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1180年(治承4年)、源氏と平家の争いである「源平合戦」のクライマックスである「治承・寿永の乱」が始まります。ここで源平合戦最大のヒーロー・源義経の活躍が繰り広げられるのです。

「源平合戦」の様子を描いた六扇からなる屏風をご覧頂けます。

治承・寿永の乱のはじまり~打倒平氏の高まり~

ここでは、「源平合戦」のクライマックス、6年にも及ぶ内乱の「治承・寿永の乱」についてご紹介します。

治承・寿永の乱のきっかけ~以仁王の挙兵~

以仁王の挙兵

以仁王の挙兵

1180年(治承4年)4月、「安徳天皇」の即位で皇位継承が絶望的となった「以仁王」(もちひとおう)が、「源頼政」(みなもとよりまさ)と組み「以仁王の令旨」を出して、諸国の源氏に打倒平氏の挙兵を促しました。

源頼政は、保元の乱・平治の乱の両方で、勝者側に付いて生き残り、平家が専横を極める中、源氏としては破格の出世を遂げます。1178年(治承2年)、74歳で「従三位」(じゅさんみ)に叙せられました。「従三位」からが「公卿」(最高幹部・高官)であり、一門の悲願だったのです。

しかし不思議なのは、源頼政は平清盛からの信頼も厚く、源氏の長老として栄達し、従三位昇進後は、出家して家督を譲りました。このまま静かに余生を過ごすこともできたはずなのに、なぜ平家に対して挙兵したのでしょうか。

理由は、諸説あり、源頼政の嫡男「源仲綱」(みなもとなかつな)が、平清盛の三男「平宗盛」(たいらのむねもり)に馬をめぐって恥をかかされたことをきっかけとする説や、源頼政は鳥羽上皇直系の近衛「二条天皇」に仕えていたため、系統の違う高倉・安徳天皇の即位に反発したとする説などです。

以仁王は、「後白河法皇」の第3皇子で、母方の家柄も良い上に、幼少から英才の誉れが高く、皇位継承者として有力でしたが、平清盛の義理の甥に当たる弟の高倉天皇を即位させたい平家に邪魔をされ続けました。

明治時代以前には、天皇の子女でも親王宣下を受けない限り、親王(内親王)を名乗ることはできませんでしたが、以仁王は、平家の圧力で親王宣下すら受けられなかったのです。

挙兵の計画が発覚すると、平家の圧力で、以仁王は皇族籍を剥奪され、「源以光」(みなもともちてる)となり、土佐への島流しが決定。抵抗して源頼政と共に宇治平等院で戦いますが、敗死し、「以仁王の挙兵」は終結します。

以仁王の挙兵は、すぐに計画が露見したことで、早期に鎮圧されますが、この件をきっかけに諸国の反平氏勢力の声が高まり、これが6年間に及ぶ内乱の契機となるのです。

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源頼朝の挙兵~石橋山の戦い~

源頼朝

源頼朝

1180年(治承4年)4月、源頼政が配った以仁王の令旨を受け取った人物の中に、平治の乱で戦死した源氏の棟梁「源義朝」(みなもとよしとも)の嫡男で、伊豆に流刑になった「源頼朝」がいました。

源頼朝は、平家が令旨を受けた源氏の討伐を企てていることを知ると、挙兵を決意。妻「北条政子」の実家の北条家を後ろ盾に、父・源義朝の遺した関東における影響力をもとにして、8月17日、相模・伊豆・武蔵の武士団を集めて挙兵します。

最初に伊豆国目代「山木兼隆」(やまきかねたか)を襲撃して、討ち取るも、相模国において「大庭景親」(おおばかげちか)や「伊東祐親」(いとうすけちか)などと戦い、惨敗。しかし、窮地に陥った源頼朝を、「飯田家義」(いいだいえよし)や「梶原景時」(かじわらかげとき)が救い、のちの鎌倉政権では源頼朝に信頼され、重用されることになります。

