「中原親能」(なかはらのちかよし)は鎌倉幕府の草創期より、同幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)の側近となった人物です。公家出身の中原親能は、幕政における文官御家人として活躍。その一方で、源頼朝が携わった主要な合戦にも付きしたがっていました。2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)を指導するために発足した「13人の合議制」にも加わった中原親能が、源頼朝に重用されるまでに出世した経緯について、その生涯と共に紐解いていきます。
中原親能
中原親能の出自については不明な点が多くありますが、一説によると、その生年は1143年(康治2年)であったと伝えられています。
また、中原親能の出自に関して、史料によって違いがあるのはその血統です。
「大友家文書録」には、中原親能は、朝廷で参議を務めていた「藤原光能」(ふじわらのみつよし)の実子でしたが、外祖父(がいそふ:母方の祖父)「中原広季」(なかはらのひろすえ)に養子として迎えられていたとの記述があります。
しかし、日本の系図集「尊卑分脈」(そんぴぶんみゃく)では、中原親能の実父は中原広季であると推測されているのです。どちらにしても中原親能は、中原広季の養子「大江広元」(おおえのひろもと)の5歳上の兄に当たります。
大江広元と言えば、鎌倉幕府の有力御家人であり、源頼朝第一の功臣として幕政に貢献した人物。鎌倉幕府での中原親能と大江広元の活躍ぶりからは、「中原氏」がいかに優秀な血統であったのかが窺えるのです。
源頼朝
幼少の頃は相模国(現在の神奈川県)で育てられた中原親能でしたが、成人して京都に戻ると、権中納言(ごんちゅうなごん)の「源雅頼」(みなもとのまさより)に仕えていました。
この頃までに中原親能は、「平治の乱」(へいじのらん)で「平氏」に敗れ、伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)にて流刑の身となっていた源頼朝と何らかの形で親交があったと伝えられています。
そんな中、1180年(治承4年)に平氏より、中原親能に対して逮捕命令が出される事態が発生。当時の中原親能は、「斎院次官」(さいいんすけ)と称される公職に就いていながら、源頼朝と連絡を取っており、これが、反平氏派の活動と見なされたのです。
平氏による捜索は、中原親能の主君・源雅頼邸にまで及びましたが、このときにはすでに、中原親能の行方は分からなくなっていたと言います。そのあと、京都を出奔した中原親能は、鎌倉へと下向。源頼朝の家臣として、正式に仕えることになったのです。
中原親能が源頼朝の家臣となった理由として考えられるのが、「論語」などの儒教の経書を学ぶ「明経道」(みょうきょうどう)などに精通していたということ。明経道とは、官僚育成機関「大学寮」にて研究する学科であり、父・中原広季がその博士(教官)を務めていました。
そんな父の影響を受けて明経道などを学んでいた中原親能は、幕政には不可欠な文官に適した人材だったのです。そのため、中原親能が京都を出て鎌倉に入ったのは、幕府が成立した際には、その文官として携わってほしいという源頼朝の申し出を受けてのことであったと考えられています。
また、公卿(くぎょう)であった「九条兼実」(くじょうかねざね)による日記「玉葉」(ぎょくよう)に見られるのが、1183年(寿永2年)9月に、源雅頼のもとへ中原親能からの飛脚が送られてきたとの記述。その手紙には、中原親能が源頼朝の使者として上洛する旨が書かれていました。つまり中原親能は、この頃までには源頼朝に仕えていたと推測できるのです。
源頼朝・「源義経」(みなもとのよしつね)兄弟の従兄弟に当たる「源義仲」(みなもとのよしなか:通称[木曽義仲])が上洛したことに伴い、1183年(寿永2年)10月には、源義経率いる鎌倉の軍勢が木曾義仲を討つために京都へ入ります。
このとき、中原親能は源頼朝の代理として京都に赴き、公家との交渉の場面で活躍。さらに翌年1月、木曾義仲を破った源義経軍が再び上洛した際にも同行し、77代天皇「後白河法皇」(ごしらかわほうおう)や貴族達との交渉を担当していました。そのまま京都に残った中原親能は、同年2月、後白河法皇による上洛の命を源頼朝に伝達するため、鎌倉へ下ります。
そして同年4月に中原親能は、平氏討伐軍の奉行として再び京都へ。このように東西を奔走していた中原親能は、「京都守護」と称されるようになったのです。1184年(寿永3年/元暦元年)10月には、源頼朝が御所において、家政機関の「公文所」(くもんじょ)を設置。
中原親能は、それまでの朝廷と幕府における折衝役としての功績が認められ、公文所の職員である「寄人」(よりゅうど)5名のひとりに選ばれたのです。なお、武蔵国(現在の埼玉県、東京都23区、及び神奈川県の一部)の豪族であった「足立遠元」(あだちとおもと)や、中原親能と同じ京下り官人の「二階堂行政」(にかいどうゆきまさ)なども、公文所寄人の一員に名を連ねていました。しかし、中原親能が幕府に貢献したのは、文官としてだけではありません。
壇ノ浦の戦い後、鎌倉に戻った中原親能は1191年(建久2年)、「政所」(まんどころ)の「公事奉行人」(くじぶぎょうにん)に就任。源頼朝から実務官吏(かんり)として重用されます。加えて1189年(文治5年)には、「奥州合戦」(おうしゅうかっせん)に従軍し、その戦後処理にも当たりました。このように中原親能は、幕政の行政面と軍事面、その両方を補佐することで活躍していましたが、1199年(建久10年/正治元年)に源頼朝が逝去。
