鎌倉時代

奥州合戦

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「壇ノ浦の戦い」での平家滅亡後、源氏は天下を取りますが、これでめでたし、という訳にはいきませんでした。実戦で活躍した「源義経」と、権力者である兄「源頼朝」の間に確執が生まれ、それは奥州藤原氏を巻き込んで、大きな歴史の流れを作っていくのです。

源義経追放と奥州合戦

壇ノ浦の戦い」で平家は滅び、ついに源氏の天下となります。そんな経緯があって「治承・寿永の乱」を「源平合戦」と呼ぶことが多いのですが、これは間違いだと指摘する意見もあります。それは平家に反旗を翻したのは、源氏だけではないことと、木曽義仲軍と源頼朝軍のように、源氏同士や平氏同士の戦いも含まれているから。源平合戦という呼び名からイメージするような、源氏一族と平氏一族同士の戦いと言うわけではないのです。

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壇ノ浦の戦い・その後

平家一門のうち、壇ノ浦の戦い後に生き残った者もいました。平清盛亡きあとの一門の長である平宗盛は、死に切れず、周囲の者に海に突き落とされますが、水泳が得意だったために、浮かび上がったところを捕らえられて捕虜となります。

鎌倉で「源頼朝」に謁見した際には、卑屈な態度で命乞いをして、源氏方があざ笑ったとも言われるものの、死の間際まで息子を気にかけるなど、家庭人としては良き父と言えるでしょう。平宗盛は処刑後、さらし首となっており、三位以上の地位に昇り詰めた人物としては前代未聞でした。

平宗盛を捕らえた功績で、源頼朝は従二位へ昇ります。

源義経の追放

壇ノ浦の戦いの先陣に「源義経」が立ったことについて、源頼朝より軍監役として付けられた「梶原景時」(かじわらかげとき)と源義経は対立しました。「大将が先陣に立つなどとんでもない」という梶原景時を押し切って源義経が先陣に立ったことが、梶原景時には大きな遺恨として残ったと言われています。

源頼朝・源義経

源頼朝・源義経

1185年(文治元年)4月、梶原景時から源義経の所業を訴える書状が源頼朝のもとへ届きました。他にも、源義経の越権行為や勝手な処罰などの不遜を訴える報告が次々と入り、ついに5月、源頼朝より源義経には従うなという命が出されてしまいます。

その頃、平宗盛父子を伴って凱旋した源義経に対して、源頼朝は鎌倉入りすることを許しませんでした。源義経は許しを請いますが、怒りを解かない源頼朝を深く恨みながら帰洛したのです。

8月、源頼朝は叔父「源行家」(みなもとゆきいえ)の追討を源義経に命じて、断られたことから「行家と通じている」と断じます。10月には、源頼朝の命を受けた「土佐坊昌俊」(とさのぼうしょうしゅん)が源義経を襲撃。源行家の源義経方への加勢で襲撃は失敗に終わりました。

源義経は、「後白河法皇」に源頼朝追討の勅許を求め、宣旨を受けますが、思うように兵が集まらずに、戦わずして行方をくらましてしまうのです。

11月、源頼朝の怒りに狼狽する朝廷に「守護・地頭の設置」を認めさせ、源頼朝は、そのあとも着々と「天下の草創」を進めて行きます。翌1186年(文治2年)11月には、ほぼ朝廷を脅すような形で、源義経追討の命を出させました。信頼していた後白河法皇に裏切られた源義経は、失意のうちに、奥州の「藤原秀衡」(ふじわらのひでひら)を頼って北へ向かいます。

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奥州合戦・1~藤原秀衡~

藤原秀衡

藤原秀衡

平家を倒した源頼朝にとって、残る最大の脅威は、奥州藤原氏でした。源頼朝は、奥州藤原氏を壊滅させる機会を窺っていたのです。

奥州藤原氏は、遠く奥州で名産の馬と金による財力に支えられ、独自の文化と勢力を誇っていました。たびたび朝廷や寺社にも馬や金を献上して、その存在感を示していきますが、都の貴族達は奥州藤原氏を恐れつつ、「蝦夷」(えぞ)という蔑称で呼んでさげすんでいたのです。

藤原秀衡は、鞍馬寺から逃亡した源義経を匿って養育してくれた父親代わりのような人物でした。

1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵の際に、兄のもとへ向かおうとする源義経を、強く引き止めますが、最後には惜しみつつ、伴の者を付けて送り出してくれたと言われています。

そして源平の争いでも、どちらに付くこともなく静観の姿勢を取り続けました。

平家滅亡後の1186年(文治2年)、それまで朝廷と直接やり取りしてきた藤原秀衡に向かって、源頼朝は「奥州藤原氏が都に献上する馬と金は自分が仲介しよう」と無礼な申し出をします。これは、それまで独立を保ってきていた奥州藤原氏を自分の下に置くという意味になるのです。藤原秀衡は、衝突を避けるために、源頼朝の言い分を飲みました。

そんな中、1187年(文治3年)2月、源頼朝に追われた源義経が逃げ込んでくるのです。

さらに、この頃の奥州藤原氏は、後継者である正室腹の次男「藤原泰衡」(ふじわらのやすひら)と側室腹の長男「藤原国衡」(ふじわらのくにひら)との間に、家督争いが起こる不安を抱えていました。藤原秀衡は、もはや鎌倉との衝突は避けられないことを覚悟し、源義経を将軍として立て、源頼朝に対抗することまで考えていたとも言われています。

