13人の合議制(鎌倉殿の13人)関連人物

源範頼
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「鎌倉幕府」初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)が、日本中を巻き込んで、異母弟「源義経」(みなもとのよしつね)と壮大な「兄弟げんか」を繰り広げていたことはよく知られています。しかし、実はもうひとりの異母弟「源範頼」(みなもとののりより)もまた、源頼朝に謀反の疑いをかけられ、悲劇的な最期を迎えていたのです。「源氏」一門として鎌倉幕府における重要な地位を占めていた源範頼が、母親が異なるとは言え、血を分けた兄弟である源頼朝によって命を奪われるまでに至った背景について、その生涯を紐解きながらご説明します。

「蒲冠者」源範頼の出自と源平合戦への参戦

貴族のもとで育てられた源範頼

源範頼

源範頼

源範頼は、「源義朝」(みなもとのよしとも)の六男(五男の説もあり)として誕生しました。その生年は定かではありませんが、源頼朝の異母弟であり、源義経の異母兄と伝えられています。

室町時代までに成立した日本の系図集「尊卑分脈」(そんぴぶんみゃく)によると、源範頼の生母は遠江国池田宿(現在の静岡県磐田市)の遊女であったとされ、源範頼は、同国の蒲御厨(かばのみくりや:現在の静岡県浜松市)で生まれ育ったことから、「蒲冠者」(かばのかじゃ)や「蒲殿」(かばどの)という異称でも呼ばれていました。

1159年(保元4年/平治元年)に、源氏と「平氏」が対立して起こった政変「平治の乱」(へいじのらん)において、父・源義朝が敗死したあとも源範頼は、蒲御厨で密かに養育されたと推測されており、その翌年以降には、77代天皇「後白河法皇」(ごしらかわほうおう)の近臣であった有力貴族「藤原範季」(ふじわらののりすえ)に、養子として引き取られることに。

そのあと、源範頼は、その幼名は不明ですが、養父・藤原範季の偏諱(へんき:貴人が用いた二字名のうちの一字)を賜って源範頼と名乗るようになったのです。

源平合戦における源範頼の活躍とは

1180年(治承4年)には、後白河天皇の第3皇子「以仁王」(もちひとおう)により、平氏打倒を目的とした令旨(りょうじ:皇太子や親王など、皇族の命令を記した文書)が出されます。これを受けた源範頼の兄・源頼朝は、平治の乱のあとに流人生活を送っていた伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)において挙兵。

これがきっかけとなり、源氏と平氏が衝突する一連の戦い「治承・寿永の乱」(じしょう・じゅえいのらん)、いわゆる「源平合戦」が勃発したのです。源範頼が、この源頼朝による挙兵の軍勢に合流した時期については明確になっていません。

しかし、鎌倉時代に編纂された歴史書「吾妻鏡」(あづまかがみ/あずまかがみ)には、1183年(寿永2年)2月、源頼朝とその叔父である「志田義広」(しだよしひろ)が争った「野木宮合戦」(のぎみやかっせん)に、援軍として出陣した旨が記載されています。さらに源範頼は、1184年(治承3年/元暦元年)1月、源頼朝の従兄弟「源義仲」(みなもとのよしなか:別称 木曽義仲[きそよしなか])の追討作戦を遂行するために上洛しました。

このとき、源範頼は、源頼朝の代官として源頼朝軍の「大将軍」に据えられ、源義経率いる軍勢と共に、「宇治川の戦い」(うじがわのたたかい)へ参戦。同合戦は圧倒的な兵力差により、源頼朝軍の勝利に終わりました。

なお、宇治川に向かう途中、源範頼は尾張国の墨俣渡(すのまたわたり:現在の岐阜県大垣市)付近で源頼朝の御家人(将軍直属の武士)達と激しい先陣争いを繰り広げたことにより、源頼朝の不興を買ったと言われています。

源義経

源義経

また、1184年(寿永3年/元暦元年)2月に源範頼は、摂津国福原(現在の神戸市中央区から兵庫区北部)、及び須磨(現在の神戸市須磨区)で源氏と平氏が対峙した「一ノ谷の戦い」(いちのたにのたたかい)にも、大将軍として出撃しました。この合戦において源範頼の軍勢は、敵陣の正面から突入する大手軍(おおてぐん)として進軍。

平氏軍の中心勢力を引き付けている間に源義経の軍勢は、搦手軍(からめてぐん)として敵陣の背後に回り、平氏軍に挟撃を仕掛けます。源範頼と源義経は異母兄弟ではありましたが、一ノ谷の戦いでは血の繋がった者同士ならではの、息の合った連係プレーによって源氏軍を勝利に導いたのです。

源頼朝はこの武功を高く評価し、源範頼を官職「三河守/参河守」(みかわのかみ)に任ずるように朝廷へ推挙。こうした武家官位の授与は名目上であることが多くあった中で、源範頼はその官職名通り、1193年(建久4年)まで三河国(現在の愛知県東部)を統治し、高い政治手腕を発揮しました。

