鎌倉時代
源平合戦③
鎌倉時代
源平合戦③

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「壇ノ浦の戦い」での平家滅亡後、源氏は天下を取りますが、これでめでたし、という訳にはいきませんでした。実戦で活躍した源義経と、権力者である兄・頼朝の間に確執が生まれ、それは奥州藤原氏を巻き込んで、大きな歴史の流れを作っていくのです。

義経追放と奥州合戦

「壇ノ浦の戦い」で平家は滅び、ついに源氏の天下となります。そんな経緯があって「治承・寿永の乱」を「源平合戦」と呼ぶことが多いのですが、これは間違いだと指摘する意見もあります。それは平家に反旗を翻したのは、源氏だけではないことと、義仲軍と頼朝軍のように、源氏同士や平氏同士の戦いも含まれているからです。源平合戦という呼び名からイメージするような、源氏一族と平氏一族同士の戦いと言う訳ではありません。

壇ノ浦の戦い・その後

平家一門のうち、壇ノ浦の戦い後に生き残った者もいました。清盛亡きあとの一門の長である宗盛は死に切れず、周囲の者に海に突き落とされますが、水泳が得意だったために浮かび上がったところを捕らえられて捕虜となります。

鎌倉で源頼朝に謁見した際には、卑屈な態度で命乞いをして、源氏方があざ笑ったとも言われます。しかしながら、死の間際まで息子を気にかけるなど、家庭人としては良き父であったとも言われています。宗盛は処刑後さらし首となっており、三位以上の地位に上り詰めた人物としては前代未聞でした。宗盛を捕らえた功績で、頼朝は従二位へ昇ります。

義経の追放

源頼朝・源義経

源頼朝・源義経

壇ノ浦の戦いの先陣に源義経が立ったことについて、頼朝より軍監役として付けられた梶原景時(かじわらかげとき)と義経は対立しました。「大将が先陣に立つなどとんでもない」という景時を押し切って義経が先陣に立ったことが、景時には大きな遺恨として残ったと言われています。

1185年(文治元年)4月、景時から義経の所業を訴える書状が頼朝のもとへ届きました。他にも、義経の越権行為や勝手な処罰などを訴える報告が次々と入り、ついに5月、頼朝より義経にはしたがうなという命が出されてしまいます。

その頃、平宗盛父子を伴って凱旋した義経に対して、頼朝は鎌倉入りすることを許しませんでした。義経は許しを請いますが、怒りを解かない頼朝を深く恨みながら帰洛したのです。

8月、頼朝は叔父・行家の追討を義経に命じて、断られたことから「行家と通じている」と断じます。10月には、頼朝の命を受けた土佐坊が義経を襲撃。行家の義経方への加勢で襲撃は失敗に終わりました。義経は、後白河法皇に頼朝追討の勅許を求め、宣旨を受けますが、思うように兵が集まらずに、戦わずして行方をくらましてしまうのです。

11月、頼朝の怒りに狼狽する朝廷に「守護・地頭の設置」を認めさせ、頼朝は、その後も着々と「天下の草創」を進めていきます。翌1186年(文治2年)11月には、ほぼ朝廷を脅すような形で、義経追討の命を出させました。信頼していた後白河法皇に裏切られた義経は、失意のうちに奥州の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼って北へ向かいます。

奥州合戦

平家を倒した頼朝にとって、残る最大の脅威は、奥州藤原氏でした。頼朝は、奥州藤原氏を壊滅させる機会を窺っていたのです。

奥州藤原氏は、遠く奥州で名産の馬と金による財力に支えられ、独自の文化と勢力を誇っていました。たびたび朝廷や寺社にも馬や金を献上して、その存在感を示していきますが、都の貴族たちは奥州藤原氏を恐れつつ、「蝦夷」(えぞ)という蔑称で呼んでさげすんでいたのです。

藤原秀衡

藤原秀衡は、鞍馬寺から逃亡した義経を匿って養育してくれた父親代わりのような人物でした。

1180年(治承4年)の頼朝の挙兵の際に、兄のもとへ向かおうとする義経を、強く引き止めますが、最後には惜しみつつ、供の者を付けて送り出してくれたと言われています。

そして源平の争いでも、どちらに付くこともなく静観の姿勢を取り続けました。

平家滅亡後の1186年(文治2年)、それまで朝廷と直接やり取りしてきた秀衡に向かって、頼朝は「奥州藤原氏が都に献上する馬と金は自分が仲介しよう」と無礼な申し出をします。これは、それまで独立を保っていた奥州藤原氏を自分の下に置くという意味になるのです。秀衡は、衝突を避けるために、頼朝の言い分を飲みました。

そんな中、1187年(文治3年)2月、頼朝に追われた義経が逃げ込んでくるのです。

さらに、この頃の奥州藤原氏は、後継者である正室腹の次男・泰衡(やすひら)と側室腹の長男・国衡(くにひら)との間に、家督争いが起こる不安を抱えていました。秀衡は、もはや鎌倉との衝突は避けられないことを覚悟し、義経を将軍として立て、頼朝に対抗することまで考えていたとも言われています。

しかし秀衡は、義経が奥州入りして9ヵ月後の1187年(文治3年)10月29日、死去してしまうのです。亡くなる際に、国衡・泰衡・義経の3人に「義経を主君として仕え、3人で力を合わせて頼朝の襲撃に備えよ」と言い残しています。

