平安時代
源平合戦①
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源平合戦①

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さて、ここからいよいよ、「源平合戦」のクライマックス、6年にも及ぶ内乱「治承・寿永の乱」が始まります。

治承・寿永の乱のはじまり ~打倒平氏の高まり~

治承・寿永の乱のきっかけ ~以仁王の挙兵~

以仁王の挙兵

以仁王の挙兵

1180年(治承4年)4月には、安徳天皇の即位で皇位継承が絶望的となった以仁王(もちひとおう)が、源頼政と組み「以仁王の令旨」を出して、諸国の源氏に打倒平氏の挙兵を促しました。

源頼政は「保元の乱」「平治の乱」両方で、勝者側に付いて生き残り、平家が専横を極める中、源氏としては破格の出世を遂げます。1178年(治承2年)、74歳で「従三位」(じゅさんみ)に叙せられました。従三位からが「公卿」(くぎょう:最高幹部・高官)であり、一門の悲願だったのです。

頼政は、平清盛からの信頼も厚く、源氏の長老として栄達し、従三位昇進後は、出家して家督を譲りました。このまま静かに余生を過ごすこともできたはずなのに、なぜ平家に対して挙兵したのでしょうか。

理由は諸説ありますが、頼政の嫡男・仲綱が、清盛の三男・宗盛に馬をめぐって恥をかかされたことをきっかけとする説、頼政は鳥羽上皇直系の近衛・二条天皇に仕えていたため、系統の違う高倉・安徳天皇の即位に反発したとする説などがあります。

以仁王は、後白河法皇の第3皇子で、母方の家柄も良い上に、幼少から英才の誉れが高く、皇位継承者として有力でしたが、弟の高倉天皇(平清盛の義理の甥)を即位させたい平家に邪魔をされ続けました。

明治時代以前には、天皇の子女でも親王宣下を受けない限り、親王(内親王)を名乗ることはできませんでしたが、以仁王は平家の圧力で親王宣下すら受けられなかったのです。

挙兵の計画が発覚すると、平家の圧力で以仁王は皇族籍を剥奪され、「源以光」(みなもとのもちてる)となり、土佐への島流しが決定。抵抗して頼政と共に宇治平等院で戦いますが、敗死し「以仁王の挙兵」は終結します。

以仁王の挙兵は、このようにすぐに計画が露見し、早期に鎮圧されますが、この件をきっかけに諸国の反平氏勢力の声が高まり、6年間に及ぶ内乱の契機となるのです。

頼朝の挙兵 ~石橋山の戦い~

1180年(治承4年)4月、源頼政が配った以仁王の令旨を受け取った中に、平治の乱で戦死した源氏の棟梁・源義朝の嫡男で、伊豆に流刑になった源頼朝がいました。

頼朝は、平家が令旨を受けた源氏の討伐を企てていることを知ると、挙兵を決意。妻・北条政子の実家の北条家を後ろ盾に、父・義朝の遺した関東における影響力をもとにして、8月17日、相模・伊豆・武蔵の武士団を集めて挙兵します。

最初に伊豆国目代(いずのくにもくだい)・山木兼隆を襲撃して、兼隆を討ち取るも、相模国において大庭景親(おおばかげちか)・伊東祐親(いとうすけちか)などと戦い、惨敗。しかし、窮地に陥った頼朝を飯田家義や梶原景時が救出。彼らはのちの鎌倉政権で頼朝に信頼され、重用されることになります。

頼朝は、その後海路で安房へ逃げ、安房の諸豪族の援助で、勢力を盛り返していきました。
頼朝が挙兵したのを知ると、平家に反感を持つ相模や武蔵の諸豪族などが次々集まり、気付けば大勢力に。10月6日、坂東南部(南関東)を制圧した頼朝は相模国鎌倉に入り、本拠地と定めます。

平家の大敗 ~富士川の戦い~

1180年(治承4年)9月1日、関東における頼朝挙兵の報を知ると、平清盛は追討軍の派兵を決定。29日に京を出立しました。

その間に頼朝は勢力を拡大し続け、甲斐の武田氏(甲斐源氏)や信濃の木曾義仲が挙兵し、反平家勢力の勢いは広がっていきます。

1180年(治承4年)10月13日、追討軍は駿河国に入り、16日に頼朝も鎌倉を出発。頼朝軍は膨れ上がり、5万とも20万を越えていたとも言われています。

20日に富士川をはさんで両軍は対峙。数千の追討軍は、頼朝軍のあまりの大軍に恐れをなして逃げ出す者が続出します。

そもそも追討軍は、平家の不人気から兵がなかなか集まらず、進軍しながらかき集めた寄せ集めの兵がほとんどでした。さらに、当時西国では大飢饉の真っ最中で兵糧も足りず、兵士たちの士気が非常に低く、とてもまともに戦える状態ではなかったのです。