しかし藤原秀衡は、源義経が奥州入りした9ヵ月後の1187年(文治3年)10月29日、死去してしまうのです。亡くなる際に、藤原国衡、藤原泰衡、源義経の3人に「源義経を主君として仕え、3人で力を合わせて源頼朝の襲撃に備えよ」と言い残しています。

奥州合戦・2~衣川の戦い~

武蔵坊弁慶

武蔵坊弁慶

1188年(文治4年)2月に、源義経の奥州への潜伏が発覚すると、源頼朝は朝廷から、藤原氏に源義経の追討宣旨を出させます。最期まで源義経を庇護し続けた藤原秀衡が前年に没し、藤原秀衡の君主としての度量を恐れていた源頼朝は、今が好機と奥州藤原氏への圧力を強めるのです。

この頃の源義経は、京での再起を図っていたという記録も残っています。

あとを継いだ藤原泰衡は、源頼朝の圧力に屈して、1189年(文治5年)4月30日、陸奥国衣川館の源義経を500の兵で襲撃。源義経方は「武蔵坊弁慶」など、わずか10~20の兵で抵抗しますが、ことごとく敗れました。

源義経は、一切戦わず、正室の「郷御前」(さとごぜん)とその間に生まれた4歳の娘を殺害したあとに自害したと言われています。壇ノ浦の戦いの活躍からわずか4年後、享年31歳でした。

京より逃亡中に別れた、源義経の愛妾であった「静御前」は捕らえられて源頼朝のもとに連れて行かれます。

源頼朝の前で源義経を想う白拍子を舞い、源頼朝の怒りを買いますが、妻である「北条政子」が「妻が夫を想うのは当たり前」ととりなしたのは有名な逸話です。

のちに、静御前は源義経の子である男子を産みますが、由比ヶ浜に捨てられてしまいました。

奥州合戦・3~内乱の終結~

源頼朝に源義経の首を送り、これで奥州の平和は保たれると思った藤原泰衡でしたが、源頼朝の目的は、奥州藤原氏を討つことそのものでもありました。今度は、源頼朝より「長い間源義経を匿った」、「源頼朝の許可なく源義経の首を取った」という理由で、7月に鎌倉軍の襲撃を受け、栄華を誇った平泉は陥落してしまいます。これが「奥州合戦」です。

自らの保身に走り、父の遺言を守らずに、源義経を鎌倉方に売った結果、奥州藤原氏を滅亡に追いやった藤原泰衡は、「判官贔屓」(ほうがんびいき)で有名な源義経の悲劇性と相まって、後世の評価が非常に低くなっています。

奥州合戦には、全国各地の武士が動員されました。また、かつて敵対していた者にも、戦功を上げることで挽回できる機会が与えられたために、士気が高まったのです。この合戦をきっかけに、源頼朝と武士達との関係はますます強固になりました。

いわゆる源平合戦とも呼ばれる治承・寿永の乱の最後は壇ノ浦の戦いということになっていますが、1180年(治承4年)より続いていた「内乱」は、この奥州合戦の終了で終結を迎えたのです。

鎌倉幕府の成立

治承・寿永の乱で平家が滅び、源氏内の抵抗勢力であった木曽義仲・甲斐源氏・源義経などがすべて消えて行きました。北の王者・奥州藤原氏を討って、敵がいなくなった源頼朝は、いよいよ頂点へと上り詰めるのです。

源頼朝の上洛と征夷大将軍の任命

源頼朝

源頼朝

1189年(文治5年)11月3日、源頼朝のもとに、朝廷より書状が届きました。奥州征伐の功績から、源頼朝は按察使(あぜち:地方行政を監督する官職)への任官を打診されますが、辞退します。

1190年(文治6年)11月7日、源頼朝は1,000余騎の軍勢を率いて上洛し、9日に後白河法皇と謁見。征夷大将軍の任命を希望するものの、叶えられず、権大納言・右近衛大将に任じられたのですが、やはりどちらも辞してしまいます。

しかし、在京の間に、数回後白河法皇と源頼朝の対面が実現し、双方のわだかまりが解け、朝廷と鎌倉方の協調体制を確認することになりました。

1192年(建久3年)3月、後白河法皇が崩御すると、7月12日には、源頼朝は念願の征夷大将軍に任命されました。一般的には、源頼朝の征夷大将軍就任によって、鎌倉幕府が成立したとされています。

1156年(保元元年)7月に起こった「保元の乱」により、源平合戦は始まりました。源氏と平家が台頭し、平家の栄華と滅亡を経て、源氏が勝利。1192年(建久3年)7月、源頼朝が幕府を開いたところで、源平合戦は幕を閉じます。

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鎌倉幕府の成立時期について

「いいくに(1192)つくろう 鎌倉幕府」という語呂合わせは、日本史を勉強すれば必ず出てくるほど有名なものです。前述のように、1192年(建久3年)、源頼朝が朝廷より征夷大将軍に任命されたことで、鎌倉幕府が始まったとされてきたためです。

しかし、近年では、源頼朝の統治はそれ以前から始まったので、鎌倉幕府の実質的な成立は1185年(元暦2年)の壇ノ浦の戦い後とする新説が浮上してきています。

源頼朝は、鎌倉幕府の成立を明確に宣言したわけではなく、また「幕府」と言う呼称が使われるようになったのは幕末で、この当時は「関東」、「鎌倉殿」、「武家」などと呼ばれていました。

鎌倉幕府は、1180年(治承4年)に源頼朝が鎌倉を本拠としたところから、段階を踏んで確立し、最初は限定的な統治権だったものが、鎌倉時代後に範囲を拡大しているため、どの時点を持って成立とするかは、様々な見解があり、確定するのは難しい、という説もあるのです。

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