13人の合議制(鎌倉殿の13人)メンバー

梶原景時(かじわらかげとき)
 - 刀剣ワールド

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「梶原景時」(かじわらかげとき)は、鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)に仕えたことで知られる、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将です。 人気の高い「源義経」(みなもとのよしつね)と戦術や行動を巡ってしばしば対立したことから、後世の江戸時代には悪役のイメージで語られることが多くなりましたが、実際には実務能力の高い教養人であり、源頼朝からの信任が厚い人物だったと伝えられています。 決して一本調子ではなかった梶原景時の生涯について、有名なエピソードを交えながら、悲劇的な最期まで見ていきましょう。

源頼朝(みなもとのよりとも)を救った梶原景時(かじわらかげとき)

「平治の乱」のあと、一時平氏方に付く

梶原景時

梶原景時

鎌倉幕府の黎明期には源頼朝を支えた梶原景時。2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)の時代には「13人の合議制」を構成する御家人のひとりにも列せられ、2022年(令和4年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場する当時の重要人物です。

梶原景時は1140年(保延6年)頃、坂東八平氏(ばんどうはちへいし)の流れを汲む「梶原景清」(かじわらかげきよ)の次男として、相模国鎌倉郡梶原(現在の神奈川県鎌倉市)で生まれます。

母は、武蔵国多摩郡(現在の東京都八王子市)の武士「横山孝兼」(よこやまたかかね)の娘です。梶原氏は、同じ坂東八平氏のひとつである大庭氏らと共に源氏の家人となっていましたが、1160年(平治2年/永暦元年)の平治の乱で「源義朝」(みなもとのよしとも)が敗死したあとは平氏にしたがっていました。

「しとどの窟」での出来事が歴史の転換点に

1180年(治承4年)8月17日、源頼朝が挙兵し、平氏に与する伊豆国(現在の静岡県伊豆半島、東京都伊豆諸島)の目代(もくだい:地方官の代理人)「山木兼隆」(やまきかねたか)を討ち取ります。これに対して梶原景時は、「大庭景親」(おおばかげちか)と源頼朝討伐に出向き、「石橋山の戦い」(現在の神奈川県小田原市)にておよそ10分の1の兵力しか持たない源頼朝軍を撃破。源頼朝主従は山の中へ逃れていきました。

しとどの窟

しとどの窟

梶原景時と大庭景親は追いかけて、山中を入念に捜索します。このとき、源頼朝は「土肥実平」(どいさねひら)や「岡崎義実」(おかざきよしざね)、「安達盛長」(あだちもりなが)ら数騎を引き連れ、しとどの窟(しとどのいわや:神奈川県湯河原町)と呼ばれる岩屋(洞窟)に身を潜めていました。足跡に気付いた大庭景親が「ここが怪しい」と訝しんだため、梶原景時が調べるために中へ入ると、源頼朝と目が合ってしまいます。

源頼朝は、もはやこれまでと自害の刃を振るいますが、梶原景時はとっさに押しとどめ、「お助けしましょう」と告げたのです。そして洞窟を出ると、「コウモリばかりで誰もいない。向こうの山が怪しい」と叫びました。それでも怪しんで自ら洞窟へ入ろうとする大庭景親の目前に立ちふさがり、梶原景時は「私を疑うのか。入ればただではおかぬ」と威圧。大庭景親は断念してその場を去り、源頼朝は奇跡的に命をつなぎました。

このしとどの窟の出来事は書物により多様に伝えられる一方、梶原景時と源頼朝を深く結び付けるための伝承に過ぎないとも考えられています。しかし、もしこのとき源頼朝が命を落としていたとしたら、「源平合戦」で源氏が勝利することはなく、鎌倉幕府も開かれなかったかもしれません。しとどの窟の逸話は、歴史の流れを変える大きな瞬間を語り継いでいるのです。

