徳川家を支えた武将

尾張徳川家

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尾張徳川家は、徳川将軍家の支系である「徳川御三家」の中で筆頭格の大名家です。徳川氏だけが用いることを許されていた家紋「徳川葵」を掲げる尾張徳川家は、江戸時代に存在した300藩の中でも、随一の家格を誇っていました。現在の愛知県西部に位置する尾張一国に加え、三河国(現在の愛知県東部)、美濃国(現在の岐阜県南部)の一部を領地とし、信濃国(現在の長野県)に連なる木曽山脈も領有していたと言われています。
現在、愛知県の観光名所となっている「名古屋城」(愛知県名古屋市)を本拠とした尾張徳川家は、東海地方の要所を治めることで、農産業を発展させ、確固たる地位を築いたのです。一方で、尾張徳川家は、徳川御三家で唯一将軍を輩出できていない大名家でもあります。なぜ、筆頭格として力を持っていた尾張徳川家が、トップに上り詰めることができなかったのか。尾張徳川家の歴史を見ていきましょう。

尾張徳川家の興り

尾張徳川家の誕生

名古屋城

名古屋城

尾張徳川家」の歴史は、「徳川家康」の九男「徳川義直」(とくがわよしなお)を藩祖とする尾張藩(現在の愛知県)の成立とともに始まります。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後、尾張を治めていた徳川家康の四男「松平忠吉」(まつだいらただよし)が跡継ぎのいないまま逝去。

これに伴い、徳川義直が甲斐国甲府(現在の山梨県甲府市)から尾張へ転封(てんぽう:江戸時代、幕府の命令で大名が配置換えをすること)することに。松平忠吉が居城としていた「清洲城」(きよすじょう:愛知県清須市)に代わり、徳川家康は尾張の新たな本拠として「名古屋城」(愛知県名古屋市)を築城

こうして、尾張藩が成立し、徳川義直を家祖とする尾張徳川家が誕生したのです。

尾張を発展させた徳川義直

尾張転封当時の徳川義直は、まだ6歳と幼かったことから、父・徳川家康の隠居城である「駿府城」(すんぷじょう:静岡県静岡市)に留め置かれていました。徳川家康の死後、1616年(元和2年)に名古屋城に入城し、以後、領内整備に力を注いでいくこととなるのです。

徳川義直

徳川義直

徳川家康の遺志を受け継いだ徳川義直は、東海道の要所である尾張を発展させるため、木曽川近辺の整備を進めて、農業用水を確保するなど、新田開発に努めました。

さらに徳川義直が注力していたのが特産品の流通です。長良川(ながらがわ)流域で収獲される鮎は、徳川将軍家の献上品にも用いられ、諸大名間でも贈答品として重宝されていました。

また、領内で生産されていた織物「有松・鳴海絞り」(ありまつ・なるみしぼり)を尾張藩の特産品として保護し、絞り染めの手ぬぐいや浴衣などを尾張の名品として積極的に売り出すことに。こうして、有松・鳴海絞りは、東海道を行き交う人々に人気のお土産として発展を遂げました。

当時の尾張藩の石高(こくだか:江戸時代の土地評価単位。また、幕府や諸藩の領地や俸禄の規模を示す単位)は619,500石でしたが、徳川義直によるこれらの藩政によって、米の収穫量や木曽の山林収入、特産品による売り上げなどが増加したことで、実際には100万石に近い石高があったと言われているのです。

徳川義直と3代将軍・徳川家光の確執とは?

良君として尾張藩の礎を築いた徳川義直ですが、実は江戸幕府にとっては扱いづらい人物でもありました。徳川義直は、徳川家康の実子ということもあり、非常にプライドが高い人物だったと言われています。それに加え、熱心な勤皇家(きんのうか:天皇につくす考えの人物)でもあったのです。

尾張藩でも「王命に依って催されること」といった藩訓を掲げていたほどで、この藩訓や思想は、幕末まで尾張徳川家に受け継がれていくこととなります。

さらに、自身の甥に当たる3代将軍「徳川家光」の代になると、しばしば幕府と衝突することに。これは、プライドの高い徳川義直が、徳川家康を崇高する徳川家光に対し「尾張徳川家は幕府の家臣ではない」という反抗心を抱いていたからではないかと考えられます。勤皇家として幕府に臣従するのでなく、朝廷の臣であるという思いを持っていたのでしょう。

