合戦が大規模化した戦国時代においては、非常に多くの兵力を必要としました。しかしながら、戦国武将といえども、大規模な軍勢を動員することは不可能。家臣団など、一部の専従兵士に加えて、残りは普段、農業に従事している農民を招集することが不可欠でした。
そんな状況の中、「織田信長」によって常設軍が編成されるようになると、やがて他国でも「足軽」と呼ばれる下級兵士から、本体の指揮を執る「総大将」に至る軍隊が組織化されていくのです。
ここでは、戦国時代における軍勢の動員と種類を中心にご紹介します。
平安時代に武士が台頭して以降、基本的な戦いは馬上で名乗り合い、一対一で弓を射合う「騎射戦」(きしゃせん)でした。したがって、戦の勝敗は、こうした「個人個人の戦闘」が積み重なって決せられることとなります。
もっとも、こうした戦い方は「元寇」において、元軍の集団戦法によって大きなダメージを負ったことで、徐々に見直されていきました。
戦国時代と言えども、戦闘に参加していた全員が武士ではありません。普段は農民として畑作業に従事している人々に武器を持たせ、兵士として戦場へと送り出すことが一般的でした。
例えば、北条氏の領国内では農民達が鍬や斧を片手に出陣していった様子が記録に残されています。同様の例は上杉氏や武田氏といった「当時最強」とうたわれた大名家の軍勢にも確認することができます。しかしながら、戦が大規模化・長期化していくと、有事にのみ動員されていた農民が、長期間国元を離れて戦わざるを得ない状況も出てきました。
彼らが戦に従軍しているということはすなわち「農作業ができていない」ことを意味しています。
食料事情が現代よりもずっと悪かった当時、極めて重要だった「コメの生産」に支障が出ることにつながってしまうのです。
戦国時代における軍隊の基本的な構成は、「総大将」の下に大名・家臣が配置され、さらに彼らの支配下に実働部隊が配置されるというものでした。すなわち、総大将の下に、部隊を有する大名・家臣が配置される「連合軍」のような組織だったのです。
また、大規模化する戦において総大将がすべての局面で指示を行なうことは困難であったため、局面ごとの細かな指揮は、部隊ごとに行なわざるを得ませんでした。
もっとも、同じ総大将の下で戦っていても、部隊同士に横のつながりがあったわけではないため、総大将には、部隊の連携管理と自身の命令に従わせる統率力が求められたのです。
実働部隊には、概ね足軽大将と呼ばれる足軽内のリーダー的存在のもとに、「槍」、「弓」、「鉄砲」を持つ足軽達が集いました。戦国時代においては、この3種が基本的な武器ですが、一般的な戦国の戦では、槍を手にした兵士が圧倒的に多かったと言われています。