源頼朝に仕え信任を得る

そのあと、源頼朝は海路で安房国(現在の千葉県南部)へ逃れて再起を図りました。東国の武士を次々と味方に付けて大軍を率い鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)へ入ると、1180年(治承4年)10月には「富士川の戦い」で「平維盛」(たいらのこれもり)率いる都からの追討軍に勝利。平氏方として参戦していた大庭景親は降伏するものの後日処刑されます。

梶原景時は土肥実平を通して降伏し、翌1181年(治承5年/養和元年)正月に源頼朝と顔を合わせました。御家人として仕えることとなった梶原景時は、教養があり弁舌も優れていたことから、「鶴岡八幡宮若宮」(神奈川県鎌倉市)の造営や、御台所(みだいどころ)「北条政子」(ほうじょうまさこ)の出産にかかわる諸事を取り仕切る奉行などを任され、さらに侍所所司(さむらいどころしょし:軍事・警察を担う組織の次官)に任命されています。

源頼朝に仕える梶原景時は忠義を尽くしますが、その行動が他の御家人達から反感を買う場合もありました。例えば、強大な軍事力を持つ「上総広常」(かずさひろつね:呼称は上総介広常[かずさのすけひろつね])を討った逸話を見ても分かります。1183年(治承7年/寿永2年)12月、上総広常と双六(すごろく)を打っていた梶原景時は、唐突に上総広常の喉を掻き斬ってしまいました。

これは、上総広常に謀反の疑いがあるとして源頼朝が命じたことと言われています。ところが、のちに上総広常の鎧から源頼朝の武運を祈る願文(がんもん:神仏に願を懸ける際、その趣旨を記す文章)が見つかったため、謀反の疑いは晴れ事実無根であったことが分かるのです。

源頼朝は後悔したと伝えられているものの、実は軍事力に優れた上総広常は、政権樹立を志す源頼朝にとっては煙たい存在であり、反意の有無にかかわらず排除したかったのではないかとも推測されています。この一件で梶原景時は、源頼朝からより信頼されるようになりますが、周囲の御家人達からは恐れられるようになりました。

梶原景時の戦勝報告に源頼朝も感心

1184年(治承8年/寿永3年)正月、梶原景時と嫡男の「梶原景季」(かじわらかげすえ)は「源義仲」(みなもとのよしなか:木曾義仲[きそよしなか]とも)と相対した「宇治川の戦い」(現在の京都府宇治市)に参陣。源頼朝は異母弟である「源範頼」(みなもとののりより)と源義経に指揮を執らせ、梶原景季は源義経の配下で「佐々木高綱」(ささきたかつな)と先陣を争い武功を挙げます。

戦いのあと、源範頼や源義経らは、おのおの鎌倉へ戦勝報告をしましたが、いずれも勝利を伝えるにとどまっていたのに対し、梶原景時の報告書だけは戦の様子や、味方の誰がどの敵武将を討ち取ったのか、また源義仲が討死した場所など、戦果がこと細かに記されていたため、源頼朝はその卓越した実務・事務能力を喜んだとのことです。

勇猛果敢な「梶原の二度駆け」

歌川国芳 作「武勇准源氏 梅枝」
歌川国芳 作「武勇准源氏 梅枝」

宇治川の戦い後の1184年(治承8年/寿永3年)2月、「治承・寿永の乱」(源平合戦)における重要な戦いのひとつ「一ノ谷の戦い」が起こります。源範頼と源義経を指揮官とする源氏軍は、平氏の拠点となっている摂津国一ノ谷(現在の兵庫県神戸市)へ進軍。

梶原景時は嫡男の梶原景季、次男の「梶原景高」(かじわらかげたか)と共に源範頼にしたがって、一ノ谷の東に位置する「生田口」を守る「平知盛」(たいらのとももり)の軍と交戦しました。「平家物語」には、次男の梶原景高が一騎駆けで敵の中へ突入したとあります。

