13人の合議制(鎌倉殿の13人)メンバー

北条時政(ほうじょうときまさ)
 - 刀剣ワールド

文字サイズ

「北条時政」(ほうじょうときまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて歴史に名を刻んだ北条氏一門の武将です。鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)の正室で「尼将軍」とも呼ばれた「北条政子」(ほうじょうまさこ)や、その弟「北条義時」(ほうじょうよしとき)の父としても知られています。この息子である北条義時を主人公とした2022年(令和4年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、「13人の合議制」を構成する御家人のひとりとして登場。北条時政は鎌倉幕府とどのようにかかわり、どんな影響をもたらしたのでしようか。その生涯について詳しくご紹介していきます。

源頼朝の後ろ盾となる北条時政

無名であった前半生

北条時政は、1138年(保延4年)生まれ。父は伊豆国田方郡北条(現在の静岡県伊豆の国市)の豪族「北条時方」(ほうじょうときかた)もしくは「北条時兼」(ほうしょうときかね)、母は「伊豆為房」(いずためふさ)の娘です。北条時政の一族は、「桓武天皇」(かんむてんのう)の直系にあたる「平直方」(たいらのなおかた)の子孫と言われています。

しかし、北条時政の前半生について明らかになっていることは多くありません。鎌倉時代に編纂された日本の歴史書「吾妻鏡」(あづまかがみ/あずまかがみ:[東鑑]とも)では、「当国の豪傑なり」と記されましたが、この記述は特筆すべきことがない場合の常套句であり、北条時政が地元以外では無名な存在だったことが窺えます。

北条時政

北条時政

そんな北条時政が歴史の表舞台に登場するのは1160年(永暦元年)のこと。「平治の乱」で「平清盛」(たいらのきよもり)と戦って敗れ、討死した「源義朝」(みなもとのよしとも)の子「源頼朝」(みなもとのよりとも)が、命は許されたものの伊豆の蛭が小島(ひるがこじま)へ流刑となり、北条時政はこの監視役を任されたのです。

北条時政の継室(後添い)「牧の方」(まきのかた)の父(または兄)である「牧宗親」(まきむねちか)が平清盛の異母弟「平頼盛」(たいらのよりもり)の家来であったこともあり、源頼朝の監視役に選ばれたと言われています。このとき、北条時政は23歳。源頼朝は14歳で、娘の北条政子はわずか4歳でした。

源頼朝と娘の北条政子が結婚

源頼朝の監視役となったことで北条時政の運命が大きく動きます。1177年(治承元年)頃、娘の北条政子が源頼朝と結婚することになったのです。ところが北条時政はこの結婚に反対。

当時は平家全盛の時代であり、平家に敗れて流刑となった源頼朝との結婚が平家に知られればただではすまないと恐れ、北条政子を家に籠らせてしまいます。

それでも源頼朝への想いを募らせた北条政子は、激しい雨の夜に源頼朝のもとへ逃げていってしまいました。駆け落ち同然に結婚した源頼朝と北条政子ですが、翌1178年(治承2年)には2人の間に長女「大姫」が誕生。はじめは反対した北条時政も結局2人の結婚を認め、源頼朝の後ろ盾になります。

源頼朝と手を組んでの挙兵

挙兵までのいきさつ

1180年(治承4年)の関東勢力図

1180年(治承4年)の関東勢力図

その後の1180年(治承4年)4月27日、「後白河天皇」(ごしらかわてんのう)の第3皇子である「以仁王」(もちひとおう)より平氏打倒の令旨(りょうじ:皇太子などの命令を伝える文書)が源頼朝に届きますが、源頼朝は事態を静観し、すぐに動こうとはしません。

しかし、平清盛の義弟「平時忠」(たいらのときただ)が伊豆の国主になると、目代(もくだい:地方官の代理人)として「山木兼隆」(やまきかねたか)が任じられ、さらに平氏と親しい豪族「伊東祐親」(いとうすけちか)が実権を掌握。北条時政や「工藤祐経」(くどうすけつね)など、他の地元豪族は圧力をかけられるようになります。