源頼朝は、その後海路安房(あわ:現在の千葉県)へ逃げ、安房の諸豪族の援助で、勢力を盛り返していきました。

源頼朝が挙兵したのを知ると、平家に反感を持つ相模や武蔵の諸豪族などが次々と集まり、気づけば大勢力に。10月6日、坂東南部(南関東)を制圧した源頼朝は相模国鎌倉に入り、本拠地と定めます。

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平家の大敗~富士川の戦い~

平清盛

平清盛

1180年(治承4年)9月1日、関東における源頼朝挙兵の報を知ると、平清盛は追討軍の派兵を決定。29日に京を出立しました。

その間に源頼朝は勢力を拡大し続け、甲斐の武田氏(甲斐源氏)や信濃の「木曽義仲」(源頼朝の従弟:源義仲)が挙兵し、反平家勢力の勢いは広がっていきます。

1180年(治承4年)10月13日、追討軍は駿河国に入り、16日に源頼朝も鎌倉を出発。源頼朝軍は膨れ上がり、5万とも20万を越えていたとも言われます。

20日に富士川をはさんで両軍は対峙。数千の追討軍は、源頼朝軍のあまりの大軍に恐れをなして逃げ出す者が続出します。

そもそも、追討軍は、平家の不人気から兵がなかなか集まらず、進軍しながらかき集めた寄せ集めの兵がほとんどでした。さらに、当時西国では大飢饉の真っ最中で兵糧も足りず、兵士達の士気が非常に低く、とてもまともに戦える状態ではなかったのです。

その夜、追討軍が突如撤退したため、目立った戦闘が行なわれることのないまま「富士川の戦い」は終結しました。平氏軍は突然パニック状態となり、平清盛の孫で総大将「平維盛」(たいらのこれもり)は撤退を決め、平氏軍は総崩れとなったのです。

「夜に富士沼の水鳥が飛び立ったのを源氏の夜襲と勘違いして、平氏軍は我先にと逃げ出した」という有名なこの逸話は後世の創作ですが、実際には甲斐の武田氏(甲斐源氏)軍の奇襲があり、水鳥の羽音でそれを察知したが、戦いの準備ができていなかったので撤退したとも言われています。

源頼朝の台頭と平清盛の死~源平の運命の逆転~

挙兵当時の源頼朝の目的は、戦いに勝利して上洛(京都に行くこと)し、中央政権へ復権することでしたが、当時の関東の武士が最優先に望んでいたのは、関東の安定で、彼らは源頼朝に関東の武士を取りまとめることを望んでいました。

ちょうどこの頃、源頼朝の異母弟で奥州藤原氏の庇護を受けていた「源義経」が兄のもとに馳せ参じて、富士川の戦い後の黄瀬川の陣で涙の対面を果たします。

源義経ともう1人の弟「源範頼」(みなもとのりより)に平家追討の指揮を任せて、鎌倉に源頼朝は腰を据え、関東の平定に専念することになったのです。

当時は、源頼朝と木曽義仲や武田信義(甲斐源氏)の3人で源氏の棟梁の役割をしていました。富士川の戦いも源頼朝が中心の挙兵と思われてきましたが、最近の研究では、合戦の中心にいたのは甲斐源氏だったのではないかと言われています。のちに木曽義仲を倒し、武田氏から駿河の守護職を奪い、源頼朝は自分と同格の棟梁を潰すのに成功したのです。

富士川の戦いが起きた東国以外の諸国でも、多くの反平氏勢力の挙兵が続き、活発化していきました。そうした中で、平家には不運が続きます。

1181年(治承5年)1月、院政を行なっていた高倉上皇が崩御し、後白河院政が復活。そして、2月には棟梁である平清盛が亡くなってしまうのです。平家は一門を支える大黒柱であり、偉大な指導者を失ってしまったのでした。

