旗本三千石「水野成之」(みずのなりゆき)とは、江戸時代前期に名を馳せた旗本奴(はたもとやっこ:高い身分に生まれた放蕩息子)のことです。偉大な祖父と父の財産を受け継ぎ、水野家3,000石の旗本となりましたが、不敬であったことから即日切腹となった人物。そんな水野成之愛用の打刀(うちがたな)が刀剣ワールド財団に伝来しました。水野成之の生涯と愛用の打刀について詳しくご紹介します。
「水野成之」(みずのなりゆき)は、1630年(寛永7年)生まれ。「旗本奴」(はたもとやっこ)と呼ばれた人物です。旗本奴とは、旗本(将軍の直属で、将軍と謁見する資格がある家臣)という高い身分に生まれたかぶき者、つまりドラ息子、放蕩息子という意味。
水野成之の祖父「水野勝成」(みずのかつなり)は、幼少より「徳川家康」に仕え、100,000石で福山藩の初代藩主(現在の広島県福山市)となった立派な人物でした。父はイケメンと呼ばれた「水野成貞」(みずのなりさだ:水野勝成の三男)で、「徳川家光」(とくがわいえみつ)の小姓(こしょう)となり3,000石を得ましたが、1650年(慶安3年)48歳の若さで逝去。そこで水野成之は、若干20歳で家督を継ぎ、水野家3,000石の旗本となったのです。
しかし、水野成之は旗本奴。旗本として幕府の役職を得たのにもかかわらず、やる気がないのか辞退して無役となり、家臣4人と「大小神祇組」(だいしょうじんぎぐみ)という旗本奴軍団を結成します。家臣を綱(つな)・金時(きんとき)・定光(さだみつ)・季武(すえたけ)と呼んで首領となり、まるで平安時代のヒーロー軍団「頼光四天王」(よりみつしてんのう)気取りで江戸市中を闊歩し、喧嘩や悪行を繰り返しました。
身分は旗本なので、誰も文句が言えません。そこで、町奴(町の伊達男、任俠者)の頭領「幡随院長兵衛」(はんずいいんちょうべい)は、水野成之に対抗します。しかし結局、1657年(明暦3年)、幡随院長兵衛は水野成之に殺害されてしまったのです。
この件に関しても、やはり水野成之にお咎めはなし。ところが、1664年(寛文4年)、水野成之は、評定所へ召喚された際、月代(さかやき:前頭部から頭頂部)を剃らず、着流しの伊達姿で出頭したことがあまりにも不敬だとして、若年寄「土屋数直」(つちやかずなお)の命により、即日切腹となったのです。享年35。
村正
水野成之の愛刀「刀 銘 村正(底銘)」を作刀したのは、刀工「村正」(むらまさ)です。初代・村正は、1501~1555年頃(文亀~天文年間)に伊勢国(現在の三重県)桑名で活躍。
村正の刀は、切れ味が抜群に良いと評判になり、1668年(寛文8年)頃まで6代続くほど繁栄し、多くの武士に愛用されました。しかし、これが「妖刀」(ようとう)と呼ばれる一因になったのです。
妖刀とは、徳川将軍家に災いをもたらす刀という意味。まず、徳川家康の祖父「松平清康」(まつだいらきよやす)が斬り殺されたときに使用されたのが、村正の刀でした。徳川家康の父「松平広忠」(まつだいらひろただ)が刺されたのも村正。また、徳川家康が幼少の頃、怪我をしたときに使っていたのも村正の小刀。さらに、徳川家康の長男「松平信康」(まつだいらのぶやす)が切腹の際に介助した刀も村正など、村正の刀が徳川家に数々の不幸をもたらしたというのです。
そこで、徳川家康は村正の刀をすべて捨てるように命じ、それが所持禁止と伝わり、家臣達はあわてて銘(めい)を潰すなど、村正の刀を処分したのです。しかし、尾張徳川家などでは村正の刀がきちんと伝承されて処分されていないため、現在では所持禁止というのは誤情報。村正は決して妖刀ではなく、それだけ多くの人に所持されるほど人気があったのだと解釈されています。
水野成之の愛刀と言われている「刀 銘 村正(底銘)」は、妖刀を嫌った徳川家への忖度なのか、銘が削られています。しかし、完全に削られているのではなく、「底銘」(そこめい)と呼ばれる、銘が辛うじて読める状態。所持禁止と伝えられた村正を底銘にして愛刀としていたとは、アウトロー(無法者)・水野成之の破天荒ぶりが感じとれます。
なお、水野成之は切腹の際にも正式な作法に従いませんでした。膝に刀を突き刺して切れ味を確かめてから腹を切って亡くなったと伝わっています。
本刀は、地鉄(じがね)が板目肌(いためはだ)詰んで柾(まさ)ごころあり、切れ味の良さを思わせる荒沸(あらにえ)を見せ、刃文(はもん)は箱乱(はこみだれ)風の湾れ刃(のたれば)。村正らしさがよく表れた1振です。