その夜、追討軍が突如撤退したため、目立った戦闘が行なわれることのないまま「富士川の戦い」は集結しました。平氏軍は突然パニック状態となり、清盛の孫で総大将・平維盛(たいらのこれもり)は撤退を決め、平氏軍は総崩れとなったのです。

「夜に富士沼の水鳥が飛び立ったのを源氏の夜襲と勘違いして、平氏軍は我先にと逃げ出した」という有名なこの逸話は後世の創作ですが、実際には甲斐の武田氏(甲斐源氏)軍の奇襲があり、水鳥の羽音でそれを察知したが、戦いの準備ができていなかったので撤退したとも言われています。

頼朝の台頭と清盛の死 ~源平の運命の逆転~

源義経

源義経

挙兵当時の頼朝の目的は、戦いに勝利して上洛(京都に行くこと)し、中央政権へ復権することでしたが、当時の関東の武士が最優先に望んでいたのは関東の安定で、彼らは頼朝に関東の武士を取りまとめることを望んでいました。

ちょうどこの頃、頼朝の異母弟で奥州藤原氏の庇護を受けていた源義経が兄の下に馳せ参じて、富士川の戦い後の黄瀬川(きせがわ)の陣で涙の対面を果たします。

義経ともう一人の弟・範頼(のりよりに平家追討の指揮を任せ、鎌倉に腰を据えて、頼朝は関東の平定に専念することになったのです。

当時は頼朝と木曾義仲(頼朝の従弟)や武田信義(甲斐源氏)の3人で源氏の棟梁の役割をしていました。富士川の戦いも頼朝が中心の挙兵と思われてきましたが、最近の研究では、合戦の中心にいたのは甲斐源氏だったのではないかと言われています。のちに義仲を倒し、武田氏から駿河の守護職を奪い、頼朝は自分と同格の棟梁をつぶすのに成功したのです。

富士川の戦いが起きた東国以外の諸国でも、多くの反平氏勢力の挙兵が続き、活発化していきました。そうした中で、平家には不運が続きます。

1181年(治承5年)1月、院政を行なっていた高倉上皇が崩御し、後白河院政が復活。そして、2月には棟梁である平清盛が亡くなってしまうのです。平家は一門を支える大黒柱・偉大な指導者を失ってしまったのでした。

将来を嘱望された嫡男の重盛はすでに病死しており、あとを継いだ三男の宗盛には、動乱の時代の平家を率いる器量はなかったのです。

源氏の敗退 ~墨俣川の戦い~

富士川の戦いで無残に敗れた平家ですが、再度頼朝軍を追討するために、1181年(治承5年)4月、東国へ兵を派遣します。

尾張・三河に勢力を伸ばしつつあった源行家(みなもとのゆきいえ)が尾張・美濃国境付近の墨俣川(すのまたがわ:現在の長良川)において迎え撃ちました。

行家は頼朝の父・源義朝の弟で、兄に従った平治の乱では敗れるも、熊野に逃れることに成功。頼政の命で以仁王の令旨を伝えますが、頼朝の傘下に入らず独立を目指していたため、尾張で平家を食い止め、頼朝に恩を売るつもりだったとされています。

しかし、奇襲をかけるも平氏軍に見抜かれ、「墨俣川の戦い」において、行家軍は大敗してしまいました。この戦いで、源義経の同母兄の源義円(みなもとのぎえん)、尾張源氏の源重光、大和源氏の源頼光などが戦死。

この敗戦がきっかけで行家は頼朝を頼りますが、のちに対立。行家は木曾義仲のもとへ走り、最期は頼朝と対立した源義経と運命を共にすることになります。

治承・寿永の乱の中期 ~義仲VS頼朝~

墨俣川の戦い以降、東国での戦況が好転し、西での反乱勢力の制圧にも成功した平家は、北陸の反乱勢力を抑えるために、たびたび挙兵します。それを迎え撃つ木曾義仲の、台頭と上洛、頼朝・義経軍との戦いと戦死までが、源平合戦の中盤となります。

なぜ、義仲は頼朝に討たれなくてはならなかったのか?