将来を嘱望された嫡男の平重盛はすでに病死しており、あとを継いだ三男の平宗盛には、動乱の時代の平家を率いる器量はなかったのです。

源氏の敗退~墨俣川の戦い~

富士川の戦いで無残に敗れた平家ですが、再度、源頼朝軍を追討するために、1181年(治承5年)4月、東国へ兵を派遣します。

尾張・三河に勢力を伸ばしつつあった「源行家」(みなもとゆきいえ)が尾張・美濃国境付近の墨俣川(すのまたがわ:現在の長良川)において迎え撃ちました。

源行家は源頼朝の父・源義朝の弟で、兄に従った平治の乱では敗れるも熊野に逃れることに成功。源頼政の命で「以仁王の令旨」を伝えるも、源頼朝の傘下に入らずに独立を目指していたため、尾張で平家を食い止め、源頼朝に恩を売るつもりだったとされています。

しかし、奇襲をかけるも平氏軍に見抜かれ、「墨俣川の戦い」において、行家軍は大敗してしまいました。この戦いで、源義経の同母兄の「源義円」(みなもとぎえん)、尾張源氏の「源重光」(みなもとしげみつ)、大和源氏の「源頼光」(みなもとよりみつ)などが戦死。

この敗戦がきっかけで、源行家は源頼朝を頼りますが、のちに対立。行家は木曽義仲のもとへ走り、最期は源頼朝と対立した源義経と運命を共にすることになります。

治承・寿永の乱 中期~木曽義仲VS源頼朝~

墨俣川の戦い以降、東国での戦況が好転し、西での反乱勢力の制圧にも成功した平家は、北陸の反乱勢力を抑えるために、たびたび挙兵します。それを迎え撃つ木曽義仲の台頭と上洛、源頼朝・源義経軍との戦いと戦死までが、源平合戦の中盤となります。

なぜ、木曽義仲は源頼朝に討たれなくてはならなかったのか?

巴御前

木曽義仲と巴御前

「治承・寿永の乱」の中盤の見どころは、源頼朝の従弟・木曽義仲の活躍と台頭から、源頼朝の鎌倉方に滅ぼされるまでです。源氏と平家の戦いだったはずが、いつのまにか源氏同士の戦いに。しかし、この当時は、同じ一族や兄弟で殺し合うことも珍しい時代ではありませんでした。

木曽義仲の父「源義賢」(みなもとよしかた)は、その兄・源義朝(源頼朝の父)と対立して、源義朝の長男で甥に当たる「源義平」(みなもとよしひら:源頼朝の異母兄)に討たれています。木曽義仲にも当時殺害命令が出されましたが、源義朝の家臣の計らいで信濃国へ逃れました。

当然木曽義仲にとって見れば、源頼朝は父の敵も同然。源頼朝にとっても、木曽義仲は、いつ牙を剥くか分からない脅威でしかありません。

源頼朝自身が、平家の情けで生かされた結果、長じて平家を滅ぼすことになったためか、源頼朝は自分への対抗勢力の芽を摘むということに、非常に神経を配っていました。それは実の弟ですら例外ではなかったのです。

源頼朝はのちに、共に平家を滅ぼした弟の源義経や源範頼まで殺してしまいます。源義経だけでなく、その子供まで容赦なく殺した源頼朝は冷徹だと見る向きもありますが、のちの争いを避けるためには必要だったとも言えるのです。

平家の信濃・北陸討伐~横田河原の戦い・火打城の戦い・般若野の戦い~

1181年(治承5年)6月、木曽義仲などの信濃の源氏に対抗するために、平氏が越後の「城長茂」(じょうながもち)を差し向け、「横田河原の戦い」が起こりました。

城長茂は、川中島南部の横田城に1万の大軍を率いて布陣。対する木曽義仲軍は、木曽衆・佐久衆・上州衆など3,000の軍を上州に近い依田城に集結し、両者は横田河原において決戦します。