また、平氏による追及の手が東国まで迫ってきたこともあり、現状に危機感を覚えた源頼朝と北条時政は手を結ぶことを決意。縁故のある坂東武士(ばんどうぶし:関東に領地を持つ武士)に挙兵するよう呼びかけました。

北条時政は源頼朝と計画を練り、攻撃の目標を山木兼隆に定めます。1180年(治承4年)8月17日、北条時政は自らの館を拠点として提供し、自身も襲撃に加わりました。源頼朝軍は山木兼隆を討ち取り、伊豆国の国衙(こくが:地方政治を行う役所)を掌握します。

嫡男を失った「石橋山の戦い」

山木兼隆襲撃ののち、源頼朝は相模国(現在の神奈川県)三浦半島の武家「三浦氏」との合流を目指して、「土肥実平」(どいさねひら)が所領する相模国土肥郷(現在の神奈川県湯河原町)まで進出。北条時政は嫡男の「北条宗時」(ほうじょうむねとき)を伴い、他の伊豆国武士達と共に従軍します。

北上する源頼朝軍の前に平氏方の「大庭景親」(おおばかげちか)が立ちはだかりました。その数およそ3,000騎。源頼朝は300騎を率い、石橋山へ陣を張りますが、このとき南から平氏方の伊東祐親が進軍してきます。源頼朝軍は北の大庭景親と南の伊東祐親に挟み撃ちにされてしまったのです。

折しも、合戦当日は大雨で酒匂川(さかわがわ)が増水し、援軍に駆け付けるはずだった三浦氏の軍勢を阻みます。源頼朝軍は数に勝る大庭景親と伊東祐親の軍勢に対して奮戦するものの多勢に無勢はいかんともしがたく、大敗を喫することとなりました。この戦いで敗走するさなか、北条時政の嫡男・北条宗時は伊東祐親の軍勢に囲まれ討死しています。

「富士川の戦い」にて巻き返す

石橋山の戦いで嫡男を失った北条時政と次男の北条義時は、源頼朝と共に海路で安房国(現在の千葉県南部)へ脱出。そのあと、源頼朝の命により、甲斐国(現在の山梨県)で挙兵した甲斐源氏の「武田信義」(たけだのぶよし)らと合流します。

北条時政と甲斐源氏は駿河国(現在の静岡県中部)へ進攻し、平氏方の駿河国目代「橘遠茂」(たちばなのとおもち)と「長田入道」(おさだにゅうどう)を倒しました。この戦いは「鉢田の戦い」(はちたのたたかい)と呼ばれ、この勝利によって甲斐源氏が駿河国を手中に収めます。

一方、石橋山の戦いで敗れた源頼朝が坂東(関東)で体勢を立て直し、勢力を取り戻しつつあると知った平清盛は、「平維盛」(たいらのこれもり)を総大将とする討伐軍の派遣を決断。ところが、軍勢を整えるのに時間を費やしてしまい、平氏軍が出立したのは平清盛の決断から1ヵ月ほどのちのことでした。

この間に源頼朝は味方の軍勢を増やし、鎌倉入りも果たします。信濃国(現在の長野県)では甲斐源氏の「源義仲」(みなもとのよしなか:[木曾義仲]とも)も挙兵しました。ようやく準備された平家軍は70,000の兵力を擁して進軍しましたが、大飢饉により兵糧の確保が難しかったため、兵士らの士気は上がっていません。

また平氏から高圧的に命じられて出兵しただけで意欲は低かったと言います。それに対して源氏軍の兵士は、一族が先祖代々源氏との信頼関係で強く結びついており、兵士の質が高かったのです。

こうした平氏と源氏の士気の差は顕著に現れることとなり、平氏軍は駿河国富士川の西岸に布陣したものの、対岸に布陣された甲斐源氏や源頼朝の大軍を目の当たりにするとほとんど交戦しないまま次々と敗走、あるいは降伏。総大将の平維盛も敗走し、平氏に与した大庭景親は降伏。伊東祐親は捕縛されたのち自害しました。

