武具の基礎知識

火縄銃の普及と甲冑の変化

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戦国時代に伝来した火縄銃。火縄銃が合戦に与えた影響は大きく、それまでの騎馬戦主流であった戦闘様式を大きく変えました。火縄銃の登場により、中世(平安時代から鎌倉時代)から戦国時代でどのように合戦が変化したのかをご紹介します。

火縄銃・大筒写真火縄銃・大筒写真
生産地や流派によって様々な個性を持つ火縄銃・大筒をご覧頂けます。

中世(平安時代から鎌倉時代)の合戦

弓射騎兵と武器

平安時代から鎌倉時代にかけての合戦で主要な戦力となったのは、「弓射騎兵」(きゅうしゃきへい:弓矢を主武器とした騎兵)。

源平合戦に代表されるような中世の合戦は、弓射騎兵と「打物歩兵」(うちものほへい:日本刀類を主武器とした歩兵)から軍が構成されています。

「騎兵」と言えば、馬に乗った侍が日本刀を掲げて戦う様子を思い浮かべますが、日本における騎兵とは本来「弓射騎兵」を指しており、中世においてもその役割を務めたのは上級武士でした。

当時の代表的な日本刀と言えば太刀(たち)。太刀とは、刃が下を向いており、鞘に取り付けられた器具で左腰に吊り下げる形態の日本刀のこと。

太刀は、歩兵にとっては主要武器でしたが、騎兵や弓兵にとっては矢をすべて使い終わってから使う二次的な武器だったのです。

礼儀作法を重んじた中世の合戦

武士が台頭して政権を握った中世の戦場では、礼儀作法が重んじられていました。

開戦前、お互いの大将が前線へ出て相手方へ和睦か降伏か等を大声で話し合い、ここで交渉が決裂すると「矢合わせの鏑始め」(やあわせのかぶらはじめ)を行ないます。

鏑矢

鏑矢

これは、「鏑矢」(かぶらや:音が鳴る矢のこと)を用いて「矢合わせ」(敵方へ向けて互いに矢を放つこと)をすることで、開戦の合図として行なわれていました。

矢合わせのあとに行なわれるのが「一騎討ち」。

一騎討ちは、大将同士が相手方に向かって馬を走らせながら弓を射る騎射戦のこと。

相手の鎧の隙間を狙ってお互いに弓を射り、矢が尽きるなどして勝負がつかなくなった場合は、太刀を使用して相手を馬から落とそうとしますが、大抵の場合はこの時点で部下からの邪魔が入るため、他の兵士も混ざって乱戦に移るという手順を踏みます。

ちなみに、一騎討ちをしている間は、敵味方の区別なく、周囲の兵による手出しは厳禁でした。

しかし、下克上が常の戦国時代になると、格式ある作法などという悠長なことはしていられなくなり、大将を務める武将は本陣に身を置くようになります。

南北朝時代から戦国時代の合戦

弓射騎兵から打物(刀剣類)騎兵へ

南北朝時代に入り戦乱の混乱が始まると、弓射騎兵による一騎討ちは次第に廃れていきました。代わりに近接戦闘による徒歩戦や斬撃戦、または弓矢を使った遠距離戦が常態化。

騎兵も弓射騎兵から、弓矢を装備しない「打物騎兵」が主力となり、反対に弓は歩兵の武器として扱われるようになりました。

さらに、南北朝時代から砦としての山城攻略や野戦が増加。起伏の激しい地形が伴う城郭戦に騎兵は適しておらず、土木や工作などに従事し、小回りの効く歩兵がこの時代から重要な働きをするようになったのです。戦国時代に入ると、主力は完全に歩兵へ移行します。

戦国時代の合戦作法

中世の時代にあった合戦の作法は廃れたものの、戦国時代には新たな合戦の作法が設けられました。戦国時代の合戦は「鬨の声」(ときのこえ)、「矢合わせ」、「槍の突き合い」、「騎兵の突入」、「競り合い」の順番で行なわれています。

  1. 鬨の声

    両陣営の布陣が終わると、太鼓や法螺貝(ほらがい)を鳴らして兵の士気を上げ、鬨の声(「えい、えい、おう」と言ったかけ声のこと)を上げて合戦を開始。これが開戦の合図です。

  2. 矢合わせ

    鬨の声が終わると、鏑矢を放ちます。中世の時代は、大将同士の矢合わせであったことに対して、このときの矢合わせは歩兵である弓兵が一斉に射撃を行ないました。敵陣には、矢の雨が降ります。