木曽義仲軍の奇襲が成功し、兵力では城軍よりはるかに劣るにもかかわらず、木曽義仲軍が勝利しました。城長茂は奥州会津に逃れるも、奥州藤原氏により攻撃を受け、会津をも追われ、城氏は急激に衰退、木曽義仲は越後の実権を握ります。

1183年(寿永2年)4月、平家は今度こそ、打倒源氏を掲げ、平維盛・平通盛率いる10万の大軍を派遣。越前・加賀の反乱勢力の討伐に成功(火打城の戦い)し、木曽義仲は越中へ後退を余儀なくされました。しかし、5月9日明け方、今度は木曽義仲軍の奇襲で平氏軍は退却します(般若野の戦い)。

木曽義仲の台頭~倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い(砺波山の戦い)~

一旦退却した平家軍は、志雄山(能登国)と砺波山(加賀国と越中国国境)に分かれて布陣しました。いよいよ歴史に残る決戦「倶利伽羅峠(砺波山)の戦い」のはじまりです。

1183年(寿永2年)5月11日、木曽義仲は、志雄山に源行家軍を向かわせ、木曽義仲本隊は砺波山に向かい、その夜、奇襲をかけました。

驚いて大混乱に陥り、退却しようとする平氏軍を、先に回りこませておいた「樋口兼光」の隊とで挟み撃ちにします。平氏軍が、敵の攻めてこない方向に逃げた先は、「倶利伽羅峠の断崖」でした。兵士達は雪崩のように次々と谷底に転落していき、平家は追討軍10万の大半を失ってしまったのです。この戦いで、平家と源氏の立場は逆転しました。

この戦いでは、木曽義仲軍が松明をくくりつけた数百頭の牛を敵中に向け放った「火牛(かぎゅう)の計」と言う、有名な一場面がありますが、今日では創作だとも言われています。木曽義仲軍の勝ち方があまりに見事であったために生まれた伝承だと言えるでしょう。

木曽義仲の上洛

大勝した木曽義仲は、勢いに乗って京を目指し、同年7月に念願の上洛を果たします。10万の大軍を失った平家は、京を捨てて、安徳天皇と三種の神器を伴い、西国へ落ち延びてしまいました。

三種の神器

三種の神器

こうして木曽義仲は京を制圧しますが、期待されたような治安を維持するどころか、木曽義仲軍の滞在のために、食糧難が悪化し、軍による略奪や狼藉など、むしろ治安は悪化して行きます。

また、安徳天皇に代わる天皇として、木曽義仲は自らが推す亡き以仁王の第1王子「北陸宮」(ほくろくのみや)の即位を強行に主張。

しかし、実権を握る後白河法皇や公卿達は、高倉天皇の皇子のいずれかを即位させる思惑だったため、木曽義仲への風当たりは強くなっていきます。源頼朝の上洛を望む声が高まる中、1183年(寿永2年)9月、高倉上皇の第4皇子「後鳥羽天皇」が即位。

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木曽義仲、平氏に大敗~水島の戦い~

1183年(寿永2年)10月、後白河法皇の命により木曽義仲軍は平家追討のため備中国水島(現在の倉敷市玉島)に出陣しますが、この戦いは平家の勝利で終わります。木曽義仲軍は、「足利義清」(あしかがよしきよ)と「海野幸広」(うんのゆきひろ)の両大将をはじめとする多くの武将を失い、壊滅的な敗北となりました。

治承・寿永の乱における平家最大のこの勝利で、平家は勢力を回復、再入京を企てることに。

この戦いの最中に、食分95%の金環日食が起こり、「闇夜のようになった」という記録が残されています。

当時、暦を作成していた平家は、この日に日食が起こることを知っていて、戦闘に利用したという説があり、太陽が欠けていくことに恐れを抱いて大混乱する木曽義仲軍に対して、平家は戦いを有利に進めることができたのではないかと言われています。

