゅう)に登場する「干将」(かんしょう)と「莫邪」(ばくや)は、刀工の名・干将と妻の名・莫邪に由来する「雌雄宝剣」(しゆうほうけん)とも伝わる名剣です。
干将と莫邪の逸話において、干将は「呉王」(ごおう)から直々に剣を作るよう命じられますが、炉の温度が上がらないため作ることができずにいました。そこで妻・莫邪が、髪と爪を炉に入れると温度が高くなり、良い剣ができるという噂を聞き、同じように炉に入れます。すると見事、2振の名剣が完成。その剣に干将と莫邪と名付けて呉王に献上したと「呉越春秋」に書かれているのです。
中国の直刀
なお、時代が進んだ漢王朝の時代を境に、主力武器は両刃の剣から、片刃の「直刀」(ちょくとう)に移行。しかし、剣は戦場から姿を消したものの、宝剣伝説と剣自体は神聖な物として当時の人々に語り継がれます。のちに剣は「道教」(どうきょう)と融合。道教は、中国に古くより根付く土着の信仰に仏教の影響が加わった多神教とされ、その根本思想を整えた「老子」(ろうし)を始祖としています。道教にて剣は「邪悪なものを排除する」、呪術の道具として使われるようになりました。
中国が漢王朝だった弥生時代初期に日本に伝来した青銅製の剣は、これも中国の影響を受けていたのか、主に祭祀や有力豪族の副葬品として扱われるようになりました。そして剣に続き鉄製の、反りのない片刃の直刀や、柄部分が輪になった直刀の「環頭大刀」(かんとうたち)なども現れます。こうした「鉄剣」(てっけん)は、弥生時代中期頃に中国大陸と近接していた現在の北部九州で最初に輸入され、少しずつ普及しました。
直刀/七星剣(四天王寺所蔵)
環頭大刀/金銅荘環頭大刀拵・大刀身
古墳時代中期になると、鉄製品を祭祀に用いる機会がさらに増加。この時代になると、鉄製品と言っても農具や工具など衣食住に関する物が中心で、実物の刀剣が祭祀に用いられることは稀になっていました。実物の刀剣ではない場合、粘土・木・石などで刀剣を模して神に捧げており、古墳時代の祭祀遺跡からは木製や石製の祭器具がかなりの数、出土しているのです。また、例は少ないものの儀式に捧げられた実物の刀剣は、畿内周辺の遺跡や「宗像沖ノ島祭祀遺跡」(長崎県宗像市)などで出土。その刀剣は、最高位の首長が祭祀を主催したことによるものと考えられています。
つまり、実物の刀剣を捧げるのは最高位の首長だけに許されており、そうではない人々は模造品に置き換えるのが一般的でした。このように古墳時代は、すでに刀剣を神に捧げる考えが広まっており、刀剣を奉納する行為がのちの幣帛(へいはく:神へ捧げる織物・武具・金銭のこと)や神宝類にも引き継がれていくのです。
弥生時代に伝来した青銅製の剣は、古墳時代に鉄製で反りのない直刀へと変化しました。その過程で刀剣類は神に奉納する祭器具として定着。そして平安時代中期頃に私達がよく知る反りのある湾刀「日本刀」が作られるようになりました。
ここでは、神社に奉納された剣や日本刀について紹介しています。
直刀と湾刀
石上神宮
「布都御魂」(ふつのみたま)は、「石上神宮」(いそのかみじんぐう:奈良県天理市)に御神体として祀られている刀剣です。布都御魂は日本神話「古事記」(こじき)にて神「タケミカヅチノカミ」(建御雷神)が葦原中国(あしはらのなかつくに:日本のこと)を平定する際に使用した刀剣として伝わります。