治承・寿永の乱の中盤の見どころは、源頼朝の従弟・木曾義仲(源義仲)の活躍と台頭から、頼朝の鎌倉方に滅ぼされるまでです。源氏と平家の戦いだったはずが、いつのまにか源氏同士の戦いに。しかし、この当時は、同じ一族や兄弟で殺し合うことも珍しい時代ではありませんでした。

義仲の父・義賢(よしかた)は、その兄・義朝(頼朝の父)と対立して、義朝の長男で甥に当たる義平(頼朝の異母兄)に討たれています。義仲にも当時殺害命令が出されましたが、義朝の家臣の計らいで信濃国へ逃れます。当然義仲にとって見れば、頼朝は父の敵も同然。頼朝にとっても、義仲は、いつ牙をむくか分からない脅威でしかありません。

頼朝自身が、平家の情けで生かされた結果、長じて平家を滅ぼすことになったためか、頼朝は自分への対抗勢力の芽を摘むということに、非常に神経を配っていました。それは実の弟ですら例外ではなかったのです。

頼朝はのちに、共に平家を滅ぼした弟の義経や範頼まで殺してしまいます。義経だけでなく、その子供まで容赦なく殺した頼朝は冷徹だと見る向きもありますが、のちの争いを避けるためには必要だったとも言えるのです。

平家の信濃・北陸討伐 ~横田河原の戦い・火打城の戦い・般若野の戦い~

1181年(治承5年)6月、木曾義仲などの信濃の源氏に対抗するために、平氏が越後の城長茂(じょうながもち)を差し向け、「横田河原の戦い」が起こりました。

長茂は、川中島南部の横田城に1万の大軍を率いて布陣。対する義仲軍は、木曾衆・佐久衆・上州衆など3,000の軍を上州に近い依田城に集結し、両者は横田河原において決戦します。

義仲軍の奇襲が成功し、兵力では城軍よりはるかに劣るにもかかわらず、義仲軍が勝利しました。長茂は奥州会津に逃れるも、奥州藤原氏により攻撃を受け、会津をも追われ、城氏は急激に衰退、義仲は越後の実権を握ります。

1183年(寿永2年)4月、平家は今度こそ打倒源氏を掲げ、平維盛・平通盛(たいらのみちもり)率いる10万の大軍を派遣。越前・加賀の反乱勢力の討伐に成功し(火打城の戦い)、義仲は越中へ後退を余儀なくされました。しかし、5月9日明け方、今度は義仲軍の奇襲で平氏軍は退却します(般若野[はんにゃの]の戦い)。

木曾義仲の台頭 ~倶利伽羅峠の戦い(砺波山の戦い)~

一旦退却した平家軍は志雄山(能登国)と砺波山(となみやま:加賀国と越中国国境)に分かれて布陣しました。いよいよ歴史に残る決戦「倶利伽羅峠の戦い」(くりからとうげのたたかい:「砺波山の戦い」とも言う)のはじまりです。

1183年(寿永2年)5月11日、義仲は、志雄山に源行家軍を向かわせ、義仲本隊は砺波山に向かい、その夜、奇襲をかけました。

驚いて大混乱に陥り、退却しようとする平氏軍を、先に回りこませておいた樋口兼光の隊とで挟み撃ちにします。平氏軍が、敵の攻めてこない方向に逃げた先は、倶利伽羅峠の断崖でした。兵士たちは雪崩のように次々と谷底に転落していき、平家は追討軍10万の大半を失ってしまったのです。この戦いで、平家と源氏の立場は逆転しました。

この戦いでは、義仲軍が松明をくくり付けた数百頭の牛を敵中に向け放った「火牛の計」(かぎゅうのけい)と言う、有名な一場面がありますが、今日では創作だとも言われています。義仲軍の勝ち方があまりに見事であったために生まれた伝承だと言えるでしょう。

義仲の上洛

大勝した義仲は、勢いに乗って京を目指し、同年7月に念願の上洛を果たします。10万の大軍を失った平家は、京を捨てて安徳天皇と三種の神器を伴い、西国へ落ち延びてしまいました。こうして義仲は京を制圧しますが、期待されたような治安を維持するどころか、義仲軍の滞在のために食糧難が悪化し、軍による略奪や狼藉など、むしろ治安は悪化して行きました。

また、安徳天皇に代わる天皇として、義仲は自らが推す亡き以仁王の第1王子・北陸宮(ほくろくのみや)の即位を強行に主張。しかし、実権を握る後白河法皇や公卿たちは、高倉天皇の皇子のいずれかを即位させる思惑だったため、義仲への風当たりは強くなっていきます。頼朝の上洛を望む声が高まる中、1183年(寿永2年)9月、高倉上皇の第4皇子・後鳥羽天皇が即位。