源頼朝、東国支配権公認される~寿永二年十月宣旨~

「水島の戦い」で大敗した木曽義仲を見限った後白河法皇は、鎌倉の源頼朝に接近。源頼朝は法皇に、平家が横領していた東国の荘園を国司・本所への返還を求め、承認されます。

法皇はさらに、源頼朝の官位を剥奪前の従五位下に復帰させる「寿永二年十月宣旨」を発令。これにより、源頼朝は、東国支配を朝廷に公認されたこととなりました。

木曽義仲は、源頼朝の命を受けた弟の源義経の上洛を知ると、苦戦していた平家との戦いを切り上げて10月15日、わずかな兵と共に帰京します。

すでに木曽義仲の敵は平家ではなく、同じ源氏の源頼朝や源義経に変わっていました。10月20日、木曽義仲は後白河法皇に抗議すると、源頼朝討伐の宣旨の発給を要求。

木曽義仲を京都より放逐したい後白河法皇は、源頼朝軍の到着間近を知って、木曽義仲軍と対抗するための院御所の警護の増強を図ります。木曽義仲軍からも源行家をはじめとして法皇側に寝返る者も増え、法皇方は数の上で木曽義仲軍を上回りました。

その上で法皇は、木曽義仲に「平家追討のために西へ向かえ。これ以上京都にとどまれば謀反とみなす」と厳しい最後通告を行ないますが、11月19日、木曽義仲軍の攻撃を受けて大敗し、法皇は捕らえられて幽閉されてしまいます。

木曽義仲は、前関白の「松殿基房」(まつどのもとふさ)と手を組み、傀儡(かいらい)政権を樹立すると、12月10日、後白河法皇を恫喝し、源頼朝討伐の宣旨を発給させました。

1184年(寿永3年)1月、木曽義仲は、平家との和平工作などを模索しますが、出陣を決意。自らを征東大将軍に任命させ、形式的には官軍の体裁を整えます。源頼朝は、さらにもう1人の弟である源範頼を援軍として派遣して、いよいよ、木曽義仲軍と源頼朝軍の戦いが始まるのです。

木曽義仲の滅亡~宇治川の戦い・粟津の戦い~

上洛を果たした際、数万の兵を抱えていた木曽義仲軍は、水島の戦いの大敗とその後の離脱者の続出で激減し、1,000名ほどだったとも言われています。対する源範頼・源義経軍は数万の大軍で、総攻撃を開始しました。

源範頼軍は、「今井兼平」が守る瀬田を攻め、宇治川では木曽義仲自ら出陣し、源義経軍と激戦を展開します。しかし、圧倒的な兵力差で源義経軍が勝利。敗れた木曽義仲は、後白河法皇を伴って西国へ逃亡すべく、院御所へ向かいますが、源義経軍にそれも阻まれ、断念(宇治川の戦い)。

木曽義仲は、今井兼平軍と合流するために瀬田に向かいますが、宇治での敗戦を知った今井兼平軍も退却、粟津で合流に成功します。ところが、そこで一条忠頼率いる甲斐源氏軍と遭遇、木曽義仲軍は潰滅し、木曽義仲は顔面に矢を受けて討ち取られてしまいました(粟津の戦い)。

最後まで木曽義仲に付き従った今井兼平は、木曽義仲の乳兄弟で、有名な大力と強弓の女武者「巴御前」(ともえごぜん)の兄です。巴御前は木曽義仲の側室とも愛妾とも言われていますが、資料によってその描き方は異なり、本当のところは分かっていません。

「倶利伽羅峠の戦い」に大将として参加し、「宇治川の戦い」でも最後まで木曽義仲に従いました。木曽義仲の説得で落ち延びたあとの消息は不明ですが、各地に「巴御前の墓」とされる物が存在しています。

治承・寿永の乱 終焉~源平合戦~

水島の戦いでの木曽義仲軍への大勝以降、勢力を立て直した平家は瀬戸内海を制圧し、中国・四国・九州まで支配するようになっていました。1184年(元暦元年/寿永3年)正月には、かつて平清盛が遷都を計画していた摂津福原まで勢力を拡大。

