戦国武将の生涯

滝川一益の武将年表
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滝川一益

滝川一益

滝川一益(たきがわいちます/かずます)は、明智光秀や柴田勝家らと並ぶ、織田信長の重臣・織田四天王のひとり。

織田信長のもとで伊勢国(現在の三重県北中部)や伊賀国(現在の三重県伊賀地方)の攻略において活躍し、反織田信長派による長島一向一揆を平定。

そのあと長島城(三重県桑名市)の城主となります。伊勢水軍を配下に置き、水軍の将と呼ばれる一方、陸上での鉄炮を用いた戦術にも長けており、水陸いずれの戦においても高い能力を発揮。

武田勝頼(たけだかつより)攻めでの戦功により、上野国(こうずけのくに:現在の群馬県)と信濃国(現在の長野県)の一部を拝領し、厩橋城(まやばしじょう:群馬県前橋市、のちの前橋城)城主、そして関東管領(かんとうかんれい)を務めました。

しかし、本能寺の変後は状況が一変。柴田勝家と共に豊臣秀吉に対抗するも、最終的に滝川一益は降伏し剃髪。

さらには、小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)で徳川家康に敗れ、蟄居(ちっきょ:自宅などに閉じ込めて謹慎させた、武士に科された刑罰の一種)の身となります。滝川一益が名馬・海老鹿毛(えびしかげ)と共に、織田信長より授かった日本刀が、名刀と評される滝川高綱(たきがわたかつな)。

平安時代中期頃に興った古備前派(こびぜんは)の特徴をよく示す1振であり、付帯されている朱塗鞘打刀拵(しゅぬりさやうちがたなこしらえ)も桃山文化の様式を象徴する名拵です。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1525年(大永5年) 1
近江国南部にある甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市、及び湖南市)の郷士・滝川一勝(たきがわいちかつ)の次男として生まれる。当時の滝川氏は、甲賀を治めていた近江国守護・六角氏の配下にあり、そのあと、滝川一益が、尾張国(愛知県西部)の織田信長に仕えるまでの経歴は不明である。
1562年(永禄5年) 38
織田信長と徳川家康の間で、清洲同盟(きよすどうめい)が締結。そのときの交渉能力が織田信長に認められ、織田家家臣団のなかで、重要な地位を築くきっかけとなる。
1567年(永禄10年) 43
伊勢攻略の先鋒(せんぽう:合戦において、軍の先頭に立って進む役割)として活躍。戦後、現在の三重県津市にあった安濃津城(あのつじょう:別称[津城])や渋見城(しぶみじょう)、そして木造城(こつくりじょう)という3城の守備に任命される。
1570年(永禄13年/
元亀元年)
46
石山本願寺(大阪府大阪市中央区)で反織田信長派による一向一揆が勃発。伊勢国・長島でも門徒が武装蜂起(支配されている者が武装して一斉に立ち上がること)し、織田信長との合戦を開始。このとき滝川一益は、桑名城(三重県桑名市)に籠もったあと、北伊勢で長島一向一揆と対峙しながら、尾張国の守備役を担う。さらには遊軍として各地を転戦した。
1573年(元亀4年/
天正元年)
49
一乗谷城の戦い(いちじょうだにじょうのたたかい)に、参陣する。
1574年(天正2年) 50
3度目の長島一向一揆が勃発。志摩国(現在の三重県志摩半島)の九鬼嘉隆(くきよしたか)と共に水軍を率いて出陣し、一揆を平定。長島城、及び北伊勢8郡のうち5郡を拝領。
1575年(天正3年) 51
長篠の戦い(ながしののたたかい)に、鉄砲隊の総指揮官として参陣。越前一向一揆を攻略する。
1576年(天正4年) 52
織田信長と一向一揆とが対峙した、天王寺の戦い(てんのうじのたたかい)に参戦。
1577年(天正5年) 53
紀州征伐に参戦。
1578年(天正6年) 54
第2次木津川口の戦い(だいにじきづかわぐちのたたかい)では、九鬼水軍と共に白船1隻で出陣。
1579年(天正7年) 55
有岡城(ありおかじょう:兵庫県伊丹市)の戦いで、城側の守備を崩壊させた武功を挙げる。これにより、石山本願寺への兵糧や武器の搬入を阻むことに成功する。
1580年(天正8年) 56
石山本願寺の法主・顕如(けんにょ)が、織田信長に降伏。小田原城神奈川県小田原市)の城主・北条氏政(ほうじょううじまさ)が織田信長に使者を送った際、関東衆の申次(もうしつぎ)に任じられる。
1581年(天正9年) 57
伊賀攻めに参戦。妙心寺(みょうしんじ:京都府京都市右京区)の中で、実子・九天宗瑞(くてんそうずい)を開祖として、暘谷庵(ようこくあん:のちの長興院)を起こす。
1582年(天正10年) 58
織田信長による甲州征伐において、その嫡男・織田信忠(おだのぶただ)が信濃国へ侵攻した際、軍監を務める。武田勝頼を天目山麓で討ち取り、上野国一国、及び隣接する信濃国2郡を拝領。かつて上杉謙信が務めた関東管領に任命される。
本能寺の変が勃発。織田信長の死に乗じて、小田原の北条氏直(ほうじょううじなお)らが率いる総勢56,000人の北条軍が、上野国・倉賀野(現在の群馬県高崎市)へ侵攻。滝川一益は和田に陣を構え、軍勢を迎え撃つ。
清洲会議後、織田信長の嫡孫・三法師が織田家の後継者となることが決まる。三法師を擁立した羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と、織田信長の三男・織田信孝(おだのぶたか)を支援していた柴田勝家の対立に発展。
1583年(天正11年) 59
賤ヶ岳の戦いに柴田方として参戦するも、羽柴軍に敗れ、柴田勝家が自害。それに続いて織田信孝も自害した一方で、滝川一益は長島城に籠城する。孤軍奮闘したが、最終的には羽柴軍に降伏。所領をすべて没収され、妙心寺において剃髪し、越前国(福井県北東部)にて蟄居する。
1584年(天正12年) 60
小牧・長久手の戦いが勃発。羽柴秀吉は旧臣達を招集し、蟄居していた滝川一益も参戦。戦後、羽柴秀吉から3,000石のわずかな所領を与えられ、再び越前国で蟄居の身となる。
1586年(天正14年) 62
9月9日に死去。