    戦は最終的に乱戦に持ち込むことになるので、矢合わせでいかに敵兵を減らせるかが重要だったのです。矢合わせは、敵陣の戦闘力を削ぐためにある物で、火縄銃が普及すると矢の代わりに鉄砲が使われるようになります。

    ただし、火縄銃は装填に時間がかかるので、盾や弓と組み合わせた隊列を組むなどの工夫がされていました。

  3. 槍の突き合い

    矢合わせが終わると、次は前衛部隊の長槍兵が前に出て、槍の突き合いが始まります。

    槍は、戦国時代の代表的な武器。矢合わせの段階では、双方の距離は90~180m開いていましたが、槍の突き合いでは距離が縮まり、約20mまで迫ります。槍兵は、槍を突き出したり、叩いたりするなどして敵陣を崩しにかかりました。

  4. 騎馬隊の突入

    槍の突き合いの段階で槍兵の背後には騎馬隊が待機し、槍部隊が崩した敵陣のほころびから突入を開始。馬の機動力と圧迫感を利用して敵兵をさらに切り崩していくのです。

    騎馬隊の突入から、戦は乱戦の段階に移ります。

  5. 競り合い

    敵味方が入り乱れての乱戦が開始。ここでは、打刀や投石、打撃系の武器を使った近接戦闘が行なわれ、戦闘は総大将が討ち取られるか、陣営が瓦解して撤退するまで続けられます。

    なお、合戦時の兵の多くは雇われた農民から成る足軽であり、支給された武具や甲冑を身に付けて戦っていました。武士が出陣するのは、敵の軍勢が崩れた頃であり、開戦当初から武士同士が戦うことは稀だったのです。

    また、総大将は戦場に立たず、安全を確保した本陣等から命令を下していました。合戦によっては、総大将が不在のまま開戦することもあり、その場合は代役の家臣が総大将を務めます。

    戦の主力は、最も数が多い雇われの足軽でしたが、勝敗を決していたのは武士でした。

    武士は、武功を挙げるために積極的に敵陣に乗り込み、総大将の首を狙って奮闘することが何よりの名誉とされていたのです。

火縄銃の伝来による戦への影響

軍隊の大規模化

鉄砲隊

鉄砲隊

火縄銃の伝来は、軍隊の大規模化と陣形の集団化をもたらします。

日本刀や弓矢は、経験と熟練の技がなければ簡単に扱える物ではありませんでしたが、対照的に火縄銃は威力があるだけでなく、個人の物理的な力も必要とせず、使い方さえ覚えれば誰でも簡単に扱える武器。

そのため、戦の経験がない者でもすぐに戦闘に動員することが可能になったのです。

火縄銃は国産化に成功して量産が可能になると、次第に主要武器として浸透していきます。

戦国大名は、軍事力強化のために安定して火縄銃が確保できる供給路を求めました。例えば「織田信長」は、早い時期から鉄砲の有効性に気付いており、「堺」「根来」と並び称される近江国「国友」の鉄砲集団を、専属の鉄砲鍛冶として占有しています。

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鉄砲隊と弓矢組の編制が定着

弓を射る武士

弓を射る武士

強力な威力を有する火縄銃ですが、一発弾を撃ってから次の装填までに約30秒かかるという弱点がありました。

また、火縄や火薬は雨風に弱く、一度湿気(しけ)てしまえば使い物にならないこともあり、そうした欠点を補うために、鉄砲隊は弓組や槍組と併せて編成されることが常識化します。

弓矢は、遠距離攻撃を行なえることから、南北朝時代以降も依然として戦の主要武器のひとつであり続けていました。なお、日本独特の大型弓矢のことは「和弓」(わきゅう)と呼ばれます。

和弓は、鉄砲と違い発射音がしないため隠密行動時に適していました。

また、矢を番(つが)えてから発射するまでの時間が短いために連続して射ることができる他、火薬などの特別な燃料も不要なため、雨などの悪天候時でも使用できると言う点においては、鉄砲より使い勝手が良かったのです。

特に連射が可能であった点においては、鉄砲が次弾を装填している間に弓矢で敵を牽制することで、鉄砲の欠点を補う役ができたことから重宝されていました。

甲冑の変化

紺色縅当世具足
紺色縅当世具足
火縄銃が定着した頃から、戦国時代の甲冑にも変化が起きます。

当時の甲冑は「当世具足」(とうせいぐそく)と言われ、機動性が求められる戦国時代の戦に適した甲冑でした。

平安時代に主流だった甲冑は、馬に乗って弓で戦うことを想定した「大鎧」(おおよろい)。

ただし大鎧は、武士や上流階級など身分が高い者だけが着用しており、身分の低い歩兵などは徒歩による戦闘に合わせるため、簡略化された甲冑「胴丸」(どうまる)を身に付けていました。