朝廷では、安徳天皇と共に平家が持ち出した三種の神器の行く末が案じられており、平家と和平するか武力攻撃で奪還するか協議の末、源範頼・源義経軍が、平氏を攻撃することに決まったのです。

源義経の活躍 鵯越の逆落とし~一ノ谷の戦い~

源義経

源義経

1184年(元暦元年/寿永3年)2月4日、源範頼・源義経軍は大軍を二手に分けて、平氏軍に攻撃を仕掛けます。

数万の大軍を率いた本隊は源範頼が率いて生田口を攻撃。源義経軍は播磨国(はりまのくに:現在の兵庫県南部)へ回りこみ、「三草山の戦い」で夜襲をかけ、驚いた平氏軍は敗走。源義経軍が前哨戦に勝利します。

また、源義経は軍を二手に分け、僅か70騎を率いて険しい山中の「馬ですら通れない」と言われる難路を進みます。一ノ谷の裏手の断崖絶壁から坂を駆け下りて攻撃。

これが有名な「鵯越の逆落とし」です。予想外の方向から攻撃を受けた平氏軍は大混乱となり、源義経は一ノ谷の陥落に成功します。

鵯越の逆落としについては諸説あり、創作だとも、「一ノ谷の背後(鵯越)から攻撃を仕掛けた」ことが「逆落とし」を意味する、とも言われています。

しかし、この一ノ谷での勝利が、上洛時には無名だった源義経を、一躍時の人にしました。この合戦は、生田口や夢野口などでも激戦が繰り広げられていますが、一ノ谷の源義経の活躍が鮮やか過ぎて、まとめて「一ノ谷の戦い」と呼ばれているほどです。

平家は一門の多くを失い、大打撃を受け敗走、屋島へ逃れます。鎌倉方は、戦いには勝利したものの、目的である三種の神器を取り戻すことはできませんでした。まだまだ合戦は続きます。

この一ノ谷の戦い、源義経の活躍が伝説となっていますが、実は源義経以上に暗躍した人がいます。それがあの保元の乱からずっと乱の中心にいる後白河法皇。法皇は源氏に平家追討を命じておきながら、合戦前日の2月6日、平家にはなんと源氏との和平を命じたのです。

これを信用して平家が警戒を緩めたことが勝敗を分けたとも言われています。源頼朝から「大天狗」と呼ばれた後白河法皇、ここでも源平はすっかり法皇の手の内にあったのでした。

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平氏残党の反乱~三日平氏の乱~

一ノ谷の戦い以降、源氏方は平家に対抗して、西国に勢力を伸ばして行きます。山陽道や平家の本拠地の伊勢・伊賀などに軍を配備しますが、平氏軍の反攻に苦しめられます。

1184年(元暦元年/寿永3年)7月7日、伊勢と伊賀で時を同じくして反乱が勃発。源氏方は多数の死者を出します。19日には近江で合戦が起こりますが、総大将の「平家継」(たいらのいえつぐ)をはじめ、平家方の多くの武将が討ち取られました。

反乱は鎮圧されたものの、伊勢平氏の有力人物「平信兼」(たいらののぶかね)や「藤原忠清」(ふじわらのただきよ)には逃げられてしまいます。源氏軍も死者数百に及ぶ大きな損害を受けました。源頼朝の命を受けた源義経が、8月12日、平信兼討伐に出陣。伊勢国滝野(現在の三重県松阪市)において激戦の末、平信兼を討ち取ります。

源義経の検非違使任命

平信兼追討の最中の8月6日、源義経は後白河法皇より左衛門少尉、検非違使(けびいし)に任じられましたが、その背景には、平家残党に対する都の不安があったと言われています。

