戦国の世の合戦

戦国三英傑の天下統一

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歴史上には様々な戦いがありますが、中でも頻繁に発生していたのは戦国時代です。この時代には全国で多くの武将が、領土拡大を目指して戦いを繰り広げていました。彼らの勢力図は刻々と変化しましたが、最終的に大きな勝利を収め、日本史に決定的な足跡を残したのが「三英傑」として有名な「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」の3人です。ここでは、戦国時代に起こった主要な合戦の概要や戦略、それらが後世にもたらした影響などについてご紹介します。

戦国時代の幕開け・応仁の乱

足利義政

足利義政

戦国時代が到来したきっかけは、室町幕府の力が低下し、全国の戦国大名が守護大名に取って代わったことでした。

その引き金となったのが1467年(応仁元年)から11年に亘って京の都で繰り広げられた内乱「応仁の乱」です。

この背景には、室町幕府8代将軍「足利義政」(あしかがよしまさ)の後継者争い、管領家の畠山氏(はたけやまし)と斯波氏(しばし)の家督争い。

さらには「細川勝元」(ほそかわかつもと)と「山名宗全」(やまなそうぜん)らの守護大名による権力闘争などが複雑に絡み合っていました。幕府の力が弱まっていたことが、混乱に拍車をかけたのです。

応仁の乱の経緯

将軍・足利義政は畠山氏の家督争いについて、嫡流「義就」(よしひろ)による家督相続を命じました。ところが途中で庶流「政長」(まさなが)に権利を渡したため、義就と政長は対立。将軍家でも足利義政の嫡子「義尚」(よしひさ)派と足利義政の弟「義視」(よしみ)派が分裂しており、ここに山名宗全と細川勝元が各々加わったことで騒動が拡大したのです。

この戦いでは、畠山義就・足利義尚・山名宗全の「西軍」と、畠山政長・細川勝元・足利義視の「東軍」に分かれ、それぞれに守護が加勢しました。

応仁の乱における対立関係
西軍 (8代将軍・足利義政) 東軍
日野富子
(足利義政の正室)
将軍の後継者争い 足利義視
(足利義政の弟
のちに西軍へ)
足利義尚
(足利義政と
日野富子の子)
大将:山名宗全 幕府における主導権争い 大将:細川勝元
畠山義就 管領家の後継者争い 畠山政長
斯波義廉 管領家の後継者争い 斯波義敏

応仁の乱が与えた影響

11年もの長きに亘る戦いは、両軍の大将格だった山名宗全と細川勝元が病死したことに加え、将軍家のお家騒動も、足利義政が足利義尚に将軍職を譲って隠居したことで収束します。

もっとも、幕府の権威は完全に失墜。全国で下剋上が頻発することになったのです。荒野同然となった京の姿は、戦国乱世の始まりを象徴していました。

桶狭間の戦いの概要

今川義元

今川義元

駿河・遠江・三河・尾張の一部まで領土を拡大していた「今川義元」は、甲斐の「武田信玄」や相模の「北条氏康」とも同盟を結ぶ有力武将でした。

今川義元は織田信長の父・織田信秀が亡くなると、約25,000という大軍で尾張に侵攻しましたが、織田信長は3,000ほどの軍勢で今川義元軍を倒します。

織田信長の名を知らしめた戦い

群雄割拠の時代、天下統一という野望に向けていち早く駒を進めたのが織田信長でした。彼の名を世に知らしめたのが、1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」。当時、「海道一の弓取り」(東海道最強の武将)と謳われていた今川義元の大軍勢を打ち破った織田信長は、尾張の小大名から一躍、日本屈指の戦国武将となりました。

織田信長が仕掛けた奇襲

織田信長

織田信長

この戦いでは、今川義元本隊が尾張国桶狭間で休息を取る間に、織田信長が迂回(うかい)して奇襲したという逸話が有名です。ただし「信長公記」には、砦から敵の行軍方向を確認し、豪雨で視界が悪い間に正面攻撃したとの記載があります。

この奇襲は、敵の位置を正確に把握していたため成功したと言われており、これを可能にしたのが「梁田政綱」(やなだまさつな)による諜報活動でした。

梁田政綱は、今川軍約2万5,000のうち今川義元本隊は約5,000であり、別行動をしていること、進軍の様子から、今川軍が桶狭間で昼食休憩を取ることが予想されること、今川義元は馬ではなく輿に乗っていることを報告。これを受けた織田信長が出した指示は、「昼頃に、桶狭間で輿のある所を攻撃せよ!」でした。