義仲、平氏に大敗 ~水島の戦い~

1183年(寿永2年)10月、後白河法皇の命により義仲軍は平家追討のため備中国水島(現在の倉敷市玉島)に出陣しますが、この戦いは平家の勝利で終わります。義仲軍は、足利義清・海野幸広の両大将をはじめとする多くの武将を失い、壊滅的な敗北となりました。

治承・寿永の乱における平家最大のこの勝利で、平家は勢力を回復、再入京を企てることに。

この戦いの最中に、食分95%の金環日食が起こり、「闇夜のようになった」という記録が残されています。

当時、暦を作成していた平家は、この日に日食が起こることを知っていて、戦闘に利用したという説があり、太陽が欠けていくことに恐れを抱いて大混乱する義仲軍に対して、平家は戦いを有利に進めることができたのではないかと言われています。

頼朝、東国支配権を公認される ~寿永二年十月宣旨~

「水島の戦い」で大敗した義仲を見限った後白河法皇は、鎌倉の頼朝に接近。頼朝は法皇に、平家が横領していた東国の荘園を国司・本所への返還を求め、承認されます。法皇はさらに、頼朝の官位を剥奪前の従五位下に復帰させる「寿永二年十月宣旨」を発令。これにより、頼朝は、東国支配を朝廷に公認されたこととなりました。

義仲は、頼朝の命を受けた弟の源義経の上洛を知ると、苦戦していた平家との戦いを切り上げて10月15日、わずかな兵と共に帰京します。すでに義仲の敵は平家ではなく、同じ源氏の頼朝や義経に変わっていました。10月20日、義仲は後白河法皇に抗議すると、頼朝討伐の宣旨の発給を要求。

義仲を京都から放逐したい後白河法皇は、頼朝軍の到着間近を知って、義仲軍と対抗するため、院御所の警護の増強を図ります。義仲軍からも行家をはじめとして法皇側に寝返る者も増え、法皇軍は数の上で義仲軍を上回りました。

その上で法皇は、義仲に「平家追討のために西へ向かえ。これ以上京都にとどまれば謀反とみなす。」と厳しい最後通告を行ないますが、11月19日、義仲軍の攻撃を受けて大敗し、法皇は捕らえられて幽閉されてしまいます。義仲は、前関白の松殿基房(まつどのもとふさ)と手を組み、傀儡(かいらい)政権を樹立すると、12月10日、後白河法皇を恫喝(どうかつ)し、頼朝討伐の宣旨を発給させました。

1184年(寿永3年)1月、義仲は平家との和平工作などを模索しますが、出陣を決意。自らを征東大将軍に任命させ、形式的には官軍の体裁を整えます。頼朝はさらにもう1人の弟・源範頼を援軍として派遣して、いよいよ義仲軍と頼朝軍の戦いが始まるのです。

義仲の滅亡 ~宇治川の戦い・粟津の戦い~

上洛を果たした際には数万の兵を抱えていた義仲軍は、水島の戦いの大敗とその後の離脱者の続出で激減し、1,000名程だったとも言われています。対する範頼・義経軍は数万の大軍で、総攻撃を開始しました。

範頼軍は、今井兼平が守る瀬田を攻め、宇治川では義仲自ら出陣し、義経軍と激戦を展開します。しかし圧倒的な兵力差で義経軍が勝利。敗れた義仲は、後白河法皇を伴って西国へ逃亡するべく院御所へ向かいますが、義経軍にそれも阻まれて断念(宇治川の戦い)。

義仲は、今井軍と合流するために瀬田に向かいますが、宇治での敗戦を知った今井軍も退却、粟津で合流に成功します。ところが、そこで一条忠頼率いる甲斐源氏軍と遭遇、義仲軍は潰滅し、義仲は顔面に矢を受けて討ち取られてしまいました(粟津の戦い)。

最後まで義仲に付きしたがった今井兼平は、義仲の乳兄弟で、有名な大力と強弓の女武者・巴御前の兄です。巴御前は義仲の側室とも愛妾とも言われていますが、資料によってその描き方は異なり、本当のところは分かっていません。

巴御前は倶利伽羅峠の戦いに大将として参加し、宇治川の戦いでも最後まで義仲にしたがいました。義仲の説得で落ち延びたあとの消息は不明ですが、各地に「巴御前の墓」とされる物が存在しています。

源平合戦①

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