1634年(寛永11年)に徳川家光が病気になった際、軍を率いて江戸に入った徳川義直の行動に幕府側が慌ててしまったというエピソードも。この徳川義直の軍事行動には、当時まだ跡継ぎがいなかった徳川家光が病に倒れたことで、外様大名達が不穏な動きをみせたり、民衆の不安が強まり暴動に発展したりなどの混乱を危惧し、幕府への義に従い守ることが目的でした。

一方で、幕府に対して、万が一の際には「尾張徳川家在り」という意思を強く示す狙いもあったとされています。しかし、幕府には理解されず、かえって不安にさせてしまったのです。

また、1642年(寛永19年)、徳川家光の長男「竹千代」(たけちよ:のちの4代将軍[徳川家綱])が初詣を行う際、幕府より徳川御三家当主も参加するよう通達がありましたが、「無位無官の者に対して、官位ある者が礼をすることは、典礼に反する」として、徳川義直はこの通達を拒否。日頃より両者の間で確執があったことが伺えます。

幕府と対立を深めた尾張徳川家

尾張徳川家では、徳川義直以降の当主も、家祖である徳川義直の遺志を受け継ぎ、幕府と対等な関係であることを重んじていました。幕府と決定的に対立を深めたのが、7代将軍「徳川家継」(とくがわいえつぐ)が、病により8歳という若さで早世したときのことです。

次代将軍候補に、尾張徳川家の「徳川嗣友」(とくがわつぐとも)の名が挙がるも、紀州徳川家の「徳川吉宗」に競り負けることに。これ以降、尾張徳川家は幕府の方針に反発するようになり、対立していきました。その結果、徳川吉宗によって、以後、尾張徳川家が将軍位に就くことのないよう、1747年(延享4年)に「御三卿制度」(ごさんきょうせいど)が創設されたのです。

徳川御三卿」とは、徳川氏の一族から分立した一族で、「田安徳川家」(たやすとくがわけ)、「一橋徳川家」(ひとつばしとくがわけ)、「清水徳川家」(しみずとくがわけ)の三家体制を指します。なお、1762年(宝暦12年)に、清水徳川家が石高100,000石を賜り、正式にこの3家体制の御三卿が確立。後継者がいない徳川将軍家に跡継ぎを提供する役割を担っていました。

徳川吉宗は、尾張徳川家との対立を踏まえて、初代将軍・徳川家康から続く徳川将軍家の血縁が遠くなってしまうことを避けるために、御三卿制度を創設したのです。

こうして、尾張徳川家は、尾張で独自の文化を築いていきました。江戸時代後期においても幕府・紀州徳川家・御三卿である一橋徳川家と対立関係となり、幕末の戊辰戦争では、新政府軍側として旧幕府軍を破ることとなりました。家祖の徳川義直の精神は、幕末に至るまで尾張徳川家に受け継がれ続けていたのです。

尾張徳川家の著名な人物

尾張藩7代藩主・徳川宗春

徳川宗春

徳川宗春

江戸幕府7代将軍の世継ぎ争いで紀州徳川家に敗れた「徳川宗春」(とくがわむねはる)は、尾張徳川家の中でも特に異彩を放っていた人物。

世継ぎ争いのあと、尾張藩7代藩主となった徳川宗春は、名古屋に入城する際、派手な衣装に身を包み、煙管(きせる:喫煙具)を咥えながら牛に乗って登場したと言われています。

また、質素倹約を徹底する幕府の政策を批判し、盛大な祭りごとを推奨する藩政を実施。名古屋城下に、芝居小屋や遊郭、商店を次々に開店させ、名古屋を全国一の繁華街に発展させたのです。

しかし、徳川宗春の行動は、8代将軍・徳川吉宗の怒りに触れることとなり、幕府から蟄居(ちっきょ:中世から近世、特に江戸時代、武士または公家に対する刑罰のひとつで、閉門し自宅の一室に謹慎させること)命令を出された徳川宗春は隠居することとなりました。

尾張藩14代・17代藩主・徳川慶勝

尾張藩で14代と17代藩主を務めた「徳川慶勝」(とくがわよしかつ)も、尾張徳川家の中で文化を好んだ人物だと言えるでしょう。陸奥国(現在の青森県岩手県宮城県福島県秋田県北東部)会津藩9代藩主「松平容保」(まつだいらかたもり)の実兄であり、写真好きな人物として知られていた徳川慶勝は、通称「写真大名」と呼ばれました。

幕末に欧米から伝来した写真に魅了された徳川慶勝は数多くの写真を残し、徳川慶勝が自ら撮影した写真の枚数は1,000枚近くあり、尾張藩の下屋敷や名古屋城内外の様子、祭りを楽しむ民衆の姿など史料的に価値が高い写真が現存しているのです。

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