こうして織田信長は、約10倍という兵力の差をものともせず、今川義元を討ち取ることができたのです。

桶狭間の戦いが及ぼした影響

桶狭間の戦いで今川軍の駿河・遠江の有力武将が多く討たれたため、織田信長は勢力を拡大し尾張全体を掌握します。その他、北条家や武田家と敵対していた越後国・上杉謙信も勢力を拡大し、これがのちに海津城や妻女山を中心とする「川中島の戦い」につながっていきます。

この戦(いくさ)に今川方として参戦していた徳川家康は、織田家と同盟を締結。自身のルーツ・松平氏が有していた領土の回復に着手しました。

織田・徳川連合軍 VS 浅井軍

浅井長政

浅井長政

桶狭間の戦いで今川義元に勝利した織田信長は、上洛を目的として近江国へと侵攻します。

織田信長は、妹(お市の方)の夫である北近江の「浅井長政」(あざいながまさ)と共に南近江を攻撃したのち、「足利義昭」(あしかがよしあき)を奉じて上洛を実現。

しかし、ここで予想外の出来事が起こるのです。

姉川の戦いが起こった背景

足利義昭は、暗殺された実兄の将軍職を継ぐために上洛しようとしていましたが、道中の援護を頼んだ越前・朝倉義景から良い返事がなかったため、織田信長を頼りました。こうして足利義昭は上洛を果たし、室町幕府第15代将軍の座に就きます。

その後、織田信長は朝倉義景に上洛を促しましたが、拒否されたため朝倉家の治める越前国を攻撃しました。しかしこのとき、浅井長政が裏切り、背後から攻めてきたのです。予想外の出来事にいったん退却した織田軍でしたが、数ヵ月後には織田信長・徳川家康連合軍による報復が始まりました。これが1570年(元亀元年)に起こった「姉川の戦い」です。

姉川の戦いの経緯と戦略

朝倉家との約束か、妻の兄とのつながりか。織田信長の越前攻めにより、浅井長政は苦しい選択を迫られます。浅井長政が導き出した答えは朝倉との共闘。これにより、織田信長は浅井・朝倉連合軍に挟み撃ちにされ、絶体絶命の状況に陥りました。豊臣秀吉ら重臣の活躍(金ヶ崎の戦い)によって難を逃れた織田信長は、数ヵ月後に報復に出たのです。

織田信長軍は、「横山城」(よこやまじょう)を包囲し、浅井軍をおびき出します。姉川を隔てた平地での戦いは両軍が真正面からぶつかり合う形となりました。兵力は織田・徳川軍の約25,000に対し、浅井軍・朝倉軍は約14,000。兵力に劣る浅井・朝倉軍は、織田信長を驚かせるほどの奮闘を見せましたが、衆寡(しゅうか)敵せず。勝利は織田信長のものとなりました。

姉川の戦いがもたらしたもの

この戦いにより、浅井家の中心的な人物はほぼ戦死。横山城は豊臣秀吉の手に渡りました。浅井・朝倉連合軍は、比叡山の僧侶や石山本願寺の門徒と手を結び、織田信長との戦いを繰り広げたと言われています。そのため織田信長は、比叡山を焼き討ちにし、反対勢力を一掃しました。

その後、浅井氏と朝倉氏は、「本願寺顕如」や武田信玄らと「織田信長包囲網」を形成していくこととなります。

織田・徳川連合軍 VS 武田軍

武田信玄

武田信玄

織田信長と共に上洛して将軍となった足利義昭ですが、その後、織田信長との関係が険悪化。そして、反織田信長勢力の招集を始めました。

この呼びかけに応じた武田信玄は、織田信長と同盟を組む徳川家康の領土・三河に侵攻。これにより、武田信玄は織田家と対立することとなります。

長篠の戦いの概要

この頃の武田信玄は、甲斐や信濃以外に駿府・遠江・三河に侵攻するほど勢力を伸ばしていました。しかし、武田信玄は三河への侵攻途中で急死。織田信長はこの隙に将軍・足利義昭を京都から追放し、大きな権力を握ります。

また、徳川家康も武田氏の手に落ちた三河・遠江の奪還に動きました。武田信玄の遺志を継いだ「武田勝頼」は、徳川家康に対抗すべく三河に侵攻。その翌月には「長篠城」を包囲します。