これを援護するため梶原景時と梶原景季も攻め込んで、降り注ぐ矢を物ともせずに敵を打ち散らすと、梶原景高を連れ後退しますが、今度は梶原景季が敵陣深く入り込んで戻りません。

梶原景時はふたたび敵陣へ飛び込んで奮戦。これは梶原の二度駆けと呼ばれ、武勇を称えられています。

梶原景時が2度目の戦いに戻ったとき、梶原景季は箙(えびら:矢を入れて肩や腰に掛ける入れ物)に花の付いた梅の枝を挿して戦っていたと言われ、坂東武者(関東生まれの勇猛な武士)にも風流を理解する者がいるとして敵味方にかかわらず称賛されたとのことです。

戦いは源氏軍が勝利し、平氏軍の兵士は敗走。生田口を守っていた平知盛も逃げ、平氏の総大将を務めた「平宗盛」(たいらのむねもり)も敗戦を認めて船で屋島(現在の香川県高松市)へと逃げました。

源義経とのたび重なる対立

遺恨となった「逆櫓論争」

一ノ谷の戦いでの勝利を受け、梶原景時は土肥実平と共に上洛して平氏所領の没収にあたり、さらに源範頼に付きしたがって中国地方や九州など西国の遠征に従事しています。1185年(元暦2年/永寿4年)正月、源頼朝は西国の源範頼が兵糧や軍船の調達で苦労し、苦戦を強いられていることを知って、源義経の出陣を決めました。

源義経は摂津国(現在の大阪府北中部、兵庫県南東部)で軍を編成したのち、平氏の本営がある屋島を攻撃することになります。源義経軍が摂津国の港「渡辺津」(わたなべのつ)から出航するとき、戦奉行として源義経軍に入った梶原景時と軍議が行われましたが、ここで意見の対立が起こったのです。

梶原景時は、兵士が乗る船には進むも退くも自由にできる逆櫓(さかろ)を付けようと提案します。ところが源義経は、「それでは兵が退くことを考えてしまい不利になる」と反対。梶原景時は、「進むばかりで退くことを知らぬは猪武者である」と言い返し、源義経は「初めから逃げることを考えていて勝てるはずがない。私は猪武者で結構だ」と言い放ちました。これが世に言う逆櫓論争です。

梶原景時は不信感を抱き、源義経に対して遺恨を持ったとされています。「屋島の戦い」では、暴風雨の中で渋る船頭を脅し、わずか5艘150騎で出陣した源義経が奇襲に成功。梶原景時が本隊140艘余りで屋島に乗り込んだときには、すでに平氏軍は退却していました。このため、梶原景時は源義経から「六日の菖蒲」(むいかのあやめ:5月5日の端午の節句に間に合わない菖蒲の意から、好機を逸して役に立たないことの例え)と揶揄されたと言われています

「壇ノ浦の戦い」を前にふたたび対立

1185年(元暦2年/永寿4年)3月、最後の拠点である長門国(現在の山口県西部)彦島で孤立した平氏を滅ぼすために、源義経は水軍を編成。壇ノ浦の戦いに臨みます。

戦いを前にした軍議で梶原景時は先陣を希望しますが、源義経は首を縦に振らず自ら先陣を務めると返しました。これに対して梶原景時が、「主君の器ではない」と侮辱したため、源義経が「日本一の愚か者」と太刀の柄に手をかけると、梶原景時も「自分の主君は鎌倉殿のみ」と返して太刀の柄に手をかけたのです。

源義経の家来と、梶原景時の息子達が取り囲み、同士討ちになる寸前、源義経は「三浦義澄」(みうらよしずみ)が、梶原景時は土肥実平が抑え込み、「同士討ちなど平家を勢い付かせるだけです。鎌倉殿がこれを知れば、ただではすみません」と諫めました。