この富士川の戦いでは、「平氏軍が、一斉に飛び立つ水鳥の群に驚いて大混乱に陥った」という逸話が有名です。しかし、吾妻鏡の記述においては「平氏軍は敵軍に包囲されるのを警戒していたところ水鳥の飛び立つ音がしたので撤退した」とあるなど、書物によって言い伝えの内容が異なっているため、正確なことは分かっていません。

いずれにしても、富士川の戦いが「治承・寿永の乱」(じしょう・じゅえいのらん:[源平合戦]のこと)と呼ばれる一連の戦いで、源氏方へ流れが変わる大きな転換点になったのは間違いないのです。

源頼朝を立て政権の中枢へ

一族に起こった「亀の前事件」

北条政子

北条政子

1180年(治承4年)の「富士川の戦い」以降、北条時政は一旦歴史の表舞台からは降りたように見えます。しかし一族の間では事件が起こっていました。1182年(寿永元年)、北条政子は自身にとって初めての男児となる「源頼家」(みなもとのよりいえ)を出産。

このとき夫である源頼朝は愛妾の「亀の前」を「伏見広綱」(ふしみひろつな)の住居に匿って寵愛していました。出産後にこの事実を継母(けいぼ)の牧の方から知らされた北条政子は激怒し、牧の方の父・牧宗親に命じて伏見広綱の家を破壊させてしまいます。これに怒った源頼朝は、牧宗親を叱り付け、牧宗親の髻(もとどり:頭の上で髪を束ねたところ)を切って辱めたのです。

これに対して、今度は北条時政が自身の舅(しゅうと)である牧宗親への仕打ちに怒って反発。源頼朝のいる鎌倉から一族を率いて伊豆国へ引き上げてしまいました。源頼朝は大いにうろたえて、北条時政の次男・北条義時だけは引き止めます。そして事件の始末として北条政子の怒りを鎮めるために、自ら亀の前を匿うよう命じたにもかかわらず、伏見広綱を遠江国(現在の静岡県西部)へ追放。

このような処罰を下さなければならなくなったのは紛れもなく源頼朝の失態であり、また北条政子が強い権限を持ち、源頼朝と並び立つほどの存在であったことも窺い知ることができます。そのような存在感があったからこそ、のちに北条政子は源頼朝亡きあとの幕政を仕切り、家臣である御家人達をまとめ上げることもできたのです。

京都守護としての目覚ましい活躍

1185年(元暦2年/寿永4年)3月24日、「壇ノ浦の戦い」(現在の山口県下関市)で平氏が滅び、5年近くも続いた治承・寿永の乱が終結。ところが、源氏の方も一枚岩とはならず、平氏滅亡の立役者である「源義経」(みなもとのよしつね)が兄・源頼朝の意に反する行動を取ったことから兄弟の間に軋轢が生じます。

後白河法皇(かつての後白河天皇)は源義経の要請により源頼朝追討の院宣(上皇または法皇の命を受けて出す文書)を下しますが、もはや源義経には源頼朝に対抗するだけの力はありませんでした。こうした状況下にあって、北条時政は「亀の前事件」で一度は源頼朝に反発したものの、源頼朝からの命を受けて京に入ります。

このとき北条時政は1,000騎を率いており、後白河法皇に源頼朝の怒りを伝え交渉に臨みました。北条時政は源頼朝の要求する「守護・地頭の設置」を認めさせることに成功。守護は一国を支配する役割を担い、その下に置く地頭は郡や郷を支配し、守護・地頭は年貢を徴収する権限を持っていました。

守護・地頭には力のある御家人が任命され、源頼朝はこの制度によって全国支配への布石を打つことができたのです。さらに北条時政は京において、平氏残党の捜索や治安の維持、源義経失脚後に起こった混乱の収拾、また朝廷との政治的な交渉にあたるなど多岐にわたる職務を遂行しています。

これら北条時政が担った職務は「京都守護」と呼ばれるようになりました。京都守護としての北条時政は高い評価を得ましたが、在任期間およそ4ヵ月という短期で後任を公卿の「一条能保」(いちじょうよしやす)に託して京を離れています。

