合戦の準備

合戦の兵器 ~旗印・馬標・采配・軍配~

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戦国時代には武具、防具、兵器以外にも、様々な道具が合戦場に導入されていました。敵・味方の区別をするための「旗」や、指揮官が自軍を動かすために用いる「采配」や「軍配」など。
武将達の生命・身体を守った「当世具足」と同様に、合戦場では、意匠を凝らした道具によって、彼らの思想・世界観を映し出していたのです。
ここでは、合戦場をにぎわせた主な道具についてご紹介します。

合戦旗指物・幟写真/画像
武将や戦国時代にまつわる芸術品「旗指物」を解説や写真でご覧頂けます。
書画・美術品写真/画像
武将や偉人の掛け軸、装飾が印象的な合戦武具などをご紹介します。

軍隊の象徴でもある軍旗は、「旗印」、「馬標」、「旗指物」という3つに大別することが可能です。

日本の戦(いくさ)において、軍旗が導入されたのは源平合戦の時代。敵・味方を区別するため、源氏は白、平家は赤の旗を用いたと言われています。上記した3種類の旗については、形状や使用方法などは異なりますが、主な目的は同じでした。

それが混乱の最中にある戦場における目印の役割。敵・味方の区別はもちろん、自軍の総大将がどこに陣を張っているのかについても、馬標によって判断することができました。

旗印

上杉謙信の旗印

上杉謙信の旗印

旗印は、武将達が戦場で立てた旗です。

武将によって形状や文字、模様などに特徴があり、戦場には家紋の他、武将自身の思想・世界観を反映した言葉などが染め抜かれた旗がはためいていました。

なかでも「毘沙門天」(びしゃもんてん)の頭文字である「毘」を一文字をあしらった上杉謙信や、「風林火山」の武田信玄の旗印が特に有名です。

旗印の目的は、第一に敵・味方の区別。そのため、大将から足軽に至るまで、同じ意匠のものが用いられました。

また、人目を引く意匠によって、敵を威嚇したり、武将が自らの功績をアピールしたりする役割もあったと言われています。

旗印には、平安時代から用いられていたと言われる上部のみを固定する「流れ旗」や、上部に加えて横も固定した「幟旗」(のぼりばた)などの種類がありました。

馬標

馬標は、旗印と同様に戦場で自身の居場所を明確にするために立てられた目印です。戦国時代の中ごろから、旗印よりも「遠くから見ても分かりやすい」という理由で出現。軍旗以上に意匠を凝らした馬標が制作されました。

それは「戦国三英傑」も例外ではありません。「織田信長」の「金の唐傘」や、「豊臣秀吉」の「金の軍配と朱の吹流し」(大馬標)や「逆さ瓢箪と金の切裂」(小馬標)、「徳川家康」の「金扇」(大馬標)や「金のふくべと切裂」(小馬標)などが用いられました。

これらの黄金に輝く馬標の存在は、敵に対して十分すぎるほどの威圧感を与えていたのです。

馬標は、総大将が着陣した場所に立てられていました。そのため、これが倒れることは、総大将に敵の攻撃が及んだことを示す一大事です。

馬標が2度倒れたことで知られているのが徳川家康。1572年(元亀3年)の「三方ヶ原の戦い」では武田信玄の前に、1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」においては「真田信繁(幸村)」の猛攻の前に馬標がなぎ倒され、命からがら戦場を脱出したと言われています。

三英傑の馬標

三英傑の馬標

旗指物

旗指物と言えば、広義には柄の付いた旗を指します。そのため、前述した旗印も旗指物に含まれることになりますが、狭義では当世具足の背中などに挿した旗のこと。

ここでは、狭義の旗指物について扱います。

万単位の大軍による大規模な集団戦において、圧倒的な数を誇っていたのが、足軽に代表される歩兵でした。戦国時代において、彼らの働きが戦の勝敗に直結すると言っても過言ではありません。こうした状況で、最も避けなければならないのが同士討ちです。

そのために考案されたのが、当世具足の背中や腰に自軍の目印を備え付けることでした。

ちなみに、戦場において何らかの理由で旗指物が抜け落ちた場合には、「合言葉」によって敵味の区別をしたと言われています。

采配

采配」は、合戦において大将格の武将が持ち、振ったり掲げたりすることで、作戦の合図や目印として用いられました。

一般的に紙を細く切ったり、獣毛を柄に付けたりして制作。16世紀ころから使用されていたと言われています。采配に類似した道具として存在していたのが「鞭」(むち)。

棒状の鞭は、自軍の進退を指揮する際などに使用されました。

軍配

軍配」は、合戦において自軍の配置や進退を支持するために用いられました。

「軍配団扇」(ぐんばいうちわ)や「団扇」(だんせん)とも呼ばれています。1561年(永禄4年)の「第4次川中島の戦い」で、武田信玄が上杉謙信の刀剣による攻撃を軍配で受け止めたという逸話は有名です。

材質は革、木、鉄などで、形状は円や瓢箪(ひょうたん)が一般的。黒や朱の漆塗りの上に、家紋や梵字(ぼんじ:サンスクリットを表記する文字)が施されました。

軍配は指揮を執るためだけでなく、吉兆を占う際にも使用されたと言われています。

武田軍の本陣に突入した上杉謙信によって、馬上から一太刀浴びせられた武田信玄は、咄嗟に白刃を軍配で受け止めました。2人による一騎打ちは、戦国時代を象徴する一場面として現代まで語り継がれています。

「武田信玄」と「上杉謙信」の対決「川中島の戦い」

武将イラスト・合戦イラスト集武将イラスト・合戦イラスト集
武将イラスト・合戦イラスト集では、戦国時代に活躍した武将達を中心に、今にも動き出しそうなリアルタッチで描いたイラストを掲載しています。

陣鐘、陣太鼓、法螺貝、狼煙

狼煙

狼煙

「陣鐘」(じんがね)や「陣太鼓」(じんだいこ)、「法螺貝」(ほらがい)、「狼煙」(のろし)は、本陣から離れて配置されている部隊への合図や命令の伝達に用いられました。

戦国時代における、最速の伝達手段は狼煙だったと言われています。狼煙の上げ方については、戦国大名ごとに独自の決まりがありました。

例えば、武田氏は数キロごとに狼煙台を設置。リレー方式で迅速な情報伝達を行なうことによって、戦の主導権を握っていたのです。

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