このような諍いがあったにもかかわらず、壇ノ浦の戦いは源氏の勝利で幕を閉じ、平氏は滅亡。およそ5年にわたった治承・寿永の乱は終結しました。

鎌倉への報告が「梶原景時の讒言」と言われる

鎌倉殿こと源頼朝へ丁寧な戦勝報告を送っていた梶原景時。鎌倉時代に編纂された歴史書「吾妻鏡」(あづまかがみ/あずまかがみ)では、梶原景時が合戦の報告で源義経を批判していたことが記されています。

梶原景時は源義経について、武功を誇る余り傲慢になっており、武士達は緊張を強いられていることや、自分が諫めても聞く耳を持たず、それどころか罰を受けかねないと述べているのです。この報告がのちに梶原景時の讒言と言われるようになります。

「讒言」(ざんげん)とは、人を陥れるために、事実を曲げたり偽ったりして目上の人に告げること。しかし、梶原景時の讒言について吾妻鏡は、「源義経の独断や横柄な態度を不愉快に思っていたのは梶原景時だけではない」と言う内容を添えて書いています。

壇ノ浦の戦いでの華々しい活躍とは裏腹に、戦ののちの源義経は凋落への道をたどりました。鎌倉に無断で「後白河法皇」(ごしらかわほうおう)から官位を授かった源義経と主だった武将達は、源頼朝の怒りを買ってしまいます。

その中には梶原景時の嫡男・梶原景季も含まれていました。梶原景季達はのちに許されて鎌倉へ戻りますが、源義経だけは鎌倉への帰還が許されず京へ追い返されます。その後、源義経は挙兵を図ったものの兵士が集まらずに失敗。

都から逃れ、以前世話になった奥州平泉(現在の岩手県西磐井郡平泉町)の「藤原秀衡」(ふじわらのひでひら)に匿われます。しかし1189年(文治5年)、藤原秀衡が没すると跡を継いだ「藤原泰衡」(ふじわらのやすひら)によって源義経は自害に追い込まれました。そして藤原泰衡もまた源頼朝の大軍に攻められて殺害され、奥州藤原氏は滅亡しています。

源頼朝に仕えた梶原景時の功罪

「夜須行宗」の戦功を巡り訴訟に

源頼朝には忠義を尽くした梶原景時ですが、ときには周囲の御家人との軋轢を生む行動を取ることがありました。これはその中でも梶原景時の讒言と呼ばれるもののひとつです。

壇ノ浦の戦いののち、武将の夜須行宗(やすゆきむね)が平氏方の家人2人を生け捕りにした功績の恩賞を願い出たとき、梶原景時がこれは夜須行宗の手柄ではないと主張。

この件は訴訟となり、呼び出された証人が夜須行宗の戦功を裏付けたため、梶原景時は敗訴しました。夜須行宗には恩賞が与えられ、梶原景時には讒訴(ざんそ)の罰として鎌倉の道路整備が申し付けられています。

功臣「畠山重忠」の謀反を疑う

畠山重忠像

畠山重忠像

畠山重忠(はたけやましげただ)に関する逸話も、良く知られた梶原景時の讒言のひとつです。畠山重忠は武勇の誉れ高く、誠実な人柄で「坂東武士の鑑」と称えられる人物でした。

この畠山重忠が地頭(じとう:国の領地を管理する役職)を務める伊勢国沼田御厨(いせのくにぬまたみくりや:現在の三重県松阪市)で配下の代官が不正を働いたため、畠山重忠は「千葉胤正」(ちばたねまさ)に身柄を預けられます。

これを恥じた畠山重忠は、睡眠も食事も断ってしまったのです。その報告を受けて驚いた源頼朝が罪を許すと、代官にふさわしい人物を選べなかった自分に地頭の資格はないとして、畠山重忠は一族を連れて本領(代々伝えられた領地)の武蔵国へ引き上げてしまいます。

この行動を怪しみ、謀反の疑いをかけたのが梶原景時でした。大した罪でもないのに、本領へ戻るのはおかしいと訴えたのです。畠山重忠を討つべきか、源頼朝は重臣らと審議し、ひとまず「下河辺行平」(しもこうべゆきひら)を使者として畠山重忠のもとへ派遣。