鎌倉へ戻った北条時政は、ふたたび表立った活動を控えるようになりました。その後の1189年(文治5年)、源頼朝は奥州平泉(現在の岩手県南西部)で奥州藤原氏に匿われていた源義経を自害に追い込み、次には奥州藤原氏も滅ぼしてしまいます。

東北地方の強力な勢力も潰した源頼朝は、1192年(建久3年)に「後鳥羽天皇」(ごとばてんのう)より征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉幕府を開きました。

仇討ちの黒幕は北条時政か?「富士の巻狩り」

1193年(建久4年)5月、源頼朝は富士山の裾野で大規模な巻狩り(まきがり)を催します。「巻狩り」とは、軍事訓練のために行われる狩猟の一種で、このときの巻狩りは1ヵ月にも及び、御家人から勢子(せこ)まで加えると総勢70万人が参加したと言われるほどの規模でした。

この富士の巻狩りで歴史に残る事件が勃発します。「曾我祐成」(そがすけなり)と「曾我時致」(そがときむね)の兄弟が、父の仇である工藤祐経を討ち取るという事件が起こったのです。

仇討ちを果たしたあと、曾我兄弟は騒ぎを聞き駆け付けた武将達と大立ち回りを演じ、兄の曾我祐成は「仁田忠常」(にったただつね)にその場で討たれてしまいます。弟の曾我時致は源頼朝が宿泊する場所へ向かったところを取り押さえられ、翌日吟味の末に斬首刑となりました。

弟の曾我時致は、北条時政が烏帽子親(えぼしおや:元服の際に烏帽子をかぶせる役を務める仮の親)であり、元服後北条家に身を寄せていたことから、北条時政が事件の黒幕ではないかとする説が浮上。実際に伊豆国の有力者だった工藤祐経の突然の死は北条時政には有利に働いたのです。

しかし真相は明らかになっていません。また同じ年の8月には、遠江国を長らく実効支配していた「安田義定」(やすだよしさだ)が謀反の疑いをかけられて処刑され、そのあと遠江国の守護を任じられたのが北条時政だと伝えられています。伊豆国・駿河国・遠江国という3国で足場を固めた北条時政。

1199年(正治元年)に源頼朝が53歳で急死すると、わずか18歳で跡を継いだ源頼家を補佐するために集団指導体制を取った13人の合議制の一翼を担うことに。ふたたび、幕府の有力者として表舞台に登場します。

初代執権として鎌倉幕府を掌握

13人の合議制設立後に「梶原景時の乱」が勃発

楊洲周延 作「源平盛衰記 四 梶原景時」
楊洲周延 作
「源平盛衰記 四 梶原景時」

13人の合議制が敷かれたのは、源頼朝の嫡男で家督を相続した源頼家が2代将軍こと2代目の「鎌倉殿」となった3ヵ月後。

13人の合議制には、北条時政やその子・北条義時をはじめ、侍所別当(御家人の統率と警察の任にあたった組織の長官)の「梶原景時」(かじわらかげとき)、信濃・上野守護「比企能員」(ひきよしかず)、初代侍所別当「和田義盛」(わだよしもり)などが名を連ねました。

若い源頼家は、訴訟など物事を判断するときに慣習を無視することが多く、御家人達の反発を招いていたのです。

そこで、将軍である源頼家自らが直接裁断する親裁(しんさい)は停止され、13人の有力者による合議によって決定されることになりました。ただし、政治制度として合議の結果はあくまで参考とするものであり、最終的な判断を下すのは源頼家にゆだねられています。

そして13人の合議制の設立から半年ほどが過ぎた頃、梶原景時の讒訴(ざんそ:他人を陥れようとして主人に対し事実を曲げて伝えること)により、源頼朝の側近を務めた「結城朝光」(ゆうきともみつ)が窮地に立たされると、これに憤った御家人達は66名による梶原景時糾弾の連判状を源頼家に提出。