平信兼と共に逃げた藤原忠清は、翌年まで潜伏して京の人々を脅かし続け、その存在の不穏さは、侮れないものでした。一ノ谷の戦い以降、鎌倉方の主だった武士は帰東し、源範頼は平家討伐のため、西国へ向かっており、京の警備は手薄となっていたのです。そのため、京の治安維持には、源義経が必要でした。

平家討伐から源義経が外されたのは、定説だった無断で検非違使に任じられたことに対する源頼朝の怒りのせいではなく、近年の研究では、源義経の出陣に対する後白河法皇や貴族達の強い反対があったためという説が有力です。

屋島の戦い・1~戦いの背景~

「屋島の戦い」とは、一ノ谷の戦いから約1年後の1185年(元暦2年)3月22日、讃岐国屋島(現在の香川県高松市)で行なわれた戦いです。

一ノ谷の戦いで大敗した平家は、屋島(現在の香川県)を本拠として、長戸国(現在の山口県)彦島を拠点とし、瀬戸内海を制圧していました。平清盛の時代に日宋貿易をしていたため、水軍を保有していたのです。屋島には内裏(天皇の住まい)まで作り、周辺諸国から貢納を受け、独立国のようにどんどん力を蓄えていきます。

そんな中、後白河法皇より平宗盛へ三種の神器の返還と源平の和睦が打診されますが、宗盛は拒絶し、1184年(元暦元年)9月、三種の神器がないまま、後鳥羽天皇が即位しました。これによって、平家と朝廷は完全に袂を分かつこととなります。

武将達が戦った屋島の戦いの古戦場をご紹介!

屋島の戦い・2~源範頼の山陽道・九州遠征~

屋島の戦い

屋島の戦い

1184年(元暦元年)9月、源範頼は3万の兵を率いて京を出立し九州へ向かいました。途中12月には備中国で「藤戸の戦い」において、平行盛の軍に勝利。

しかし、水軍を擁しない源氏は船もなく、九州に渡ることもできず、その後進軍は止まってしまいます。兵糧や馬の不足などで将兵の間で不満が高まり、士気は低下。戦況はどんどん悪くなっていきました。

1185年(元暦2年)1月、兵糧と兵船を調達し、源範頼軍はようやく豊後国(現在の大分県)に渡ります。2月には「葦屋浦の戦い」で、平家方を撃破。この勝利により、平家を彦島に孤立させることに成功したのです。

屋島の戦い・3~扇の的~

刀剣ワールド紹介動画

那須与一が扇の的を射るシーン(源平合戦)をCGアニメでご覧頂けます。

刀剣ワールド紹介動画

源範頼の苦境を知ると、源義経は、後白河法皇に西国への出陣を願い出て許可されました。

源義経は、この戦いには水軍が必須だと考え、摂津国の水軍と、熊野水軍、伊予国の水軍を味方に付けます。

2月18日、諸将が出航を見合わせる暴風雨の中、源義経は船頭を脅して、少数の船で出航を強行しました。源義経軍の船団は通常3日かかるところを、数時間で到着。周辺の民家に火を点け、大軍であるかのように見せかけて、平家の拠点を奇襲したのです。

海上ばかり警護していたため、背後からの攻撃に最初は驚いた平氏軍ですが、源氏方が意外に少数なのに気づくと、激戦となります。

夕刻になり両軍は疲弊し、休戦状態に。すると、平家の船から美女が現れ、扇を掲げて、的にして射抜くよう挑発します。名だたる弓の名手が断る中、那須与一が断りきれず挑戦し、見事打ち抜きます。これが「扇の的」という有名な名場面ですが、真偽のほどは不明。

