安土桃山時代

小谷城の戦い
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「小谷城の戦い」(おだにじょうのたたかい)は、「織田信長」と「浅井長政」(あざいながまさ)の間で起きた戦いです。この戦いは、浅井家が滅亡するきっかけとなっただけでなく、浅井家に援軍を送った朝倉家を滅亡させる原因にもなりました。もともと同盟を結んでいた織田信長と浅井長政がなぜ敵対関係となってしまったのでしょうか。その理由と共に小谷城の戦いについてご紹介します。また、浅井長政の正室だった「お市の方」(おいちのかた)と2人の間に生まれた3人の娘の行く末についても迫っていきましょう。

織田信長と浅井長政の関係

もとは同盟を結んでいた2人

織田信長

織田信長

1573年(天正元年)8月に起きた小谷城の戦いは、織田信長浅井長政の間で行われた戦いです。実はこの2人、もともとは同盟関係にあったのですが、1570年(元亀元年)4月の「金ヶ崎の戦い」で浅井長政が離反したため、その後は敵対関係となりました。

金ヶ崎の戦いで織田信長は「朝倉義景」(あさくらよしかげ)を倒そうとしていた渦中でしたが、浅井長政は朝倉義景側につき、織田軍を攻めようとしたのです。

なぜ浅井長政が織田信長から離反をしたのか詳しい理由は分かっていませんが、2人の間に考え方の違いがあったという説が有力です。織田信長と浅井長政は同盟関係にありましたが、それにもかかわらず織田信長は次第に浅井長政を家臣のように扱いました。

浅井長政は、このことに疑念を抱き、これが敵対した理由だと言われています。

姉川の戦い

1570年(元亀元年)7月には浅井長政と朝倉義景の連合軍が、織田信長と「徳川家康」の連合軍と対決しました。最初は浅井長政側が優勢でしたが、徳川家康の援軍によって朝倉義景の軍が敗走、続いて浅井長政の軍も敗北します。

浅井長政は、居城「小谷城」(現在の滋賀県長浜市)へ逃げ込みました。

志賀の陣

浅井長政

浅井長政

1570年(元亀元年)9月から12月にかけて、織田信長と浅井長政の間で再び戦いが行われました。これが「志賀の陣」(しがのじん)です。

激しい戦いとなり、戦いから生き延びた浅井家側の兵士は「比叡山延暦寺」(滋賀県大津市)に逃げ込みます。

織田信長は比叡山延暦寺に対して織田家につくか、あるいは中立を保たなければ焼き討ちにすると警告しましたが、比叡山延暦寺は返答しませんでした。

その後も戦いは長引きましたが、同年12月に「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)による講和の勅命を受けて、浅井長政と織田信長の間で和睦が成立、志賀の陣は終結を迎えたのです。

なお、志賀の陣で織田信長に背いた比叡山延暦寺は、結果として1571年(元亀2年)9月に、焼き討ちに遭っています。

小谷城の戦いによる浅井氏の滅亡

一乗谷城の戦いで朝倉氏滅亡

小谷城跡

小谷城跡

志賀の陣で和睦して以来、織田信長は家臣である「羽柴秀吉」(のちの豊臣秀吉)や「不破光治」(ふわみつはる)を小谷城へ送り降伏するよう勧告しました。

しかし、浅井長政が降伏を拒否し続けたため、1573年(天正元年)8月に小谷城へ攻め込みます。朝倉義景が浅井長政を救援にやってきましたが、「刀根坂の戦い」(とねざかのたたかい)で多くの兵士を失い、打撃を受けていた朝倉軍は織田軍に敵いませんでした。

その後の「一乗谷城の戦い」(いちじょうだにじょうのたたかい)において、朝倉義景は居城「一乗谷城」(現在の福井市城戸ノ内町)まで攻め込まれ、一乗谷城は焼き払われてしまったのです。城攻めからなんとか生き延びた朝倉義景でしたが、身内の「朝倉景鏡」(あさくらかげあきら)に裏切られたことをきっかけに自害し、朝倉氏は滅亡しました。