梶原景時は鎌倉からの追放を申し渡されたため、13人の合議制を構成する御家人は早くもひとりが失脚することとなったのです。翌1200年(正治2年)、梶原景時は一族を率いて京へ上る途中、東海道の駿河国清見関(現在の静岡県静岡市清水区)付近で、その場に居合わせた地元の武士達に見つかり襲撃を受け、合戦となるも梶原景時と嫡男他多くが討死。一族33名の首が街道上に晒されたと言います。

北条時政は連判状には署名しませんでした。しかし、連判状が作成されたきっかけは、北条時政の娘である「阿波局」(あわのつぼね)が結城朝光に対して「梶原景時があなたを亡き者にしようとしている」と告げたことで、驚いた結城朝光が御家人達に呼びかけたためであり、梶原景時と一族が襲撃された駿河国清見関は北条時政の勢力範囲であることから、梶原景時の失脚には北条時政がかかわっていた可能性は否定できません。

13人の合議制は、梶原景時が失脚し、また翌年「安達盛長」(あだちもりなが)と「三浦義澄」(みうらよしずみ)が病死したことで事実上解体となりました。

政敵を滅ぼし、源頼家の将軍職を廃す

1200年(正治2年)4月1日、北条時政は遠江守(とおとうみのかみ)に任ぜられ国司(こくし/くにのつかさ:中央から派遣される行政官)となりました。源氏一門以外の御家人としては初めてのことで幕府内での大出世と言えます。

しかし、将軍家の外戚としての権勢は、源頼家の側室「若狭局」(わかさのつぼね)の父・比企能員が握りつつあり、北条時政と比企氏との対立は激しくなる一方でした1203年(建仁3年)7月、源頼家が病に倒れます。

すると北条時政に不満を抱いていた比企能員が病床の源頼家に北条時政追討の命令を出すよう迫ったのです。これを聞いた北条政子が父の北条時政に知らせたため、北条時政は先手を打って仏事を理由に比企能員を鎌倉にある自邸へ呼び寄せると、手勢の「天野遠景」(あまのとおかげ)と仁田忠常に謀殺させました。

さらに北条政子が比企一族討伐の命を下し、北条義時を大将とする軍勢が出撃。比企一族を滅亡させます。さらに北条時政は源頼家の将軍職を廃し、伊豆国の「修善寺」(静岡県伊豆市)へ追放しました。

そして源頼家がまだ存命であるにもかかわらず、朝廷に源頼家が死去したという虚偽の報告をした上で、12歳の「源実朝」(みなもとのさねとも)を3代将軍に擁立します。源実朝は阿波局が乳母を務めた、源頼家の弟です。修善寺に幽閉されていた源頼家は、のちに北条義時が差し向けた刺客によって入浴中に殺害されました。

北条氏が幕府を統轄

北条時政は3代将軍に擁立した源実朝を自邸の名越邸に迎え幕府の実権を握ります。幕府が発する「関東下知状」(かんとうげちじょう)という文書を北条時政が単独で署名し、御家人達の所領安堵(しょりょうあんど:土地の権利などを承認・保証する行為)等の政務を行った他、「大江広元」(おおえのひろもと)が担っている政所別当(まんどころべっとう:政務・財政を司る組織の長官)に自らも就任して大江広元の権限を抑制するなど、鎌倉幕府における専制を確立。

初代執権となって幕政を統轄していきます。1204年(元久元年)3月6日には北条義時が相模守に任命され、幕府にとって要である武蔵国(現在の東京都埼玉県、神奈川県の一部)と相模国の国務を北条時政・北条義時の父子で掌握することになったのです。

情勢を読み違えた北条時政

京の酒宴で娘婿の2人が対立

北条時政を中心とした家系図

北条時政を中心とした家系図

幕府の実権を握った北条時政でしたが、武蔵国支配を強化するにつれ、武蔵国の有力御家人であり、武士団を統率する役目を担った「畠山重忠」(はたけやましげただ)との間に確執が生じます。畠山重忠は武勇の誉れ高く人望があり、源頼朝の時代には常に戦の先陣を務めてきました。