その跡を継いで2代将軍となった源頼家による専制政治を抑えるために、13人の合議制と称する指導体制が敷かれると、中原親能は、その一員として参加しています。そんな中、中原親能の妻が乳母となっていた源頼朝の次女「三幡」(さんまん)が、源頼朝の死去から約5ヵ月半後に、14歳で早世します。三幡の訃報に接した中原親能は、すぐに京都より駆け付けたあと、出家して「寂忍」(じゃくにん)と号しました。
中原親能がここまでの行動に出たのは、三幡を我が子同然に可愛がっていたこと、そしてそれほどまでに、源頼朝を慕っていた想いの表れであったのかもしれません。そのあと、三幡は、中原親能の鎌倉屋敷があった亀ヶ谷(かめがや)のお堂に埋葬されたと言われています。
1195年(建久6年)に「鎮西守護」(ちんぜいしゅご)に任じられ、豊後国(現在の大分県)や筑前国(現在の福岡県西部)などに荘園を得ていた中原親能は、前述の鎌倉屋敷に住し、主に朝廷と幕府間の折衝役として忙しい日々を送っていました。しかし1209年(承元3年)1月25日、京都滞在中に67歳で亡くなったのです。
中原親能の家系図
大友能直
「大友能直」(おおともよしなお)は、相模国愛甲郡(現在の神奈川県厚木市)にて郷氏(ごうじ:中世において設置された在庁官人の職種のひとつ)を務めていた「近藤能成」(こんどうよしなり)の子として、1172年(承安2年)に生まれます。
そのため大友能直は当初、「近藤能直」(こんどうよしなお)と名乗っていました。源頼朝の庶子とする俗説もありますが、現在では、近藤能成を実父とする説が妥当だとされているのです。
大友能直は、父・近藤能成が早くに亡くなったからか、中原親能に猶子(ゆうし:兄弟や親類などの子を親子関係としたもの)として迎え入れられています。これは、大友能直の母「利根局」(とねのつぼね)の姉が中原親能の妻であり、大友能直が甥に当たる関係であったことが、その理由のひとつだと考えられているのです。
また、大友能直と名乗るようになったのは、母・利根局の父「波多野経家」(はたのつねいえ)が領していた相模国大友郷(現在の神奈川県小田原市)を受け継いだことが始まりであったと言われています。このような経緯によって大友能直は、戦国大名の名門「大友氏」の初代当主となったのです。
1188年(文治4年)、数えで17歳のときに元服した大友能直は、同年、朝廷より「左近将監」(さこんのしょうげん)に任じられました。
左近将監は、宮中の警固などを行う「左近衛府」(さこんえふ)の三等官に当たる役職のこと。大友能直がその座に就くことができたのは、源頼朝が秘密裡に推挙していたことが背景にあったとされているのです。
大友能直が、源頼朝の実子でもないのにこれほど寵愛されていたのは、母・利根局が源頼朝の側室であっただけでなく、養父・中原親能が源頼朝の重臣であったことも理由であると言われていますが、その真偽のほどは定かになっていません。
その後も大友能直は、1189年(文治5年)に勃発した奥州合戦において、近習(きんじゅ/きんじゅう)として源頼朝に付き従ったり、1193年(建久4年)の「曽我兄弟/曾我兄弟の仇討ち」(そがきょうだいのあだうち)では身を挺して源頼朝を守ったりするなどして、高く評価されるようになります。
さらには、1196年(建久7年)に豊前国(現在の福岡県東部)、及び豊後国の守護職と鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)を兼任。加えて1207年(建永2年/承元元年)には筑後国(現在の福岡県南部)の守護に就任するなど、大友氏初代当主にふさわしい活躍を見せたのです。
西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
1143年(康治2年) | 1歳 |
参議・藤原光能の子として誕生。
その後、外祖父の中原広季の養子となる。なお、中原広季を実父とする説もある。 |
1180年(治承4年) | 38歳 |
源頼朝との内通を平氏方から疑われるが、尋問を受ける前に京都から出奔する。
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1183年(寿永2年) | 41歳 |
木曾義仲(源義仲)を討つため、源義経に随行して鎌倉から京都へ出立する。
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1184年(寿永3年/ 元暦元年) |
42歳 |
1月、木曾義仲を討って京都に入る。源頼朝の代官として、朝廷や公家と幕府間の交渉役を担当する。
10月、源頼朝により公文所が設置され、寄人5名のうちのひとりに選ばれる。 |
1185年(元暦2年/ 文治元年) |
43歳 |
壇ノ浦の戦いを始めとする各地の戦いで武功を挙げ、源頼朝より感状を賜る。
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1191年(建久2年) | 49歳 |
政所の公事奉行人に就任する。
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1199年(建久10年/ 正治元年) |
57歳 |
4月、13人の合議制の一員に選ばれる。
6月、出家して法名を寂忍と号する。 |
1209年(承元3年) | 67歳 |
京都にて亡くなる。
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