布都御魂は初代「神武天皇」(じんむてんのう)が手にすることとなり、即位後に宮中にて布都御魂を祀られました。さらに、10代「崇神天皇」(すじんてんのう)の時代に石上神宮が創建され、このとき布都御魂を御神体として祀ることになるのです。いつしか布都御魂は石上神宮拝殿の裏手にある禁足地に埋められますが、明治時代に発掘されたあとは本殿内陣にて安置。またその際、「帝室技芸員」(ていしつぎげいいん)を務めた刀匠である初代「月山貞一」(がっさんさだかず)氏によって、布都御魂は2振の写し(うつし:複製すること)が打たれ、石上神宮に奉納されました。
なお布都御魂は、「韴霊剣」・「布都御魂剣」(どちらも[ふつのみたまのつるぎ])とも言い、石上神宮のほかに「鹿島神宮」(茨城県鹿島市)も同名の刀を所蔵しています。(※鹿島神宮の表記は韴霊剣)
箱根神社
「薄緑」(うすみどり)は、「源義経」(みなもとのよしつね)が「箱根神社」(神奈川県足柄下郡)に奉納したと伝わる太刀(たち)です。伝承によると、本太刀は清和源氏の子孫「源満仲」(みなもとのみつなか)が作らせた源氏重代の名刀で、作刀したのは平安時代中期の刀工「安綱」(やすつな)とされています。
本太刀は源満仲が手にしていた当初、罪人を試し斬りした際に膝まで切れたため「膝丸」(ひざまる)と「号」(ごう)されていました。そのあとは持ち主を変え、土蜘蛛を退治すれば「蜘蛛切」(くもきり)、蛇のように鳴いたから「吠丸」(ほえまる)と、斬ったものや状態によって号を変えていきます。そして、さらに時代が進んだ「源為義」(みなもとのためよし)の代で「熊野権現」(現在の「熊野三山」[和歌山県内])に奉納された本太刀は、のちに源義経が手にして「熊野の美しい春の山」に例えて薄緑と名付けられました。
なお、この薄緑には源義経が奉納した箱根神社以外にも、「大覚寺」(京都市右京区)や個人が所蔵する同名の日本刀が複数振存在します。
日光二荒山神社
「祢々切丸」(ねねきりまる)は、「日光二荒山神社」(栃木県日光市)が所蔵する大太刀(おおだち)です。南北朝時代に作られたとされる本太刀の重量は24㎏、刃長は216.6cm、全長は324cmもの長さを誇る奉納刀で、御神刀でもあります。
そして祢々切丸という号は、日光山の中にある「ねねが沢」に棲み、人に恐れられていた化け物「祢々」(ねね)を、本太刀がひとりでに抜け出し退治したという伝承に由来。奉納刀のため実戦で用いることは想定していないと考えられますが、刃長に対して茎(なかご)が長いので、もし使うのであれば長巻(ながまき)や薙刀のように扱うのだと推測されるのです。
なお、重要文化財の登録名は「山金造波文蛭巻大太刀」(やまがねづくりはもんひるまきのおおだち)とされており、刀身には「山金造波文蛭巻太刀拵」(やまがねづくりはもんひるまきたちこしらえ)が附属しています。
多度大社
刀剣ワールド財団は、2019年(平成31年)4月に「多度大社」(三重県桑名市多度)へ日本刀を奉納しています。
多度大社の歴史は非常に古く、21代「雄略天皇」(ゆうりゃくてんのう)が統治していた5世紀に、「天津彦根命」(あまつひこねのみこと:「天照大御神」[アマテラスオオミカミ]の第3皇子)を主祭神として創建。また同大社の摂社には、製鉄鍛治の神「天目一箇命」(あめのまひとつのみこと)も祀られているなど、日本刀との縁が深い場所になります。
この多度大社から車で10分の場所にあるのが、東建コーポレーションのグループ会社が運営するゴルフ場「東建多度カントリークラブ・名古屋」と「ホテル多度温泉」です。三重県桑名市多度町の地域が発展するようにと、氏神様である多度大社に刀剣を奉納しました。
奉納刀を作刀したのは2代「尾川兼國」(おがわかねくに)刀匠です。尾川兼國刀匠は2009年(平成21年)に現代刀匠の最高位である「無鑑査刀匠」(むかんさとうしょう)に認定された人物で、現在は「全日本刀匠会」理事兼東海地方支部の支部長も務めています。