竹中半兵衛
美濃国(現在の岐阜県南部)に生まれた竹中半兵衛(たけなかはんべえ:本名「竹中重治」[たけなかしげはる])は、黒田官兵衛(くろだかんべえ:別称「黒田孝高」[くろだよしたか])と並ぶ「名軍師」として、豊臣秀吉に仕えました。美男子だったうえに、武術や剣術に優れ、中国の兵法書を何冊も完読するほど聡明であったと言われています。
後世に伝わっている、合戦における竹中半兵衛による奇策の数々は、これらの書物から参考にした戦法もありました。
軍師としての才能に溢れていた竹中半兵衛は、かの織田信長からも、その家臣になることを熱望されたのです。
また、盟友・黒田官兵衛が有岡城(ありおかじょう:兵庫県伊丹市)にて幽閉され、その嫡男であった黒田長政(くろだながまさ)が、竹中半兵衛が仕えていた織田信長による処刑の危機に陥りました。
その際、竹中半兵衛は主君に背きながらも、黒田官兵衛を信じ抜き、親子が見舞われた難局を救っています。
そんな竹中半兵衛の愛刀は、「虎御前の太刀」(とらごぜのたち)。豊臣秀吉から授かった名刀で、実戦での使用はなかったものの、竹中半兵衛が一生涯、大切にしたと伝わる1振です。
西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
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1544年(天文13年) | 1歳 |
大御堂城(おおみどうじょう:岐阜県揖斐郡)の城主・竹中重元(たけなかしげちか/しげもと)の子として生まれる。
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1556年(弘治2年) | 13歳 |
長良川の戦い(ながらがわのたたかい)で初陣を飾る。斎藤道三(さいとうどうさん)の軍勢に加わり、不在の父に代わって大将を務める。
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1558年(弘治4年/ 永禄元年) |
15歳 |
父と共に美濃の岩手城(いわでじょう:岐阜県不破郡)を攻略する。
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1559年(永禄2年) | 16歳 |
岩手城跡に「菩提山城」(ぼだいさんじょう)を築き、居城とする。
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1560年(永禄3年) | 17歳 |
父・竹中重元の死去により家督を相続し、菩提山城主となる。美濃国の国主・斎藤義龍(さいとうよしたつ)に仕える。
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1561年(永禄4年) | 18歳 |
斎藤義龍が死去。その跡を継いだ斎藤龍興(さいとうたつおき)に仕える。
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1563年(永禄6年) | 20歳 |
美濃・新加納で織田軍勢と戦い、勝利を収める。
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1564年(永禄7年) | 21歳 |
斎藤龍興の居城であった稲葉山城(いなばやまじょう)を襲撃し、斎藤龍興を追い出す。
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1567年(永禄10年) | 24歳 | |
1568年(永禄11年) | 25歳 |
観音寺城の戦い(かんのんじじょうのたたかい:別称「箕作城の戦い」[みつくりじょうのたたかい])に参戦する。
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1570年(永禄13年/ 元亀元年) |
27歳 | |
1573年(元亀4年/ 天正元年) |
30歳 | |
1575年(天正3年) | 32歳 | |
1578年(天正6年) | 35歳 | |
1579年(天正7年) | 36歳 |