九州への上陸、平氏追討に貢献

前途多難であった九州までの道のり

源平合戦の真っ最中であった1184年(治承3年/元暦元年)8月に源範頼は、源頼朝より九州平定を命じられます。出陣の前日には源頼朝主催で酒席が設けられ、その場で馬を賜りました。当時において馬は、「貴重品」として大切にされていた存在。

源頼朝は、これを源範頼のみならず、「北条義時」(ほうじょうよしとき)や「和田義盛」(わだよしもり)、「比企能員」(ひきよしかず)といった源頼朝に仕える主力武士団であり、源範頼軍に付き従うメンバーにも与えたのです。

これは源頼朝が、九州平定に重きを置いていたことが窺える証しであったとも言えます。この九州平定は、直接的な平氏追討ではなく、九州において平氏を援助しながら、源氏と対立していた西国武士達を鎮圧することが大きな目的でした。そうすることで源頼朝は、九州で平氏を孤立させようと目論んだのです。

1184年(寿永3年/元暦元年)9月1日、源範頼率いる約30,000人もの軍勢が、京都から九州へ向けて出発。同年12月7日には、備前国藤戸(現在の岡山県倉敷市)で「平行盛」(たいらのゆきもり)軍と対峙して辛勝します。

そのあと、源範頼軍は山陽道を進み、周防国(現在の山口県南東部)を通って、平氏が本拠のひとつとしていた長門国(現在の山口県北西部)へ何とか辿り着いたのです。しかしこの時、一ノ谷の戦い後に屋島(やしま:現在の香川県高松市)へと敗走していた平氏の水軍により、瀬戸内海一帯が押さえられていました。

さらには、彦島(現在の山口県下関市)の「平知盛」(たいらのとももり)軍に行く手を遮られたことにより、源範頼軍は先へと進めなくなってしまいます。加えて源範頼軍は兵糧不足にも陥っており、兵士達の士気は徐々に下がっていたのです。

そんな源範頼軍の窮地を救ってくれたのが、以前より反平氏の立場で挙兵していた、豊後国(現在の大分県)の豪族「臼杵惟隆」(うすきこれたか)・「尾形/緒方惟栄」(おがたこれよし)兄弟でした。この2人から源範頼軍に、兵船82艘が献上されたのです。

また、周防国の豪族「宇佐那木遠隆」(うさなぎとおたか)からは兵糧米を提供されています。こうして援助を受けた源範頼軍は一度周防に戻り、1185年(元暦2年/文治元年)1月、ようやく豊後国へと船を出したのです。

葦屋浦の戦いで平氏軍を孤立させる

この渡海によって最初に豊後へ上陸したのは、北条義時と「渋谷重国」(しぶやしげくに)、「下河辺行平」(しもこうべゆきひら)、「品河清実」(しながわきよざね)の4名。そして1185年(元暦2年/文治元年)2月1日に源範頼軍は、筑前国の葦屋浦(現在の福岡県遠賀郡芦屋町、及び西浜町、幸町、白浜町一帯にあった湾港)にて、平氏方に付いていた「原田種直」(はらだたねなお)軍より攻撃を受けます。

渋谷重国や下河辺行平が弓矢を用いて応戦したことで、「葦屋浦の戦い」(あしやうらのたたかい)が勃発。北条義時らもこれに参戦し、下河辺行平が原田種直の弟「美気敦種」(みきあつたね)を討つなどして、最終的には源範頼軍が勝利を収めました。

その結果として源範頼軍は、豊前国(現在の福岡県東部)や長門、筑前という平氏が拠点としていた3ヵ国を制圧。そして源範頼軍は、わずかな海峡の向こうにある彦島にいた平氏軍の本隊を、孤立させることに成功したのです。源範頼軍が何ごともなく九州へ上陸できたのは、緒方惟栄などが豊後国の要塞を押さえていたことも大きな理由のひとつ。

これを知った源頼朝は、豊後の住人達を称える院庁下文(いんのちょうのくだしぶみ)の発給を、朝廷に申請しています。源範頼軍は、このまま九州での戦線維持を遂行するかと思われましたが、兵糧不足により一時的に周防へと退却。

これを聞き付けた源義経は2月10日、平氏軍の本陣が設けられていた屋島へと向かいます。そして源義経軍が、2月19日の早朝に陸上から平氏軍へ奇襲を掛けたことにより、「屋島の戦い」(やしまのたたかい)が始まったのです。

この時、平氏軍は、源義経軍が海上から攻撃してくると予想していました。そのため、不意を突かれた平氏軍の兵士達は慌てふためき、次々と海上へ逃げ込んだのです。やがて鎌倉からの大軍も迫って来たため、平氏軍は彦島へと撤退します。そのあと、同合戦は源義経軍が勝利し、屋島を陥落。これにより平氏は四国の拠点を失い、彦島で孤立することになったのです。

壇ノ浦古戦場

壇ノ浦古戦場

そのあと、源範頼と源義経は西国各地を転戦。1185年(元暦2年/文治元年)3月24日には、源平合戦における最後の戦いとなる「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)が、長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)にて行われます。