小谷城への攻撃開始

朝倉氏を滅ぼしたのち、織田軍は浅井長政のいる小谷城へ攻め込みます。小谷城は浅井家が3代にわたって居住しており、中世三大山城のひとつとされています。

本丸にいる浅井長政と小丸にいる父「浅井久政」(あざいひさまさ)が連携して城を守っており、攻め込むのは容易ではありませんでした。しかし羽柴秀吉の奇襲攻撃が成功し、一気に攻め込まれてしまいます。

羽柴秀吉は、本丸と小丸の間にあった京極丸を攻撃し、親子の連携を分断。奇襲攻撃が成功したのは、浅井氏側に裏切り者がいたことも影響したと言われています。

浅井長政が切腹

羽柴秀吉は京極丸を占領したあと小丸を攻撃し、浅井久政は切腹に追い込まれました。浅井長政は攻撃に耐えている間に嫡男「万福丸」(まんぷくまる)と家臣を逃がし、正室のお市の方と3人の娘を羽柴秀吉へ引き渡します。

嫡男・正室・娘・家臣を逃がしたあと、浅井長政は家臣の屋敷で切腹し、浅井家は3代で滅びたのです。

歴史に名を刻む浅井長政の娘達

万福丸のその後

家臣と共に小谷城を脱出した万福丸は、浅井氏の滅亡から2ヵ月後の1573年(天正元年)10月に羽柴秀吉の軍に捕らえられ、わずか10歳で処刑。

浅井家の一族はほとんど処刑されましたが、万福丸の弟「万寿丸」(まんじゅまる)は生き延び、仏門に入ったと言われています。

お市の方と3人の娘


お市の方

お市の方

お市の方は織田信長の妹であり、小谷城の戦いで羽柴秀吉に引き渡された際は浅井長政の助命を訴えています。妹の訴えを受け入れた織田信長は浅井長政へ降伏を勧めますが、浅井長政は受け入れず自害。

そんなお市の方は、戦国一の美女と称されるほどの美貌の持ち主で、政略結婚ながら浅井長政との仲はとても良かったと言われています。

織田家に戻ったあとは、兄「織田信包」(おだのぶかね)の保護を受けながら平穏に過ごしていました。しかし、1582年(天正10年)に織田信長が死ぬと、織田家の家臣だった「柴田勝家」と再婚します。

さらにその後、1583年(天正11年)に柴田勝家が羽柴秀吉から攻められ、戦いに敗れると、お市の方は柴田勝家と共に自害したのです。そして、浅井長政とお市の方の間にいた3人の娘は、「茶々」(ちゃちゃ)、「初」(はつ)、「」(ごう)です。茶々はのちに豊臣秀吉の側室となり、「淀殿」(よどどの)と呼ばれ「豊臣秀頼」(とよとみひでより)を出産しましたが、豊臣家と徳川家康との間の戦いである「大坂の陣」で敗北し、自害しています。

初は「京極高次」(きょうごくたかつぐ)の正室となり、江は徳川家康の嫡男で2代将軍「徳川秀忠」の正室となって、3代将軍となる「徳川家光」を出産。3人ともお市の方の美貌を受け継ぎ、容姿端麗だったと言われています。

浅井家は滅亡しましたが、3人の娘は豊臣家や徳川家の正室、側室として歴史に名を刻んでいます。

小谷城の戦いのあと、浅井氏の旧領地は羽柴秀吉が拝領し、居城を琵琶湖付近にあった「今浜」の地を長浜として「長浜城」(現在の滋賀県長浜市)を築城。「長浜」は、織田信長から一字を貰い受けて名付けています。こうして小谷城は、羽柴秀吉が長浜に城を建てたことで廃城となりました。

小谷城の戦い

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