そして、北条時政と前妻である伊藤祐親の娘にとっては娘婿であったのです。1204年(元久元年)11月4日、将軍・源実朝が「坊門信子」(ぼうもんのぶこ)を正室に迎えるための使者として御家人達が上洛。京都守護である「平賀朝雅」(ひらがともまさ)の邸宅で歓迎の酒宴が開かれました。平賀朝雅は、北条時政と後妻である牧の方の娘婿です。

この酒の席で畠山重忠の嫡男「畠山重保」(はたけやましげやす)と平賀朝雅が言い争いとなり、その場は周囲の取り成しで一旦は収まりますが、大きな火種を残すことになりました。翌11月5日、御家人らと共に上洛していた北条時政と牧の方の子「北条政範」(ほうじょうまさのり)が病にかかり16歳の若さで急死します。この訃報と、畠山重保と平賀朝雅の争いに関する報告は同時に北条時政のもとへ届きました。

これらの出来事は火種となってくすぶり続け、翌1205年(元久2年)6月11日、酒宴での争いを根に持っていたとされる平賀朝雅が、畠山重忠と畠山重保の父子が謀反を起こすと牧の方に讒訴。牧の方はこれを北条時政に訴え、北条時政が子の北条義時に畠山重忠討伐を相談します。北条義時は、忠義に厚い畠山重忠が謀反を起こすはずはないと反対しますが、牧の方に押し切られるかたちで畠山重忠討伐に同意しました。

「畠山重忠の乱」が北条時政失脚の口火に

畠山重忠が鎌倉で謀反を起こしたという偽情報により、各地の御家人が畠山重忠を討つべく軍勢を差し向けたため、鎌倉は大騒動になります。

このとき鎌倉にいた畠山重保は、北条時政方の武将に取り囲まれ、自分が謀反人に仕立てられていることに気付き奮戦しますが、多勢に無勢であり家来共々殺害されました。鎌倉での騒ぎを聞いた畠山重忠も、何事が起きているのかと武蔵国にある居城の「菅谷城」(現在の埼玉県比企郡嵐山町)から少数の軍勢を率いて出発します。

しかし二俣川(神奈川県横浜市旭区)に差しかかったところで討伐軍に遭遇。息子の畠山重保がすでに討たれ、自分に対して討伐軍が差し向けられたと知った畠山重忠は、潔く戦うことを選び、4時間余りに及ぶ激闘を繰り広げたのち討ち取られました。

戦いののち、畠山重忠の軍勢が少数であったことから、「謀反の企てあり」とした知らせは虚報であったことが知れ渡ります。畠山重忠の無実を知った北条義時は、畠山重忠の首を見て涙を流し、北条時政は何も言わずに引き下がったとのことです。

「畠山重忠の乱」と呼ばれるこの事件をきっかけとして、北条時政は幕府内での影響力を失ったため、これを挽回する目的で牧の方と共謀し、将軍の源実朝を殺害して平賀朝雅を新将軍に擁立しようとしました。しかし、この余りにも強引な手法には北条義時と北条政子もさすがに反感を持ち、源実朝を北条義時の邸宅に迎え保護すると、北条時政側の御家人も大半が北条義時の味方に。

北条時政の陰謀は失敗したのです。幕府内で孤立した北条時政は執権職を剥奪されたのち出家。牧の方と共に鎌倉から追放され、領地である伊豆国で隠居することとなります。その後、平賀朝雅も北条義時の命によって殺害され、北条義時が2代執権に就任しました。以降、北条時政が政治の表舞台に返り咲くことはなく、1215年(建保3年)1月6日に腫瘍のため死去します。享年78歳。

北条時政ゆかりの名刀「鬼丸国綱」

太刀の化身が北条時政を悪夢から救う

13人の合議制を構成するひとりであり、初代執権として鎌倉幕府を掌握した北条時政。そんな北条時政にゆかりのある名刀が「天下五剣」(てんがごけん)の1振に数えられる「鬼丸国綱」(おにまるくにつな)です。