こうして1575年(天正3年)、三河国で武田軍と織田・徳川連合軍による「長篠の戦い」が始まったのです。

長篠の戦いの経緯

長篠の戦い

長篠の戦い

勝頼は「遠江国」(現在の静岡県浜松市)の「高天神城」(たかてんじんじょう)を陥落させ、その勢いのまま城を包囲しました。

しかし、大量に押し寄せた織田信長と徳川家康の援軍の前に大敗してしまいます。このとき織田信長は、武田軍の騎馬隊対策として、馬防柵(ばぼうさく)を設け、約3,000丁の鉄砲を持つ部隊で攻撃。戦国最強とも謳われた武田軍(騎馬隊)を打ち破ったと言われています。

長篠の戦いが及ぼした影響

この戦いに勝利した織田信長は、さらに力を増し、天下人に最も近い人物として君臨。また、徳川家康は三河を掌握し、遠江を攻略するなど勢力を拡大していきました。

長篠の戦いから7年後、織田信長は武田征伐に乗り出し、武田領の「高遠城」を攻略。その後、武田勝頼が自害したことによって、武田家は滅亡します。難敵・武田を倒したことを受け、織田信長は家臣を全国に派遣。天下統一路線が本格的にスタートしたのです。

豊臣秀吉 VS 明智光秀

明智光秀

明智光秀

天下人まであと一歩に迫った織田信長でしたが、「本能寺の変」で家臣「明智光秀」に急襲され、この世を去りました。

下剋上を果たし、織田信長に代わって天下人への道を進んで行くかに思われた明智光秀でしたが、「天下分け目の天王山」で豊臣秀吉に敗退します。

こうして織田信長によって始められた天下統一路線は、豊臣秀吉に引き継がれる流れができたのです。

山崎の戦いの概要

本能寺の変が発生した当時、豊臣秀吉は「備中高松城」を水攻め中でしたが、織田信長の死を知ると、毛利軍と和睦を図り、明智光秀討伐のため「山城国」へと進軍することを決断。「摂津国」と山城国の境に位置する山崎の地で豊臣秀吉と明智光秀は相まみえます。

これが1582年(天正10年)に起こった「山崎の戦い」です。この戦いに敗れた明智光秀は、敗走中、小栗栖で土民の落ち武者狩りに遭い、死亡しました。

山崎の戦いの経緯

中国大返し

中国大返し

織田信長の死を知った豊臣秀吉は、腹心「黒田官兵衛」から明智光秀討伐による天下獲得を提案され、約200kmの道のりをわずか10日で踏破し、明智光秀を討ちました。これが世に言う「中国大返し」です。この大移動は驚異的な早さで行なわれたため、明智光秀は周辺の武将への根回しなどの準備が整わないまま、戦に臨まざるを得なかったと言われています。

こうして開戦した山崎の戦いは、開戦当初こそ一進一退でしたが、豊臣秀吉軍による側面からの攻撃によって、明智光秀軍は総崩れとなり敗走。約3時間の戦いに終止符が打たれました。

戦国の世を生き抜いた武将の合戦戦略について解説します。

山崎の戦いの影響と武将の動き

豊臣秀吉は明智光秀を追跡すると共に、明智光秀の息子・光慶(みつよし)を自刃させ、明智氏を滅亡させます。その後、近江を平定。

このとき、上杉対策のため越中・魚津にいた織田家の重臣「柴田勝家」(しばたかついえ)は、豊臣秀吉とは対照的に、本能寺の変勃発の知らせを聞いた時点では、明智光秀の正確な所在までは把握していなかったと言われています。情報入手の段階で遅れを取っていた柴田勝家は、京に向かう途中で合戦の知らせを聞くと、「清洲城」へと向かいました。

他方、徳川家康は、6月2日に本能寺の変の一報を聞くと、翌3日の「伊賀越え」を経て4日には本拠地であった「岡崎城」に帰還します。その後、徳川家康も明智光秀攻めのため「熱田神宮」まで進軍しましたが、間に合いませんでした。

豊臣秀吉は、独自の情報網を持っていたことに加え、「決断力」と「行動力」をかね備えていたことで、「逆賊」明智光秀を討ち、世間へのアピールに成功。織田信長の「後継者」の座を手繰り寄せたと言えるのです。