いきさつを聞いた畠山重忠は怒り悲しんで自害しようとしますが、下河辺行平が押しとどめて鎌倉で釈明するよう説得しました。取り調べにあたった梶原景時は、起請文(きしょうもん:契約を破らないことを神仏に誓う文書)を出すよう求めましたが、畠山重忠は自分には二心がないから必要ないと反論。

これを聞いた源頼朝は畠山重忠への疑いを解き、畠山重忠の自害を止めた下河辺行平には褒美を取らせました。その一方で梶原景時は、人望の厚い畠山重忠を陥れようとしたとして、まわりの御家人達から睨まれるようになります。

横柄な梶原景時と礼儀を尽くした畠山重忠

源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした「奥州征伐」のときのこと。武将の「宇佐美実政」(うさみさねまさ)が藤原泰衡の家来「由利維平」(ゆりこれひら:[由利八郎]とも)を捕虜にして源頼朝軍の陣へ戻ってきました。

ところが「天野則景」(あまののりかげ)が、捕らえたのは自分であると主張したのです。そこで梶原景時が由利維平に、捕らえたのはどちらかと尋問することになったのですが、梶原景時は立ったまま横柄な物言いで尋ねたため、由利維平は怒って答えようとはしませんでした。

そこで源頼朝は畠山重忠に尋問するよう命じます。畠山重忠は礼法にのっとり丁寧に対応したため、由利維平は「先ほどの礼儀知らずとは違う」と感じ入り、自分を捕らえたのは、黒糸縅(くろいとおどし)の甲冑(鎧兜)を着て鹿毛の馬に乗った者だと明かしたのです。

これで宇佐美実政の手柄と分かりました。そのあと由利維平は許され、畠山重忠に身柄を預けられたとされています。

弓の名手の赦免を願い出る

「讒言」、「横柄な態度」など、良くないイメージで語られることの多い梶原景時ですが、いく人もの有能な武将の助命にもかかわっているのです。その中には、弓の名手として知られる「金刺盛澄」(かなさしのもりずみ)がいました。平家の家人であった金刺盛澄は、源頼朝に捕縛されたため処刑されることが決まります。

しかし、金刺盛澄が「藤原秀郷流弓術」(ふじわらのひでさとりゅうきゅうじゅつ)を受け継ぐ名手であったことから、この才能を惜しんだ梶原景時が助命を懇願。流鏑馬(やぶさめ)で弓の技量を確かめてから判断されることになりました。源頼朝は、金刺盛澄にあえて暴れ馬を与え、8つの的を射抜くよう命じます。

金刺盛澄がすべての的に的中させると、さらに射抜いて落ちた的の破片や、的を支える支柱まで射抜くよう難題を吹きかけますが、金刺盛澄はいずれも見事に射抜いたため、源頼朝は赦免せざるを得ませんでした。そのあと、金刺盛澄は御家人となり、流鏑馬や正月に開催される的始(まとはじめ)の儀式で活躍。恩人である梶原景時の没後には梶原塚を建立して偲んでいます。

13人の合議制が発足

1199年(建久10年)正月13日、源頼朝が53歳で急死し、嫡男の源頼家が鎌倉幕府2代将軍に就任。2代目の鎌倉殿として父・源頼朝の跡を継ぎます。ところが、源頼家はこれまでの慣例を無視した政策や訴訟の裁断を行うことが多く、これを危惧した有力御家人らによって、13人の合議制が発足することとなりました。

梶原景時も13人の合議制を構成するひとりに重用されています。13人の合議制は、名目上は源頼家を補助するための集団指導体制であり、13人のうちの数名が協議した結果を参考として源頼家が最終的な判断を下すという政治制度でした。しかし、実際には源頼家の政治的権限は大きく制限されたため、源頼家は不満を持っていたとも言われています。