時代が進んでいくにつれて胴丸はさらに簡略化。

胴丸や腹巻、腹当(はらあて)は騎射戦から白兵戦(はくへいせん:近接攻撃による肉弾戦)に移行した戦国時代でも用いられて、上級武士や武将の甲冑も胴丸や腹当など歩兵が身に付けていた甲冑に寄せて作られました。

足軽槍隊や火縄銃が登場した戦国時代末期になると、より軽量化された甲冑「当世具足」(とうせいぐそく)が考案されます。

「兜」、「胴丸」(または腹巻)、「袖」の3点に加えて、「頬当て」、「咽喉輪」(のどわ)、「篭手」、「佩盾」(はいだて:大腿部からひざをまもる防具)といった体の各部位を保護するための装備が付加されました。

これは槍の先や鉄砲の玉が、体のどの部分に当たるか予測ができなかったためです。従来の甲冑よりも防御力を高めるために各種装備を万全に着用し、隙間を埋めました。

そして、上腕部や大腿部の装甲を薄くする他、各装備を細かく分け、部位によって繋ぎ合わせるようにしたことで、大鎧よりも動きやすくなっているのも特徴のひとつです。

築城法の変化

火縄銃の登場は、築城法にも変化をもたらしました。南北朝時代の城と言えば、険しい地形の山間部を利用して作られた山城。

山のなかに築かれているため、地形的にも上方にある城からの攻撃に弱いなどの理由から山城攻略は一筋縄ではいきませんでした。

しかし、長距離射程が可能である火縄銃や火器が実用化したことで、山城の防御力も次第に薄れていきます。

そして、代わりに発達したのが石垣の城。弾丸に対して強度を保つ石垣を塁に築き、また発火を防ぐための漆が城壁に塗られたのです。

石垣や櫓は、隅が死角とならないように直角を避け、屈折した形にしてどの方角からでも射撃できるようになっています。

火縄銃の戦法

鉄砲重視の合戦へと変わった「長篠の戦い」の鉄砲戦術

長篠の戦い

長篠の戦い

1575年(天正3年)に行なわれた織田信長と甲斐「武田勝頼」(たけだかつより)による合戦「長篠の戦い」。

一説によると信長は、3,000挺もの火縄銃を用意して、無敗を誇った武田騎馬軍に対する防柵を築き、「三段撃ち」による戦術で武田軍を破ったと言われています。

長篠の戦い以前の合戦において火縄銃は、それぞれの武将が配下に持たせ、自由に射撃させるという統率に欠けた方法で運用されていました。

その後、鉄砲の量産化に成功した頃から鉄砲隊として15~30人で構成された部隊を結成し、集団による運用が行なわれるようになります。この運用方法が合戦において常識化するきっかけとなった合戦が長篠の戦いでした。

織田信長が採用した三段撃ちは、それまで行なわれてきた鉄砲運用のあり方を一新する画期的な戦法だったのです。

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火縄銃の戦法

火縄銃は、次弾装填までに時間がかかるという欠点がありました。この欠点を補うために、「三段撃ち」や「車撃ち」という戦法が編み出されます。

「三段撃ち戦法」は、長篠の戦いにおいて織田信長が用いた戦法として有名。

火縄銃を構えた足軽を3列配備して、最前列で弾を撃った者が最後尾へと下がり、2列目の足軽が最前列へ出て射撃をしてまた最後尾へと下がる、という具合に代わる代わる入れ替わって、弾の装填をしている間も絶え間なく射撃が続けられるように工夫した戦法です。

「車撃ち戦法」は、薩摩の「島津家」が合戦で使用した戦法として有名。

三段撃ちを応用した戦法で、並び順は三段撃ちと同じですが、車撃ちは最後尾の鉄砲隊が最前列へ移動して撃ち、撃ち終えたら2列目へ下がり、また最後尾の足軽が最前列へ移動して射撃するという形式で行なわれました。

車撃ちは、三段撃ちより敵から離れずに済むという利点があり、島津氏のこうした戦法は戦国時代において先進的で、「島津の鉄砲隊」が戦国最強と謳われた理由のひとつになっています。

「火縄銃の演武(実演)」YouTube動画

火縄銃の演武(実演)

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