鬼丸国綱の作者は、鎌倉時代に山城国(現在の京都府)で活躍した「粟田口国綱」(あわたぐちくにつな)で「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう:かつての後鳥羽天皇)が設けた「御番鍛冶」(ごばんかじ)にも選ばれた名工として知られています。

北条時政が悪夢に取り憑かれたときのこと。夜な夜な夢に小鬼が現れては枕元を歩き回り、眠りを妨げるため体調を崩してしまったのです。陰陽師(おんみょうじ)に加持祈祷を行ってもらっても効果はなく、日ごと憔悴していく一方でした。

ある夜、夢の中に小鬼ならぬ翁(おきな:年老いた男性)が現れ、「私は粟田口国綱の太刀の化身である。小鬼を退治してやりたいが、刀身が錆び付いているためか鞘から抜け出すことができない」と語りかけてきたのです。朝になると、北条時政は粟田口国綱の太刀を念入りに研いで清め、抜き身のまま寝床近くの柱に立て掛けておきました。

その日の夜、北条時政が火鉢の側で眠っていると、大きな衝撃音がして目を覚まします。よく見ると、粟田口国綱の太刀が倒れ、火鉢の足を切っていました。そこには鬼をかたどった彫金が施されており、倒れた太刀はちょうど鬼の首にあたる部分を断ち切っていたのです。

この鬼の彫金こそが北条時政を苦しめていた小鬼の正体であり、以降夢の中に小鬼が現れることはなくなりました。このあと、粟田口国綱の太刀は鬼を退治したことにちなんで鬼丸国綱と名付けられたのです。この伝説は室町時代に成立した「太平記」という軍記物語に登場。

太平記では鬼丸国綱を所持していたのは北条時政とされていますが、刀工・粟田口国綱が活動した期間はもう少し時代が下がってからであるため、鬼丸国綱を作らせたのは北条時政の子孫で5代執権となった「北条時頼」(ほうじょうときより)であるとも言われています。鬼丸国綱は明治維新後に皇室へ献上されました。現在は御物(ぎょぶつ:皇室の財産)として宮内庁が管理しています。

鬼丸国綱
鬼丸国綱
國綱
鑑定区分
御物
刃長
78.2
所蔵・伝来
北条時頼 →
新田義貞 →
斯波高経 →
足利家 →
織田信長 →
豊臣秀吉 →
徳川家康 →
皇室

北条時政(ほうじょうときまさ)

北条時政(ほうじょうときまさ)をSNSでシェアする

「13人の合議制(鎌倉殿の13人)メンバー」の記事を読む


北条義時(ほうじょうよしとき)

北条義時(ほうじょうよしとき)
日本史上初めての武家政権として、1185年(元暦2年/文治元年)に開かれた鎌倉幕府。その開府まで、同幕府初代将軍となる「源頼朝」(みなもとのよりとも)を陰になり日向になり支えたのは、伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)を拠点とした地方豪族の「北条氏」でした。源頼朝の没後、徐々に勢力を拡大した北条氏のなかで「北条時政」(ほうじょうときまさ)が、鎌倉幕府において実質的な権力を握る「執権」(しっけん)の座に就きましたが、その地位を確固たるものにしたのは、2代執権となった「北条義時」(ほうじょうよしとき)です。2022年(令和4年)放送のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(かまくらどのの13にん)の主役にも選ばれた北条義時について、その生涯を辿りながら、北条氏による執権政治を完成させた経緯についてもご説明します。

北条義時(ほうじょうよしとき)

梶原景時(かじわらかげとき)

梶原景時(かじわらかげとき)
「梶原景時」(かじわらかげとき)は、鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)に仕えたことで知られる、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将です。 人気の高い「源義経」(みなもとのよしつね)と戦術や行動を巡ってしばしば対立したことから、後世の江戸時代には悪役のイメージで語られることが多くなりましたが、実際には実務能力の高い教養人であり、源頼朝からの信任が厚い人物だったと伝えられています。 決して一本調子ではなかった梶原景時の生涯について、有名なエピソードを交えながら、悲劇的な最期まで見ていきましょう。