梶原景時の変

梶原景時の排斥を求め66名が署名

13人の合議制は発足したものの、源頼家と有力御家人達との関係は順調とは言えませんでした。この状況について、13人の合議制に名を連ねる「結城朝光」(ゆうきともみつ)は「忠臣は二君に仕えずと言う。先代将軍を失ったときに出家すべきであった。

ご遺志によりそれが叶わなかったことが残念である」と嘆いています。この言葉を伝え聞き、梶原景時は激怒しました。「忠臣は二君に仕えず」と発言したのは現在の主君である源頼家への反意であるとして断罪を求めたとされているのです。実はこのとき暗躍した人物がいます。

それは、13人の合議制を構成するひとりであり、のちに初代執権の座に就く「北条時政」(ほうじょうときまさ)の娘「阿波局」(あわのつぼね)です。阿波局は結城朝光に対して、「梶原景時が、先だっての発言について謀反心のある証だと讒訴し、あなたを亡き者にしようとしている」と告げました。

驚いた結城朝光は、三浦義澄の嫡男「三浦義村」(みうらよしむら)に相談すると共に、13人の合議制に列する「和田義盛」(わだよしもり)をはじめとする御家人達に呼びかけて、66名の武将による連判状(れんぱんじょう)を作成。梶原景時の排斥を求めて、源頼家に提出しました。

1199年(建久10年)11月12日、源頼家は梶原景時に連判状を見せて申し開きがあるかと問いますが、梶原景時は一切の弁明を行わず、一族を連れて所領のある相模国一ノ宮へ退きます。その後、一旦鎌倉へ戻った梶原景時でしたが、鎌倉から追放されることが決まり、梶原景時の鎌倉にある屋敷は解体。

梶原景時が務めていた播磨国(現在の兵庫県南西部)守護には結城朝光の兄「小山朝政」(おやまともまさ)が就き、梶原景時が所有していた美作国(現在の岡山県北東部)は和田義盛に与えられました。

梶原景時一族の滅亡

梶原景時終焉の地

梶原景時終焉の地

1200年(正治2年)正月20日、梶原景時は上洛するために一族を率いて相模国一ノ宮を出立します。

ところが、その途上にある東海道の駿河国清見関(現在の静岡県静岡市清水区)付近で、その場に居合わせた在地武士の「吉川友兼」(きっかわともかね)や、相模国の「飯田義家」(いいだよしいえ)らに見付かり襲撃され、狐崎(きつねがさき:現在の静岡県静岡市清水区など諸説あり)にて合戦となりました。

この戦いで子の「梶原景茂」(かじわらかげもち)、「梶原景宗」(かじわらかげむね)、「梶原景則」(かじわらかげのり)らが討死。梶原景時と嫡男の梶原景季、次男の梶原景高は後方の山へ引いて戦いますが力及ばず、討死したとも自害したとも言われています。翌日には、一族33人の首が街道に懸けられました。

梶原景時一族が滅亡するまでの一連の政争を「梶原景時の変」と言います。梶原景時が主君と仰いだ源頼朝の死から1年後の出来事でした。梶原景時一族の滅亡から3年を待たずして、源頼家は北条氏の手により将軍職から追われ、のちに暗殺されています。北条時政は源頼家の弟である「源実朝」(みなもとのさねとも)を将軍に立て、鎌倉幕府の実権を握ったのです。

梶原景時を描いた屏風・浮世絵

源頼朝の命の恩人である一方、その弟の源義経とは対立を繰り返した梶原景時。後世の歌舞伎や講談の登場人物にもなり、また数々の逸話が屏風絵や浮世絵の題材としても取り上げられました。

ここでは、「刀剣ワールド財団」が所蔵する「源平合戦図屏風」の梶原の二度駆けと、浮世絵の「源平盛衰記 四 梶原景時」をご紹介。どちらも美術品としての価値が高く、歴史的資料としても貴重な作品となっています。