同合戦では、源範頼軍が陸側から、そして源義経軍は海側から平氏軍を猛攻。一ノ谷の戦いと同様に、源範頼と源義経が協力したことで源氏軍は勝利を収め、平氏を完全に滅亡させたのです。

源範頼が迎えた悲痛な最期

源頼朝に対して従順な態度を貫く

壇ノ浦の戦いが終わると源範頼は、九州に留まって戦後処理に当たるように源頼朝より命じられます。そして源範頼は、平氏の残存勢力や本領などを処分し、九州の経営に力を注いだのです。この頃、先に鎌倉へ戻っていた源義経が源頼朝と対立。

源頼朝は、覇権争いを繰り広げていた平氏が滅亡したことで、自身がトップに立って武家政権を確立させようと本格的に動き出していました。その一環として源頼朝は、例えば御家人達に何らかの刑罰を科する際などには、勝手に処理しようとせず、まずは源頼朝に判断を仰ぐように、源範頼や源義経などに注意を促します。

そうすることで源頼朝は家中の統率を図り、自身の地位を確固たるものにしようとしたのです。ところが源義経は、このような源頼朝の考えを意に介さず、様々な越権行為に及ぶなど自分勝手な行動を繰り返し、最終的には源頼朝により没落させられてしまいます。

一方で源範頼は、これを反面教師としたのか、平氏討伐の最中でも、源頼朝より奉行として付けられた御家人・和田義盛らに逐一相談。九州での戦後処理を終えて鎌倉に戻る際にも源範頼は、天候が荒れたために到着が遅くなる旨を源頼朝に報告しています。

このように源頼朝に対して、従順な態度を示していた源範頼。1189年(文治5年)には、源頼朝自ら指揮を執り、「奥州藤原氏」(おうしゅうふじわらし)を陥落させた「奥州合戦」(おうしゅうかっせん)に参戦するなどして、鎌倉幕府に貢献していました。

源範頼の行く末を一変させた事件と言葉とは

しかし、そんな源範頼の運命を暗転させる出来事が起こります。その発端となったのは、1193年(建久4年)5月に、源頼朝が富士裾野において主催した大規模な「巻狩り」(まきがり)でのこと。巻狩りとは、四方から囲んだ狩場の中に獣を追い込んで捕らえる狩りの方法の一種。

吾妻鏡によれば、この時、北条義時や「三浦義澄」(みうらよしずみ)、「梶原景時」(かじわらかげとき)など、のちの幕政における集団指導体制「13人の合議制」の一員となる有力御家人達もしたがっていました。

北条政子

北条政子

なかなかの盛況ぶりを見せていたこの巻狩りの最中に、「曽我祐成」(そがすけなり)・「曽我時致」(そがときむね)兄弟が父の仇であった「工藤祐経」(くどうすけつね)を討つ事件が起こったのです。このいわゆる「曽我兄弟の仇討ち」は、鎌倉にいた源頼朝の正室「北条政子」(ほうじょうまさこ)の耳にも届きます。

しかしその内容は、源頼朝が討たれたという誤報でした。そのため北条政子は、かなり狼狽してしまったのです。源範頼は、そんな義姉・北条政子を安心させようと、「兄のあとには私が控えているので、心配ご無用です」との言葉を掛けました。ところがこのことを後日聞いた源頼朝は、怒り心頭に発します。

源範頼が北条政子を励ますために言ったこの言葉には、謀反しようとする意志が窺えるとの疑いを掛けたのです。この疑いを晴らすために源範頼は、建久4年(1193年)8月2日、忠誠心を綴った起請文(きしょうもん:神仏などへの誓いを記した文書)を源頼朝へ提出します。

しかし、この起請文への署名に源範頼が、「源氏」姓を用いていたことが身分不相応だとして、さらに源頼朝を激怒させることに。これを知った源範頼は動揺しますが、源頼朝からは何の音沙汰もありません。そこで8月10日、源範頼に仕えていた「当麻太郎」(たいまたろう)が源頼朝の真意を確かめるべく、源頼朝の寝所へ侵入。

結局当麻太郎は源頼朝に捕らえられてしまい、加えて源範頼が暗殺を企てているのではないかと、余計に不審がられてしまったのです。一説によれば、この当麻太郎の行動について詰問された源範頼は、「知らないことであった」と答えたと推測されています。

源範頼の墓

源範頼の墓

こうした源範頼とその御家人・当麻太郎が取った一連の行動を経ても、源頼朝の怒りは収まらず、最終的には、源範頼による謀反の意志が真実であったと確信。

そして源範頼は、8月17日に伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)へと配流され、「修善寺」(しゅぜんじ:静岡県伊豆市)に幽閉されます。そのあとの源範頼については諸説ありますが、南北朝時代に成立した歴史書「保暦間記」(ほうりゃくけんき)によれば、誅殺されたと言われているのです。

源頼朝に忠誠を誓いながらも、その源頼朝の手により、流刑地の伊豆にて悲劇的な最期を迎えた源範頼ですが、その子孫達は「吉見氏」(よしみし)という姓を称し、南北朝時代には、能登国(現在の石川県北部)の守護となって活躍したと伝えられています。

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