鎌倉時代
元寇①
鎌倉時代
元寇①

文字サイズ

1266年(文永3年)、日本に元(旧モンゴル帝国)から届いた「手紙」。これは、のちに2度の「元寇」(蒙古襲来)を勃発させる手紙です。元寇は簡単に言うと「文永の役」と「弘安の役」の2度、日本にモンゴルが攻めてきたということです。しかし、その詳細は教科書には書かれていません。そこで、教科書では知り得なかった元寇を歴史書や届いた手紙から読み解きます。

元から届いた1通の国書の内容とは?

元

1266年(文永3年)、元から1通の「国書」(手紙)が届きました。モンゴルの歴史書「元史」には、その手紙の内容が残されています。

「こいねがわくは今後両国が友好関係を結び、互いに親睦を深めたい。通じ合わないで、どうして一家と呼べるだろうか」と始まり、「不宣」という言葉で締めくられた短い文です。

日本に国書を出したのは、モンゴル帝国第5代皇帝フビライ・ハン(クビライ・カアン)。モンゴル帝国がフビライ・ハン政権のもと本格的に動き、国号を「元」とした矢先のことでした。この文書から分かるように、元から日本へ友好関係を呼びかけています。

ちなみに、「不宣」は元が使用していた対等な相手にのみ使う言葉。しかし、日本は歩み寄ってきた元の幾度にも亘る国書を、ことごとく無視しました。

当時は怖いもの無し!強すぎた「モンゴル帝国」と「元」・「大元」

かつてのモンゴルはとてつもなく大きな力を持った帝国。ミャンマー・北朝鮮・トルコなど地球上の面積の30%近くを統治していた大帝国です。ユーラシア大陸のほぼ全域はモンゴル帝国の領地でした。強さの基礎を創ったのはフビライ・ハンの祖父にあたる人物「チンギス・ハン」です。

モンゴル帝国の強さの秘密は、その戦略にありました。領土となった国やその国の財産を一族で均等に分配。領地となった国の分だけ、経済的にモンゴル帝国は潤うことになります。

さらに領地となった国の人たちを上手に働かせました。働いた人たちは、その働きの分だけお金がもらえます。領地となった国の中には、争わずに貢ぎ物をして、モンゴル帝国の仲間に加わった国も。このようにモンゴル帝国は、富と人を増やしながら、成長したのです。のちにフビライ・ハンが国号を「モンゴル帝国」から「元」・「大元」とします。

なぜ元は日本と友好関係を結びたかったのか?

なぜ元は日本を侵略ではなく、国交を結ぼうとしたのでしょうか?そこには当時の大陸情勢が大きくかかわっていました。

当時ユーラシア大陸を広い範囲で領土としていた元。しかし、中国南部にあった「南宋」だけは思うようにいきません。

「海のシルクロード」と呼ばれていた程貿易が盛んに行なわれていた国で、どうしても欲しい国でした。

しかし、南宋には名将がいたり、歩兵・騎兵・水軍が強かったりと苦戦していました。日本が海を渡った南宋の隣にあったので、南宋を攻めるための協力国にしようと考えたのです。このような流れで、フビライ・ハンは日本へ国書を出しました。しかし、5度に亘り国書を日本に送りましたが、ことごとく日本は無視。これには深い理由がありました。

日本が5度の国書を無視した理由

日本が国書を無視した理由、それはある国とのつながりにありました。実は、鎌倉幕府は南宋から招いた外交政策相談役とつながっていたのです。これを外交政策で唯一の情報源としていたため、元との国交は邪魔でした。当時南宋の僧侶だった「大休正念」(だいきゅうしょうねん)の言葉が残されています。

「巨大な敵を打ち払い、国家の安定をはかれ」

このような言葉で時宗に元の脅威を訴えたのです。これが5度に亘り国書を無視した理由です。1268年(文永5年)3月、鎌倉幕府執権に「北条時宗」が就任したのち、日本全国に下記の文書を送ります。

「蒙古人がよこしまな考えを起こして日本を狙っている。すべての御家人たちに用心するように伝えよ」

しかし、執権であった時宗は、国書が送られてきたときから、元には敵対姿勢を見せます。その後、最後の国書として、「これまで何度も国書を出したが、その返事がいまだに返ってきていない。このままぐずぐずしていると、我々は兵を用意せざるをえない」という内容を送ってきましたが、これも無視します。