織田家を二分した合戦

柴田勝家

柴田勝家

織田信長の後継者として、世間へのアピールに成功した豊臣秀吉ですが、織田家の後継者問題をめぐって柴田勝家と対立します。

契機となったのは、織田家の後継者を決めるために開かれた「清洲会議」(きよすかいぎ)でした。2人の対立が表面化したことで、織田家の勢力は二分され、戦へと発展。

1583年(天正11年)、「近江国」(おうみのくに:現在の滋賀県)で「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)が勃発しました。

清洲会議とは

織田家当主・織田信長の死去を受け、1582年(天正10年)、清洲城で清洲会議が開かれました。会議には豊臣秀吉、柴田勝家の他、「丹羽長秀」(にわながひで)、「池田恒興」(いけだつねおき)の4人が出席。

柴田勝家には、重臣4人が話し合うことで、織田信長の後継者をアピールした豊臣秀吉の台頭を抑えると共に、正統な後継者を決めたいという狙いがあったと言われています。もっとも、主導権を握ったのは豊臣秀吉で、主君の仇を討った武功(山崎の戦い)に加え、わずか3歳だった織田信長の嫡孫(ちゃくそん:嫡子の嫡子)「三法師丸」(さんぽうしまる:のちの織田秀信)を手なずけ、織田家の後継者とすることに成功。その後見人となることで、実質的に「織田信長の後継者」となったのです。また、この会議では領地の再配分も行なわれました。

賤ヶ岳の戦いの背景と経緯

織田家の後継者として織田信長の3男・織田信孝(のぶたか)を推していた柴田勝家は、後継者問題に加えて、豊臣秀吉による誓約違反や不当な領地再配分などもあり、対立を深めていきました。

豊臣秀吉はまず「長浜城」、「岐阜城」攻めを決行。織田信孝らを降伏させたことで、先手を取りました。その後、柴田勝家軍約30,000、豊臣秀吉軍約50,000が木ノ本に布陣し、激戦となります。その戦いの最中、「前田利家」(まえだとしいえ)が戦線を離脱。これにより後方の守りが崩れた上、兵の士気も低下しました。そこに、「佐久間盛政」軍を撃破した豊臣秀吉軍が猛攻を仕掛け、柴田勝家は退却を余儀なくされます。最終的に、柴田勝家は越前「北ノ庄城」内で妻「お市の方」と共に自害し、戦いは終結しました。

賤ヶ岳の七本槍

豊臣秀吉軍で戦功を挙げたのが「脇坂安治」(わきざかやすはる)、「片桐且元」(かたぎりかつもと)、「平野長泰」(ひらのながやす)、「福島正則」(ふくしままさのり)、「加藤清正」(かとうきよまさ)、「糟屋武則」(かすやたけのり)、「加藤嘉明」(かとうよしあきら)。この7人が、いわゆる「賤ヶ岳の七本槍」です。

彼らは豊臣政権で大きな力を持つようになりましたが、今日の研究では、戦功より政治的手腕が認められていたという見方もあります。

賤ヶ岳の戦いがもたらした影響

合戦終了後、織田氏の旧臣の多くは豊臣秀吉に従うようになりました。豊臣秀吉のもとには、徳川家康、「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)、「大友義統」(おおともよしむね)といった有力大名らの使者が次々と参上し、勝利を祝ったと言われています。

その後、豊臣秀吉は朝廷から従四位下参議に任命され、石山本願寺跡に「大坂城」を築きました。

豊臣秀吉VS徳川家康の戦い

柴田勝家に勝利した豊臣秀吉ですが、今度は織田信長の次男・織田信雄(のぶかつ)と対立します。織田信雄には徳川家康が加勢。こうして1584年(天正12年)に勃発した「小牧・長久手の戦い」(こまき・ながくてのたたかい)は、尾張・美濃中心として、広範囲に飛び火しました。

小牧・長久手の戦いに至った背景

織田信雄

織田信雄

賤ヶ岳の戦いでは豊臣秀吉側についた織田信雄でしたが、豊臣秀吉によって「安土城」から退去させられたことをきっかけに、関係が悪化。

豊臣秀吉は織田信雄の家臣である「津川義冬」、「岡田重孝」、「浅井長時」の三家老を味方に付けようとしますが、織田信雄はこの3人を処刑し、徳川家康に援護を求めます。これに怒った豊臣秀吉は織田信雄に対して挙兵。徳川家康は主家・織田氏のためという大義名分のもと、約15,000の兵を率いて参戦しました。