源平合戦図屏風の右隻 第四扇:梶原の二度駆け

源平合戦図屏風は右隻六扇、左隻六扇からなる屏風で、源平合戦の様子が描かれた壮大な美術品です。その右隻第四扇では梶原の二度駆けが題材となっています。

前述の通り、この出来事が起こったのは1184年(治承8年/寿永3年)2月のこと。平氏の拠点のひとつ摂津国一ノ谷へ源氏軍が攻め込んだ戦いです。一ノ谷の東に位置する生田口にて、ここを守る平知盛との戦いに参陣した梶原景時は、息子達と共に平氏の陣へ斬り込みますが、嫡男の梶原景季が敵陣へ深入りしすぎて戻ってきません。

梶原景時は取って返し、敵兵を斬り伏せると「弓矢取り[武士]は進むも引くもそのとき次第じゃ」と叫び、梶原景季を自分の馬の背へ担ぎ上げて戦場から駆け去りました。

この勇ましい父子の逸話を描いた屏風絵:梶原の二度駆けでは、両軍入り乱れる戦場の様子が緻密に表現され、馬の蹄の音や武士達の雄叫びまで聞こえてくるようです。

「源平盛衰記 四 梶原景時」

楊洲周延 作「源平盛衰記 四 梶原景時」
楊洲周延 作
「源平盛衰記 四 梶原景時」

本武者浮世絵は、軍記物語の「源平盛衰記」(げんぺいせいすいき/げんぺいじょうすいき)に登場する石橋山の戦いの一場面を描いています。石橋山の戦いで敗北した源頼朝は、逃げる途中で山中の洞窟へ身を隠しました。そこへ現れたのが平氏方に付いていた梶原景時です。

本武者浮世絵では、強弓を手にした梶原景時の右手側に身を隠す武将の甲冑(鎧兜)が見えます。後方からは指揮官の大庭景親が近付いてきますが、梶原景時は大庭景親に対して誰もいないと嘘をつき、源頼朝の命を救ったのでした。

その緊迫した状況を見事に描写した逸品と言えます。作者の「楊州周延」(ようしゅうちかのぶ)は、江戸時代後期から明治時代にかけて活躍した浮世絵師です。

「武者絵」や「戦争画」、「風俗画」などを手掛けた他、「美人画」に優れ、続物の大作やシリーズ物を多く残しています。1884年(明治17年)の第2回内国絵画共進会で人物と「景色」が賞を受けた翌年、本武者浮世絵を描きました。

梶原景時(かじわらかげとき)

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北条義時(ほうじょうよしとき)

北条義時(ほうじょうよしとき)
日本史上初めての武家政権として、1185年(元暦2年/文治元年)に開かれた鎌倉幕府。その開府まで、同幕府初代将軍となる「源頼朝」(みなもとのよりとも)を陰になり日向になり支えたのは、伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)を拠点とした地方豪族の「北条氏」でした。源頼朝の没後、徐々に勢力を拡大した北条氏のなかで「北条時政」(ほうじょうときまさ)が、鎌倉幕府において実質的な権力を握る「執権」(しっけん)の座に就きましたが、その地位を確固たるものにしたのは、2代執権となった「北条義時」(ほうじょうよしとき)です。2022年(令和4年)放送のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(かまくらどのの13にん)の主役にも選ばれた北条義時について、その生涯を辿りながら、北条氏による執権政治を完成させた経緯についてもご説明します。

北条義時(ほうじょうよしとき)

北条時政(ほうじょうときまさ)

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「北条時政」(ほうじょうときまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて歴史に名を刻んだ北条氏一門の武将です。鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)の正室で「尼将軍」とも呼ばれた「北条政子」(ほうじょうまさこ)や、その弟「北条義時」(ほうじょうよしとき)の父としても知られています。この息子である北条義時を主人公とした2022年(令和4年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、「13人の合議制」を構成する御家人のひとりとして登場。北条時政は鎌倉幕府とどのようにかかわり、どんな影響をもたらしたのでしようか。その生涯について詳しくご紹介していきます。 「北条時政」YouTube動画