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本多忠政の武将年表

本多忠政の武将年表
本多忠政 本多忠政は、江戸時代最強の武将「本多忠勝」の長男です。 本多忠政も勇猛で、名物「塩川来国光」や刀「桑名江」を愛刀とし、1614年(慶長19年)~1615年(慶長20年)にかけて行われた「大坂の陣」では、敵首292を獲るほど活躍。 桑名藩(現在の三重県)10万石、姫路藩(現在の兵庫県)15万石に移封して藩主を務めました。 子供は5人(三男、二女)。 長男はイケメンで有名な「本多忠刻」で、「千姫」と結婚した際に、父とは別途、姫路に10万石を受領。次男「本多政朝」(ほんだまさとも)も播磨龍野5万石を領し、娘婿「小笠原忠真」も明石10万石を領したため、本多忠政の時代には、本多宗家は実質40万石の大大名でした。 本多忠政は1631年(寛永8年)に56歳で病死。 長男・本多忠刻とその子「幸千代」も死去していたため、家督は次男・本多政朝が継いでいます。

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池田輝政の武将・歴史人年表

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池田輝政 「池田輝政」(いけだてるまさ)は1564年(永禄7年)に、「織田信長」の重臣「池田恒興」(いけだつねおき)の次男として、尾張国・清洲(現在の愛知県清須市)で誕生。 元服後、池田輝政は、「織田信長」のもとで近習(きんじゅ:主君の側近くに仕える者)となって働いています。 1579年(天正7年)、織田信長の家臣を務めていた「荒木村重」(あらきむらしげ)が反旗を翻し、「有岡城の戦い」(ありおかじょうのたたかい)が勃発。同合戦に池田輝政は、父と共に参戦しています。 その翌年に、荒木村重が「花隈城」(はなくまじょう:神戸市中央区)に籠ったことで始まった「花隈城の戦い」において池田輝政は、荒木軍の武士5~6人を自身で討ち取ったことが高く評価され、織田信長より感状を授けられました。 そのあと、1582年(天正10年)の「本能寺の変」によって主君・織田信長が亡くなると、池田輝政は、「豊臣秀吉」に仕えることに。 「小牧・長久手の戦い」(こまき・ながくてのたたかい)や「九州平定」(別称[九州征伐])、「小田原の役」(別称[小田原征伐])など、豊臣秀吉による主要な合戦の大半に参陣し、武功を重ねていったのです。 1600年(慶長5年)に起こった「関ヶ原の戦い」において池田輝政は、「徳川家康」率いる東軍に従軍。同合戦での活躍によって池田輝政は、播磨国・姫路(現在の兵庫県姫路市)52万石を賜り、姫路藩初代藩主となったのです。 そして池田輝政は、1601年(慶長6年)より8年の歳月を掛けて、姫路城の大規模な改修を行いました。現在観られる姫路城の姿は、この大改修によってできあがったと考えられています。こうして池田輝政は、姫路藩における藩政の基礎を築き上げ、「西国の将軍」と称されるようになったのです。