羽柴軍 VS 織田・徳川軍!戦いの経過

3月に約30,000の兵を率いた豊臣秀吉は、小牧山を北東から包囲して布陣。楽田に本陣を構えました。織田信雄・徳川家康連合軍は小牧山から東に砦を築き、小牧山に本陣を構えます。

4月6日夜、豊臣秀吉は約20,000の兵力を4つの隊に分け、池田恒興、「森長可」(もりながよし)、「堀秀政」(ほりひでまさ)、「三好秀次」(みよしひでつぐ)を隊長として長久手方面へ進撃。これを知った徳川家康は、池田恒興・森長可両軍と対決します。

豊臣秀吉と徳川家康のたった一度の「直接対決」は、池田恒興・森長可の死によって、徳川家康に軍配が上がりました。もっとも、その後は豊臣秀吉が政治手腕を発揮し、11月に織田信雄との間で講和を締結。これにより、織田家のためという大義名分を失った徳川家康は撤収を余儀なくされ、豊臣秀吉と和解しました。

合戦の政治的意味合い

豊臣秀吉の度重なる上洛要請に対し、徳川家康が重い腰を上げたのは、和解から2年後。上洛し、豊臣秀吉と対面した徳川家康は恭順の意を示しましたが、豊臣秀吉と対立関係にあった北条氏との同盟関係は継続します。このように、豊臣秀吉と徳川家康の主従関係は、微妙なバランスの上に成立していたと言えるのです。

天下分け目の合戦/関ヶ原の戦い

東国と東北を平定し、天下統一を果たした豊臣秀吉でしたが、「朝鮮出兵」の途中でこの世を去ります。その後、豊臣家では内部分裂が発生。

1600年(慶長5年)、日本史上最大の決戦とも言われる「関ヶ原の戦い」が、「美濃国」(みののくに:現在の岐阜県)で勃発しました。

東海道五十三次浮世絵合戦の街 関ヶ原
「関ヶ原の戦い」の経緯や結末、関ヶ原の現在についてご紹介します。

関ヶ原の戦いが勃発するまでの経緯

石田三成と徳川家康の対立

石田三成と徳川家康の対立

豊臣秀吉の死後の豊臣政権では、「五大老」と「五奉行」による統治が行なわれました。

五大老の筆頭格だった徳川家康と五奉行のひとり「石田三成」(いしだみつなり)は対立しており、五奉行の長老で仲介役だった前田利家が亡くなると、確執は激化。徳川家康は自分に反発する「加賀国」(かがのくに:現在の石川県)前田氏、「会津国」(あいづのくに:現在の福島県)上杉氏の討伐に乗り出します。

石田三成らは、「内府ちかひの条々」で徳川家康の罪状を13条にわたって糾弾。これを機に、両者の緊張関係は一気に高まったのです。

東軍と西軍それぞれの武将達

西軍の武将達

西軍の武将達

石田三成が属する「西軍」には、五大老の「毛利輝元」、「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)、上杉景勝などがいました。徳川家康の「東軍」には反石田三成派の武断派武将らをはじめとし、各地の有力武将らが加勢。

水面下では両軍による調略合戦が繰り広げられましたが、徳川家康が1枚も2枚も上でした。徳川家康の根回しによって、西軍では武将らの寝返りが続出。いざ戦いが始まると東軍が形勢有利となりました。

参戦した主な武将
西軍 東軍
石田三成、毛利輝元
宇喜多秀家、上杉景勝
大谷吉継、長宗我部盛親
佐竹義宣、真田昌幸、島津義弘
吉川広家★、小早川秀秋
小川祐忠★、脇坂安治★
赤座直保★、朽木元綱★ 他
(★印は東軍に寝返った武将)
徳川家康、徳川秀忠
結城秀康、黒田長政
井伊直政、本多忠勝
前田利長、伊達政宗
最上義光、加藤清正
福島正則、生駒一正
山内一豊、細川忠興
池田輝政藤堂高虎

関ヶ原の戦いの経過

石田三成は、徳川方の部隊がいる「伏見城」を攻撃して、徳川重臣「鳥居元忠」を戦死させました。徳川家康は上杉軍への攻撃を「出羽国」と「陸奥国」の最上氏・伊達氏に依頼し、自身は東海道から西に向かいます。