北条時政(ほうじょうときまさ)

和田義盛(わだよしもり)

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「和田義盛」(わだよしもり)は、「13人の合議制」のひとり。鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」とともに、様々な合戦で活躍したことで知られる御家人です。武勇に優れ、弓の名手とも称された和田義盛は、政治の面でも活躍しており、鎌倉幕府の初代「侍所別当」(さむらいどころべっとう:御家人を統括する機関[侍所]の長官)にも任じられました。武勇と政務の手腕を発揮した和田義盛とは、どのような人物だったのか。ここでは、和田義盛の生涯と、和田義盛が起こした反乱「和田合戦」についてご紹介します。

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比企能員(ひきよしかず)

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「比企能員」(ひきよしかず)は、「13人の合議制」のひとり。鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」や2代将軍「源頼家」を支え、権勢を握った比企能員ですが、その権力の大きさゆえに「北条氏」から目を付けられることになります。比企能員とは、どのような人物だったのか。ここでは、比企能員の生涯と、比企能員が起こした政変「比企能員の変」についてご紹介します。

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三浦義澄(みうらよしずみ)

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「三浦義澄」(みうらよしずみ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した相模国(現在の神奈川県)の武将です。相模国と言えば鎌倉幕府の根拠地となった場所ですが、三浦義澄は同国の守護職を任されるほどに、同幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)より篤い信頼を得ていました。平家討伐と鎌倉幕府の発展に注力した三浦義澄の生涯を追いつつ、源頼朝との信頼関係を築いた経緯についても解説します。

三浦義澄(みうらよしずみ)

大江広元(おおえのひろもと)

大江広元(おおえのひろもと)
公家出身でありながら、鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)の腹心として、同幕府の草創期に大きく貢献した「大江広元」(おおえのひろもと)。鎌倉幕府内では、一般的な政務や財政を司る「政所」の長官、「政所別当」(まんどころべっとう)として活躍した大江広元が、どのような生涯を送ったのか、その人となりが窺える逸話などを交えてご説明します。

大江広元(おおえのひろもと)

三善康信(みよしのやすのぶ)

三善康信(みよしのやすのぶ)
鎌倉幕府が開かれる以前より、「源頼朝」(みなもとのよりとも)を支えていた「三善康信」(みよしのやすのぶ)。同幕府成立後は、現代における裁判所のような役割を果たしていた「問注所」(もんちゅうじょ/もんぢゅうしょ)の初代執事として、その敏腕ぶりを発揮。下級貴族出身でありながら源氏将軍家の重臣にまで上り詰め、2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)を13名の有力御家人達が補佐する指導体制、「13人の合議制」にも参加しました。三善康信が如何にして源氏将軍家から重用されるようになったのか、その半生を振り返りながらご説明します。

三善康信(みよしのやすのぶ)

中原親能(なかはらのちかよし)

中原親能(なかはらのちかよし)
「中原親能」(なかはらのちかよし)は鎌倉幕府の草創期より、同幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)の側近となった人物です。公家出身の中原親能は、幕政における文官御家人として活躍。その一方で、源頼朝が携わった主要な合戦にも付きしたがっていました。2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)を指導するために発足した「13人の合議制」にも加わった中原親能が、源頼朝に重用されるまでに出世した経緯について、その生涯と共に紐解いていきます。

中原親能(なかはらのちかよし)

八田知家(はったともいえ)

八田知家(はったともいえ)
「八田知家」(はったともいえ)は、「鎌倉幕府」の御家人(将軍直属の武士)を務め、同幕府2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)を幕政において補佐するために設けられた指導体制、「13人の合議制」のひとりにも選ばれた武将です。「源氏」4代に仕えた八田知家の生涯を辿りながら、鎌倉幕府での八田知家での役割とその活躍についてご説明します。

八田知家(はったともいえ)

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