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北条氏政の武将年表

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北条氏政 北条氏政は、相模国小田原(現在の神奈川県小田原市)を中心とした関東地方において、一大勢力を誇っていた戦国大名「後北条氏」(ごほうじょうし)の4代当主。 鎌倉時代に執権として実権を握っていた「北条氏」と区別するため、小田原の北条氏は後北条氏と呼ばれています。 北条氏政は、父「北条氏康」(ほうじょううじやす)の存命中に、その家督を相続。 父の補佐を受けながら、歴代の後北条氏当主の中で最大となる版図を広げる活躍を見せます。 しかし、天下統一を叶えるために奮起していた「豊臣秀吉」により、後北条氏の本拠であった「小田原城」(神奈川県小田原市)が攻め落とされたため、同氏は滅亡することとなりました。

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松永久秀の武将・歴史人年表

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松永久秀 「松永久秀」(まつながひさひで)は、その出自に不明な点が多く、山城国(現在の京都府南部)、もしくは摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)出身であったと伝えられています。 当初は摂津国守護代「三好長慶」(みよしながよし)のもとで、右筆(ゆうひつ:文書や記録の作成を司った役職)として仕えていました。 そのあと、松永久秀は「弾正忠」(だんじょうちゅう)に任官し、和泉国(大阪府南西部)の堺代官を務めていたのです。 1559年(永禄2年)、大和国(現在の奈良県)に入った松永久秀は、「筒井順慶」(つついじゅんけい)が拠点としていた「筒井城」(奈良県大和郡山市)を陥落。翌年には「興福寺」(奈良県奈良市)勢力を破り、大和国を平定しました。 これ以降、同国において松永久秀は、「多聞山城」(たもんやまじょう:奈良県奈良市)や「信貴山城」(しぎさんじょう:奈良県生駒郡)などを築きます。 そして、松永久秀は「三好氏」の家老となって権勢を振るい、大和国を支配するようになったのです。 さらに松永久秀は、主君・三好長慶が1564年(永禄7年)に亡くなると、室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)を殺害。 大和国を含む畿内にまで、その実権が及ぶ範囲を拡大しました。1567年(永禄10年)には、三好氏を主導していた「三好三人衆」、及び筒井順慶軍との間で「東大寺大仏殿の戦い」が勃発。 松永久秀は同合戦に勝利しますが、同寺の大仏殿は焼失してしまいました。そのあと、松永久秀は、上洛してきた織田信長の家臣となりますが、1572年(元亀3年)に謀反を起こし、15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)が統率していた「信長包囲網」に加わります。 しかし、1577年(天正5年)の「信貴山城の戦い」で、松永久秀は織田軍に追い詰められ、同城に火を放って自害。68歳で亡くなってしまったのです。

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明智光秀の武将年表

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明智光秀の生涯を歴史年表でご紹介します。明智光秀の出自については、史実が残っておらず、諸説がいくつもあります。明智光秀の死後、江戸時代中期に書かれた「明智軍記」によれば、美濃の守護であった土岐氏(源氏)の一族であると記されていました。 また、「明智氏一族城家相伝系図書」では、明智光秀の母「牧」の妹は、斉藤道三に嫁いだ「小見の方」で、その娘、濃姫(織田信長の正室)と明智光秀は、いとこ同士ということとなっています。ただし、これも通説の域で、確かなものではありません。 明智光秀が主人公である大河ドラマ「麒麟がくる」では、この説を取り上げており、この歴史年表でも明智光秀が土岐一族の分家だという説を採用しました。生誕も1528年(享禄元年)として明智光秀の歴史年表をまとめております。