権力のお披露目!?元寇の1回目「文永の役」

元寇

元寇

とうとうしびれを切らしたフビライ・ハン。1274年(文永11年)10月、ついに日本出兵を命令します。元は支配下であった高麗で900隻の軍艦を建造し、2万数千の兵力を投入。そして元の艦隊が博多に出現。博多の海岸には時宗の集めた武士団が来襲に備えていました。その数はおよそ3,000人。これが、「文永の役」の始まりです。

日本の武士達は次々に討ち死にしました。日本にはまだ鉄砲などない時代、元の武器は大音響の鳴る鉄砲など。博多は一瞬にして元に制圧されました。あっという間に日本軍の陣地は乗っ取られました。しかし、博多を占領したにもかかわらず、翌日に元は撤退。なぜ、元軍は勝てたのに撤退したのでしょうか?

元史には、このように書かれています。

「元の軍勢は矢が尽きたため、あちこちで略奪しただけで撤退した」

元軍は初めから、日本を占領する気はありませんでした。この戦いの目的は、「権力のお披露目」。元は、自分の国がどれだけ強いかを見せ付けるためだけに、日本を攻撃したのです。

その証拠に、文永の役ののち、フビライ・ハンは日本に再び国交を結ぶため使節を派遣しています。

日本を再び襲撃!「弘安の役」はなぜ起こったのか?

次に、「弘安の役」がなぜ起こったのか?

これを簡単に説明すると、「国交を結ぶため送った元の使節5人が日本で処刑されたから」です。これにより元は激怒。「もう仲良くする必要はない」となってしまいました。さらに、南宋もついに元の手に落ち(崖山の戦い)、次なる狙いは日本です。元が狙うのは貿易都市・博多。

1281年(弘安4年)、ついに元が日本(博多)への総攻撃を命令しました。目的は日本を侵略すること。これが「弘安の役」の始まりです。元軍の兵力は文永の役の約5倍。一方、元の総攻撃に日本も負けてはいません。文永の役で元に学んだ戦略を活かし、博多港に巨大な防塁を築きます。文永の役の反省点として戦術も見直されました。これに元軍は苦戦し、さらには食糧も尽きてきました。

援軍が到着したのは1281年(弘安4年)7月末。日本は台風の多い時期で、この台風が船の上にいた元軍に直撃します。これにより14万以上いた兵力は7万まで激減。元軍は撤退を余儀なくされました。このできごとは日本で「神風」と呼ばれています。

そののち、元史によるとフビライ・ハンは3度目の遠征を計画し、1291年(正応4年)に日本へ使者を送っています。しかし、その3年後にフビライ・ハンが死去。日本遠征は見送られました。

まさに、教科書よりも奇なり。元と日本の思惑が交差して起こった元寇。もしこのとき日本が元と友好な関係を築いていたら、世界はもっと狭かったかもしれません。

元寇①

元寇①をSNSでシェアする

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

「鎌倉時代」の記事を読む


源平合戦③

源平合戦③
「壇ノ浦の戦い」での平家滅亡後、源氏は天下を取りますが、これでめでたし、という訳にはいきませんでした。実戦で活躍した源義経と、権力者である兄・頼朝の間に確執が生まれ、それは奥州藤原氏を巻き込んで、大きな歴史の流れを作っていくのです。

源平合戦③

承久の乱

承久の乱
「鎌倉幕府」の成立は、日本初の本格的武家政権の誕生を意味していました。これにより、天皇を中心とした政治は、事実上終焉。朝廷の影響力は低下していきます。朝廷にとって特に大きなダメージとなったのは、全国にあった「荘園」からの租税収入の激減。そのような状況の中「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)は、全国各地の武士に対して幕府の実質的トップだった執権「北条義時」(ほうじょうよしとき)追討の「院宣」(いんぜん:上皇の意思を示す文書)を発し、鎌倉幕府打倒を目論んだのです。

承久の乱

元寇②

元寇②
かつてのモンゴルは、とてつもなく大きな力を持っていました。地球上の面積の30%近くを統治していた大帝国です。このような巨大帝国からすると日本は小さな国、しかし鎌倉時代に2度も元(モンゴル)は日本に攻めてきました。このできごとはのちに「元寇」(蒙古襲来)と呼ばれます。このときに「神風」(かみかぜ:暴風雨)により日本は助かったなどと言われていますが、実はそうではありません。鎌倉幕府の戦法が見事であったため、日本は元に侵略されずに済んだのです。さて、鎌倉幕府の戦法とはどのようなものだったのでしょうか?

元寇②

注目ワード

ページトップへ戻る