日本刀の名前には、茎(なかご)に切られる「銘」(めい)と、公式の愛称にあたる「号」(ごう)、そして一般的な呼び名である「通称・俗称」があります。なかでも号は、美しい刀姿や印象的な逸話などをもとに付けられる名であり、名刀の証(あかし)と言っても過言ではありません。広く知られた号を持つ名刀を例に挙げ、号について解説すると共に、銘や通称・俗称との違いも取り上げます。
さらに、「刀剣ワールド財団」が所蔵する日本刀のなかには、どのような号を持つ作品があるのでしょうか。そのコレクションから打刀(うちがたな)2振と薙刀(なぎなた)1振を取り上げ、個性際立つ号についてご紹介します。
「銘」とは、柄(つか)に収められる握りの部分「茎」(なかご)に切られた文字のこと。銘には刀工の名前や居住地などが記されることが多く、現代で言えば「ブランド名」のようなもの。反対側の裏面には作刀年月を示す「年紀銘」(ねんきめい)が刻まれることもあります。
三日月宗近の銘は、刀工名の「三条」です。この銘が切られているおかげで、作刀者を正しく特定することができます。
一方、銘のない「無銘」の日本刀も数多く存在していますが、その場合は作風や伝来などを手掛かりとして作刀者を見極めなければなりません。これを「極め」と言い、刀剣鑑定家として高名な「本阿弥家」(ほんあみけ)が無銘の作品を極めた場合など、金や銀の象嵌(ぞうがん:素材となる金属や木材・陶磁などに金、銀、貝など別の材料をはめ込んで表した文様)で「象嵌銘」を入れたり、朱色で書いた「朱銘」(しゅめい)を入れたりしました。
また江戸時代には、罪人の死体を使った試し斬りの結果を入れるようになるなど、銘には多くの情報が盛り込まれているのです。
優れた日本刀や有名な逸話を持つ日本刀には、それらにちなんだ愛称が付けられています。この愛称が「号」です。
三日月宗近の号は「三日月」で、これは刀身の刃縁(はぶち)に沿って浮かび上がる文様の「打ちのけ」が美しい三日月形であることから名付けられました。三日月という単語に作刀者である「宗近」の名を加えて、三日月宗近を号とする見方もあります。
刀工は自分のどの作品にも同じ銘を入れることが多く、銘を聞いただけでは日本刀それぞれの区別が付きません。三条宗近の場合は、三条、または宗近と切られた作品が複数現存しています。そこで、特に優れた作品には固有の号を付けることが行われてきたのです。
号は、保管用の鞘である「白鞘」(しろさや)や鑑定書にあたる「折紙」(おりがみ)に書かれることはありますが、茎など日本刀自体に刻まれることはほとんどありません。それゆえに、号が伝承されているということは、その日本刀が歴史に埋もれることなく名を馳せるほどの名刀であることを表しているのです。
号は三日月ですが、最も知られた名称は三日月宗近ではないでしょうか。この広く使われる名前が「通称・俗称」です。
通称・俗称のパターンとしては、号や伝来した家名など、その日本刀にちなむ単語の後ろに刀工名が付くのが一般的。三日月宗近の場合は、前述の通り号と通称・俗称が同一という考え方もあります。
截断銘(金象嵌)
本刀の茎に切られた銘は「於武州江戸越前康継 慶長十九年寅七月十一日二ッ筒落(金象嵌)」(ぶしゅうえどにおいてえちぜんやすつぐ けいちょうじゅうきゅうねんとらしちがつじゅういちにちふたつどうおとし)。
新刀期を代表する名工「越前康継」が壮年期に鍛えた作品です。
越前(現在の福井県北東部)松平家の祖である「結城秀康」(ゆうきひでやす)の次男「松平忠昌」(まつだいらただまさ)が、1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」で差した1振。その後、越前藩32万石を治めた松平家に伝来しました。
本刀の号である「雷風神」(らいふうじん)の由来は、刃中の働きにあります。中直刃(ちゅうすぐは)に小互の目(こぐのめ)を交えた刃文には、鋭さを秘めた沸(にえ)が輝き、ところどころに金筋・砂流しがかかる様は稲妻のようです。雷神・風神の出現を思わせる、それらの荒々しい働きは、「雷風神」の号にふさわしい神々しさすら感じさせます。
また、金象嵌で記された「二ッ筒落」の截断銘(さいだんめい)は試し斬りの結果を表し、罪人の死体を2体重ねて切れたことを表現。この圧倒的な切れ味も、雷風神の号に恥じない本刀の大きな特徴です。
本刀「銘 備前国住長船忠光」(めい びぜんのくにじゅうおさふねただみつ)は、宇和島藩(現在の愛媛県宇和島市)藩主・伊達家に伝来した由緒ある1振で、室町時代後期に備前国(現在の岡山県南東部)で活躍した「忠光」により作刀されました。
裏側の茎に「延徳三年」(1491年)の年紀銘があることから、忠光を名乗った刀工の中でも、とりわけ名工として名高い「7代 彦兵衛尉忠光」(ひこべえのじょうただみつ)の作であると考えられています。
忠光は、直刃の名手として知られていますが、本刀においては匂口(においぐち)の冴える乱刃(みだれば)が特徴的。この刃文が風にたなびく雲を想起させることから、刀剣愛好家の「岡野多郎松」(おかのたろまつ)氏によって「走雲」(そううん)という号が付けられました。
岡野多郎松氏は大正時代から昭和初期を代表する実業家であり、刀剣コレクターとしても有名な人物。本刀の優れた刃文の出来栄えに着目し、走雲と命名したその感性には感服するばかりです。
さらに刀身には、雲間に現れる竜のごとく「倶利伽羅竜」(くりからりゅう:破邪の剣に巻き付いた竜王の意匠)の文様が刻み込まれ、本刀の個性をいっそう際立たせています。
「豊臣秀吉」より、家臣の「山口修弘」(やまぐちながひろ)が賜った本薙刀。1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で西軍に与した山口修弘は、本薙刀を手に500余りの兵を従え、東軍の「前田利長」(まえだとしなが)率いる20,000の軍勢に立ち向かったと伝えられています。
しかし、奮戦むなしく追い詰められた山口修弘は自害。その後、本薙刀は加賀(現在の石川県南部)前田家へと渡り、「前田利次」(まえだとしつぐ)が支藩として越中(現在の富山県)富山藩を立藩して以降は富山藩に伝来しました。
本薙刀は無銘ですが、作刀したのは「片山一文字派」の刀工と言われています。片山一文字派は、備前国「福岡一文字派」の刀工「則房」(のりふさ)が、備中国(現在の岡山県西部)片山に移住したことにより誕生した一派です。
本薙刀の号である「大外刈」(おおそとがり)は、薙刀術の大技を由来としています。大外刈とは、ためらうことなく思い切り刈るという必殺の技であり、20,000の敵軍にも臆することのなかった山口修弘の奮闘する姿が目に浮かぶような名前です。また、その切れ味においても、大外刈の号に見合った鋭さであるとされています。