梶原景時(かじわらかげとき)

和田義盛(わだよしもり)

和田義盛(わだよしもり)
「和田義盛」(わだよしもり)は、「13人の合議制」のひとり。鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」とともに、様々な合戦で活躍したことで知られる御家人です。武勇に優れ、弓の名手とも称された和田義盛は、政治の面でも活躍しており、鎌倉幕府の初代「侍所別当」(さむらいどころべっとう:御家人を統括する機関[侍所]の長官)にも任じられました。武勇と政務の手腕を発揮した和田義盛とは、どのような人物だったのか。ここでは、和田義盛の生涯と、和田義盛が起こした反乱「和田合戦」についてご紹介します。

和田義盛(わだよしもり)

比企能員(ひきよしかず)

比企能員(ひきよしかず)
「比企能員」(ひきよしかず)は、「13人の合議制」のひとり。鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」や2代将軍「源頼家」を支え、権勢を握った比企能員ですが、その権力の大きさゆえに「北条氏」から目を付けられることになります。比企能員とは、どのような人物だったのか。ここでは、比企能員の生涯と、比企能員が起こした政変「比企能員の変」についてご紹介します。

比企能員(ひきよしかず)

三浦義澄(みうらよしずみ)

三浦義澄(みうらよしずみ)
「三浦義澄」(みうらよしずみ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した相模国(現在の神奈川県)の武将です。相模国と言えば鎌倉幕府の根拠地となった場所ですが、三浦義澄は同国の守護職を任されるほどに、同幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)より篤い信頼を得ていました。平家討伐と鎌倉幕府の発展に注力した三浦義澄の生涯を追いつつ、源頼朝との信頼関係を築いた経緯についても解説します。

三浦義澄(みうらよしずみ)

大江広元(おおえのひろもと)

大江広元(おおえのひろもと)
公家出身でありながら、鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)の腹心として、同幕府の草創期に大きく貢献した「大江広元」(おおえのひろもと)。鎌倉幕府内では、一般的な政務や財政を司る「政所」の長官、「政所別当」(まんどころべっとう)として活躍した大江広元が、どのような生涯を送ったのか、その人となりが窺える逸話などを交えてご説明します。

大江広元(おおえのひろもと)

三善康信(みよしのやすのぶ)

三善康信(みよしのやすのぶ)
鎌倉幕府が開かれる以前より、「源頼朝」(みなもとのよりとも)を支えていた「三善康信」(みよしのやすのぶ)。同幕府成立後は、現代における裁判所のような役割を果たしていた「問注所」(もんちゅうじょ/もんぢゅうしょ)の初代執事として、その敏腕ぶりを発揮。下級貴族出身でありながら源氏将軍家の重臣にまで上り詰め、2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)を13名の有力御家人達が補佐する指導体制、「13人の合議制」にも参加しました。三善康信が如何にして源氏将軍家から重用されるようになったのか、その半生を振り返りながらご説明します。

三善康信(みよしのやすのぶ)

中原親能(なかはらのちかよし)

中原親能(なかはらのちかよし)
「中原親能」(なかはらのちかよし)は鎌倉幕府の草創期より、同幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)の側近となった人物です。公家出身の中原親能は、幕政における文官御家人として活躍。その一方で、源頼朝が携わった主要な合戦にも付きしたがっていました。2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)を指導するために発足した「13人の合議制」にも加わった中原親能が、源頼朝に重用されるまでに出世した経緯について、その生涯と共に紐解いていきます。

中原親能(なかはらのちかよし)

八田知家(はったともいえ)

八田知家(はったともいえ)
「八田知家」(はったともいえ)は、「鎌倉幕府」の御家人(将軍直属の武士)を務め、同幕府2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)を幕政において補佐するために設けられた指導体制、「13人の合議制」のひとりにも選ばれた武将です。「源氏」4代に仕えた八田知家の生涯を辿りながら、鎌倉幕府での八田知家での役割とその活躍についてご説明します。

八田知家(はったともいえ)

注目ワード
注目ワード