この戦いについては、後世において、関ヶ原での布陣だけを見た軍事専門家が西軍の勝利を断言したほど、外見上は西軍が優位でした。しかし、結果は約6時間で東軍が勝利。西軍は内部分裂したり東軍に寝返ったりする者が多く、次第に東軍が優勢となり総崩れ。事実上の大将格・石田三成は、敗走を余儀なくされたのです。

関ヶ原の戦いがもたらした影響

敗戦後、石田三成は処刑され、西軍の武将らも処罰されました。

また、「豊臣秀頼」は65万石、摂津国をはじめとする3国に領地を削減されています。東軍に加勢した大名らと徳川家康の間に主従関係のない場合もありましたが、徳川家康が論功行賞や加増・改易の主導権を得たため、実質的に天下は徳川家康のものとなりました。

関ヶ原合戦祭り2019の紹介動画

関ヶ原合戦祭り2019

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豊臣家の滅亡に至る合戦

徳川家康は徳川家を頂点とした徳川幕府の体制作りに着手しましたが、主君筋にあたる豊臣家の存在は、徳川家康の構想実現に向けた不安の種でした。結局、両者の間でくすぶっていた火種が除去されることはなく、徳川幕府と豊臣家は、1614年(慶長19年)と1615年(慶長20年)の2度に亘って衝突します。

大坂の陣が起こったきっかけ

徳川家康が初代将軍となり、徳川幕府による統治が始まったあとも、依然として加藤清正や浅野幸長など豊臣家恩顧の大名がいました。そのため世間的には、徳川の天下はすぐ終わり、豊臣家に政権が戻るだろうと見る向きもあったのです。

そんな状況で、徳川家康は将軍職を子・徳川秀忠に譲り、今後も徳川家が政権を掌握することを世間に示しました。同時に豊臣秀頼に対して、江戸参勤や幕府への臣従などを要求。「淀殿」・豊臣秀頼母子らは、徳川家康との戦いを決意します。

大坂冬の陣の経過と結末

大坂城

大坂城

豊臣方は全国から約10万の浪人を集め、大坂城に籠城しました。幕府側は約30万の軍勢で大坂城を包囲しましたが、城の守りが堅固なためこう着状態に。徳川家康は講和を締結するよう仕向けます。その狙いは、大坂城の堀を埋めて防御力を低下させることでした。

堀の埋め立て自体については、講和の内容に盛り込まれていましたが、徳川家康は約束より多くの堀を埋めたと言われているのです。

大坂夏の陣の経過と結末

これに不審を抱いた豊臣方は、再戦に向けた準備を始めますが、これは徳川家康の思うつぼ。徳川家康は国替えや浪人追放などの無理難題を吹っかけることで追い討ちにしました。堀を埋められた大坂城は「裸城」となっていたため、冬の陣のような籠城作戦はできません。豊臣方に残されていた手段は、徳川本陣への突撃のみでした。

しかし、両軍間の戦力差はいかんともしがたく、最前線で戦っていた武将らは続々と討ち死に。その後、大坂城から火の手が上がり、豊臣秀頼らは自害しました。こうして、豊臣宗家は滅亡したのです。

大坂の陣にまつわる逸話

真田信繁/幸村

真田信繁/幸村

この戦いでは、「明石全登」(あかしたけのり)、「後藤基次」(ごとうもとつぐ)、「真田信繁/幸村」(さなだのぶしげ/ゆきむら)、「長宗我部盛親」(ちょうそかべもりちか)、「毛利勝永」(もうりかつなが)の豊臣方「五人衆」が活躍しました。

特に真田信繁/幸村は、大坂冬の陣において大坂城の南に「真田丸」を築き、徳川軍を苦しめることにも成功。また大坂夏の陣では、徳川家康本陣に猛攻を仕掛け、馬印を倒すなど、あと一歩まで徳川家康を追い詰めたことで知られています。その様子を見た「島津忠恒」が残したとされる「真田日本一の兵」(さなだひのもといちのつわもの)という言葉は、あまりに有名です。

まとめ

織田信長から始まった天下統一路線は、豊臣秀吉に受け継がれて結実。そして徳川家康が江戸幕府の基盤を築き上げたことによって完結しました。同時に、応仁の乱から続いた戦国時代も終焉(元和偃武[げんなえんぶ]:元和元年の大坂夏の陣以後、世の中が平和になったこと)を迎えます。

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人の戦いは、当時の世の中に多大な影響を及ぼしました。その裏にあった様々なドラマや胸を打つエピソードは、現代に至るまで語り継がれています。

戦国三英傑の天下統一

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