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朝倉義景の武将年表

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朝倉義景 朝倉義景(あさくらよしかげ)は、越前国(現在の福井県北東部)の守護大名です。 朝倉家の最盛期に生まれ、父・朝倉孝景が没すると、わずか16歳の頃に同家の当主となります。 当初は朝倉家が代々頭を悩まされていた、加賀国(現在の石川県南部)における一向一揆(いっこういっき)の征伐に明け暮れていた朝倉義景。 そのあと一向一揆との和睦を結ぶと、室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の上洛が契機となり、やがて織田信長と対立するように。 反織田信長連合、いわゆる「信長包囲網」の一員として織田勢を相手に奮戦するも朝倉家の重臣・朝倉景鏡(あさくらかげあきら)が織田方に寝返ったことで、41歳の若さで非業の死を遂げました。 そんな朝倉義景は武将のみならず文化人の側面があったことでも知られていた人物。自身の居城・一乗谷城(いちじょうだにじょう:福井県福井市)の城下町に、洗練された京風文化を積極的に取り入れ、往時の繁栄ぶりから現在では「北陸の小京都」と称されています。

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土岐頼芸の武将年表

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土岐頼芸 「土岐頼芸」(ときよりのり)は、群雄割拠の戦国時代において、下剋上の世に翻弄された武将のひとりです。 美濃国(現在の岐阜県)守護「土岐政房」(ときまさふさ)の次男として生まれ、実兄の「土岐頼武」(ときよりたけ)と守護の座を争い、幾度も交戦。 兄に勝利し美濃国守護に就任するも束の間、家臣に裏切られやがて美濃国を追われます。裏切った家臣は、「美濃の蝮」と恐れられた「斎藤道三」(さいとうどうさん)です。 美濃国を追われた土岐頼芸は流浪の身となり、身を寄せていた甲斐国(現在の山梨県)で「織田信長」に捕らえられ、尾張国にて蟄居。 最後は旧臣「稲葉一鉄」(いなばいってつ)の計らいで、美濃国に戻り、81歳で生涯を終えました。土岐頼芸は、和歌や鷹の絵を得意とした文武両道の人物だったと伝えられています。

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那須与一の武将年表

那須与一の武将年表
那須与一 平安時代末期より活躍し鎌倉幕府の御家人(ごけにん)であった那須与一(なすのよいち)は、武勇に優れ、なかでも弓術において卓越した才能を持っていたことから、「弓の名手」として知られている武将です。 源氏と平氏が覇権争いを繰り広げた「治承・寿永の乱」(じしょう・じゅえいのらん:いわゆる[源平合戦])における戦いのひとつ、「屋島の戦い」(やしまのたたかい)では源氏軍に属し、平氏軍から仕掛けられた挑発とも言える「扇の的」(おうぎのまと)を、その弓術の才能を活かして矢で射落とした伝説が今もなお語り継がれています。 しかし、この伝説は鎌倉時代の軍記物語を代表する「平家物語」や「源平盛衰記」に記されているのみで、「吾妻鏡」(あずまかがみ/あづまかがみ)など、同時代に成立した歴史書には登場しておらず、その真偽は不明です。 同様に那須与一の生涯についても判然としない部分が多いため、こちらの年表には平家物語などから現在分かっている事柄のみ掲載しています。

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島津豊久の武将年表

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島津豊久 島津豊久(しまづとよひさ)は、戦国大名であった島津家が、薩摩国(現在の鹿児島県西部)を統一した年に当たる1570年(永禄13年/元亀元年)に生まれました。 戦上手として知られた島津家久(しまづいえひさ)を父に持ち、元服前から武人として育てられ、かなりの美少年であったとも伝えられています。 豊臣秀吉が命じた朝鮮出兵で、出陣に二の足を踏んでいた島津家中における他の武士達をよそに、目覚ましい活躍を見せたのが島津豊久でした。いくつもの合戦において先陣を切り、誰よりも早く敵陣に旗を立てていたのです。 その一方で関ヶ原の戦いでは、のちに「島津の退き口」(しまづののきぐち)と称される作戦において、自軍の大将のみを戦場から脱出させる、「捨て奸」(すてがまり)と呼ばれる撤退戦術を考案するなど、前に出るだけではない作戦を遂行する武将でもありました。 関ヶ原の戦い後、徳川家康が西軍に属していた島津家を処罰しなかったのは、これら捨て身の戦を見て警戒したためだとも言われています。

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