衣川の戦い

武蔵坊弁慶

武蔵坊弁慶

1188年(文治4年)2月に、義経の奥州への潜伏が発覚すると、頼朝は朝廷から、藤原氏に義経の追討宣旨を出させます。最期まで義経を庇護し続けた秀衡が前年に没し、秀衡の君主としての度量を恐れていた頼朝は、今が好機と奥州藤原氏への圧力を強めるのです。

この頃の義経は京での再起を図っていたという記録も残っています。

あとを継いだ藤原泰衡は頼朝の圧力に屈して、1189年(文治5年)4月30日、陸奥国衣川館の義経を500の兵で襲撃。義経方は武蔵坊弁慶など、わずか10~20の兵で抵抗しますが、ことごとく敗れました。

義経は、一切戦わず、正室の郷御前(さとごぜん)とその間に生まれた4歳の娘を殺害したあとに自害したと言われています。壇ノ浦の戦いの活躍からわずか4年後、享年31歳でした。

京より逃亡中に別れた、義経の愛妾の静御前は捕らえられて頼朝のもとに連れて行かれます。

頼朝の前で義経を想う白拍子を舞い、頼朝の怒りを買いますが、妻である政子が「妻が夫を想うのは当たり前」ととりなしたのは有名な逸話です。

のちに、静御前は義経の子である男子を産みますが、由比ヶ浜に捨てられてしまいました。

内乱の終結

頼朝に義経の首を送り、これで奥州の平和は保たれると思った泰衡でしたが、頼朝の目的は、奥州藤原氏を討つことそのものでもありました。今度は、頼朝より「長い間義経を匿った」「頼朝の許可なく義経の首を取った」という理由で、7月に鎌倉軍の襲撃を受け、栄華を誇った平泉は陥落してしまいます。これが「奥州合戦」です。

自らの保身に走り、父の遺言を守らずに義経を鎌倉方に売った結果、奥州藤原氏を滅亡に追いやった泰衡は、「判官贔屓」(ほうがんびいき)で有名な義経の悲劇性と相まって、後世の評価が非常に低くなっています。

奥州合戦には、全国各地の武士が動員されました。また、かつて敵対していた者にも、戦功を上げることで挽回できる機会が与えられたために、士気が高まったのです。この合戦をきっかけに、頼朝と武士たちとの関係はますます強固になりました。

いわゆる源平合戦とも呼ばれる「治承・寿永の乱」の最後は壇ノ浦の戦いということになっていますが、1180年(治承4年)より続いていた「内乱」は、この奥州合戦の終了で終結を迎えたのです。

鎌倉幕府の成立

治承・寿永の乱で平家が滅び、源氏内の抵抗勢力であった義仲・甲斐源氏・義経などがすべて消えていきました。北の王者・奥州藤原氏を討って敵がいなくなった頼朝は、いよいよ頂点へと上り詰めるのです。

頼朝の上洛と征夷大将軍の任命

1189年(文治5年)11月3日、頼朝のもとに、朝廷より書状が届きます。奥州征伐の功績から頼朝は按察使への任官を打診されますが、辞退します。

1190年(文治6年)11月7日、頼朝は1,000余騎の軍勢を率いて上洛し、9日に後白河法皇と謁見。征夷大将軍の任命を希望しますが叶えられず、権大納言・右近衛大将に任じられますが、やはりどちらも辞してしまいます。しかし在京の間に、数回後白河法皇と頼朝の対面が実現し、双方のわだかまりが解け、朝廷と鎌倉方の協調体制を確認することになりました。

1192年(建久3年)3月、後白河法皇が崩御すると、7月12日には頼朝は念願の征夷大将軍に任命されます。一般的には、頼朝の征夷大将軍就任によって鎌倉幕府が成立したとされています。

1156年(保元元年)7月に起こった「保元の乱」により、源平合戦は始まりました。源氏と平家が台頭し、平家の栄華と滅亡を経て、源氏が勝利。1192年(建久3年)7月、源頼朝が幕府を開いたところで、源平合戦は幕を閉じます。

鎌倉幕府の成立時期について

「いいくに[1192]つくろう 鎌倉幕府」という語呂合わせは、日本史を勉強すれば必ず出てくる程有名なものです。前述のように、1192年(建久3年)、源頼朝が朝廷より征夷大将軍に任命されたことで、鎌倉幕府が始まったとされてきたためです。

しかし近年では、頼朝の統治はそれ以前から始まったので、鎌倉幕府の実質的な成立は1185年(元暦2年/寿永4年)の壇ノ浦の戦い後とする新説が浮上してきています。

頼朝は、鎌倉幕府の成立を明確に宣言した訳ではなく、また「幕府」と言う呼称が使われるようになったのは幕末で、この当時は「関東」「鎌倉殿」「武家」などと呼ばれていました。

鎌倉幕府は、1180年(治承4年)に頼朝が鎌倉を本拠としたところから、段階を踏んで確立し、最初は限定的な統治権だったものが、鎌倉時代後に範囲を拡大しているため、どの時点を持って成立とするかは様々な見解があり、確定するのは難しい、という説もあるのです。

源平合戦③

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承久の乱

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「鎌倉幕府」の成立は、日本初の本格的武家政権の誕生を意味していました。これにより、天皇を中心とした政治は、事実上終焉。朝廷の影響力は低下していきます。朝廷にとって特に大きなダメージとなったのは、全国にあった「荘園」からの租税収入の激減。そのような状況の中「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)は、全国各地の武士に対して幕府の実質的トップだった執権「北条義時」(ほうじょうよしとき)追討の「院宣」(いんぜん:上皇の意思を示す文書)を発し、鎌倉幕府打倒を目論んだのです。

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元寇②

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元寇①

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