源氏軍は少ない兵力ながら、平氏軍と激戦を続けます。やがて、源氏の大軍が到着し、もはやこれまでと、平氏軍は彦島へと退却しました。

こうして、平家は四国での本拠地を失い、九州も源範頼軍に制圧されており、彦島に孤立し、逃げ場のない状況に追い込まれてしまいます。

いよいよ源平最後の決戦である「壇ノ浦の戦い」が始まるのです。

壇ノ浦の戦い・1~決戦の様子~

1185年(元暦2年)3月24日、ついに、5年もの長きに亘った治承・寿永の乱のフィナーレ、源義経の数々の伝説を生み、栄華を誇った平家を滅亡させた壇ノ浦の戦いが行なわれました。

「壇ノ浦」とは、本州と九州を隔てる関門海峡の一番狭くなっている海域です。日本史上非常に重要な合戦にかかわらず、史料がほとんど遺されていませんが、現代において信じられている定説に沿って述べます。

源義経は摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍などを味方にし、水軍を編成。御家人の反対を押し切り、大将自ら先陣に立って攻め込みます。

それを受けて、平氏軍が彦島より出陣し、関門海峡壇ノ浦での合戦が始まりました。豊前国(現在の大分県)側の陸地に布陣した3万の源範頼軍は、平家の退路を断ち、弓矢で攻撃して源義経軍の支援に回ります。

合戦の序盤は、海戦に慣れた平家の優勢に進みました。関門海峡は、潮の干満により1日に何度も潮流の向きが変わるため、それを熟知した平氏軍が有利だったのです。追い込まれた源義経軍は、満珠島あたりまで後退します。

しかし、潮の流れが変わって、源氏軍を後押しするように動き出すと、戦況は一気に源義経軍の有利になります。源義経軍の猛攻撃に、平氏軍は壊滅状態になりました。

こうして、平家の敗北は決まり、平家方は、次々と入水して行きます。まだ6歳の安徳天皇も、祖母であり平清盛の妻である二位尼に抱きかかえられて海の泡と消えたのです。そのとき、二位尼が一緒に三種の神器のひとつ「天叢雲剣」を抱いて海に没し、剣は海底に失われてしまいました。

壇ノ浦の戦い・2~決戦に関する諸説~

ここにも諸説あり、前半の平氏軍優勢の際に、勢いづいた平家が源義経の首を狙おうとしますが、そこで、源義経が平家側の船の舵取(漕ぎ手)を狙うように命じたという説があります。

これは当時としては非常に無作法で、実際には、勝敗を決してから、源氏軍が平家の船に乗り移って舵取を斬り殺したのではないかとも言われているのです。

また、関門海峡の潮流の変化が壇ノ浦の戦いの勝敗を決した、というのも、大正時代に提唱された説に基づいて、現代に広く信じられているに過ぎず、反論もなされています。史料には壇ノ浦の戦いについては、簡潔にしか述べられていないのです。

壇ノ浦の戦い・3~平教経と源義経の八艘飛び~

次々と平家一門が入水する中、たった1人、源氏に向かって戦いを挑む剛の者がいました。平清盛の甥に当たる「平教経」(たいらののりつね)です。平家が都落ちしたあとも、水島の戦い、屋島の戦いなどでも源氏に手向かい、木曽義仲や源義経を苦しませて来たのが平教経でした。

なおもひとり戦い続ける平教経に、平家の大将「平知盛」(たいらのとももり)が「すでに勝敗は決まっているから、これ以上罪作りなことはするな」と告げます。平教経は「ならば敵の大将を道連れにする」と、船から船へと源義経を探すのです。

平教経はやっと源義経を見つけ、飛び掛かろうとしますが、源義経はひらりとかわし、船から船へと飛び移って、八艘彼方へ逃げ去ります。これが有名な「義経の八艘飛び」です。

平教経は、首を討ち取ろうと飛び掛かった源氏方の武者2人を両腕に抱えたまま海に飛び込みました。これが平家髄一の猛将として知られる平教経の最期ですが、その最期には諸説あり、一ノ谷の戦いですでに討ち死にしているという記録も残っていることから、はっきりしていません。

「平家物語」では、「壇ノ浦の合戦」のヒーロー・源義経のライバル的存在として描かれています。

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