関(現在の岐阜県関市)における日本刀作りの技術は、鎌倉時代後期から室町時代初期に伝承されたと伝わります。室町時代には南北朝争乱もあり、関の刀鍛冶は確立され発展したのでした。ここでは室町時代、関の日本刀作りはどのように発展を遂げたのか、1467年(応仁元年)の「応仁の乱」が起こるまでの室町時代に絞って、その歴史を振り返ります。
足利義満
室町幕府がスタートすると早々に、争乱が起こります。天皇家の系統が南朝と北朝に分かれて抗争をした「南北朝時代」の幕開けです。1392年(元中9年・明徳3年)に足利義満によって南北朝が統一されるまで、60年近くもこの抗争が続きました。
美濃国(岐阜県)では、南北朝時代やそれ以前から美濃伝が勃興していたと考えてられていますが、こうした社会背景の中で日本刀の需要は急増。相次ぐ抗争に備え、美濃国の刀鍛冶に日本刀の注文が増えたのです。
特に美濃国は、東西の国や北陸の国への中継地。周囲の国に力のある武将が群雄割拠しており、武器の需要が高かったのでしょう。鎌倉時代から実用性を重視し、斬れ味と堅牢さを追求してきた美濃刀の特徴も、人気を集めた理由でした。
南北朝時代、需要が高かった美濃の日本刀。需要のある地には多くの刀鍛冶が集まるものですが、なかでも名工が多くやって来たのは関でした。
関鍛冶の礎は、鎌倉時代の末期に金重が築きました。室町時代には、その娘婿「包永」(かねなが)の門人である「包光」(かねみつ)が大和から関へ移住。一門の日本刀作り職人である兼明や兼弘達を伴ってやって来ます。やはり争乱によって高まった美濃国での刀需要を見込んでの移住でした。
このとき、兼光の祖父である兼永も関へやって来ます。兼永のおかげで、大和や越前(現在の福井県)と関の交流が活発になり、関が繁栄する礎を築くことにつながります。
また同時期、岐阜県南部にあたる直江村(現在の養老町内)という地域では、直江鍛冶と呼ばれる日本刀職人達が活動していました。しかし、直江村でたびたび起きていた洪水に業を煮やしたことなどから、直江鍛冶達も関へ住まいを移すことになったのです。
こうして刀鍛冶を志す人材が関に集ったことから、関鍛冶は隆盛期を迎えるに至ったのでした。
鎌倉時代の末期、名工・五郎正宗の弟子である金重と兼氏(志津三郎)の2人が美濃国へやってきて、金重は関へ、兼氏は養老郡の志津(岐阜県多芸郡南濃町)で暮らしました。
2人のうち、当時評価が高かったのは志津で活動した兼氏の方。しかし、室町時代以降に日本刀作りの舞台として発展していったのは、関のほうです。
志津よりも関が発展した理由は、関では日本刀作りに関する自治組織が生まれ、集落が形成されていったため。また、日本刀作りに必要な原料を調達するのに有利な地であることも、関の強みとなりました。
関市における鍛冶の元祖は、鎌倉時代に関へやってきた「元重」とする説もあります。一方で前述したような歴史から、関の「祖鍛冶」は金重や兼光達であるとする研究もあります。今回は、元祖と始祖を区別して考える説を参考としてまとめました。
室町時代が幕を開けたころから57年間続いた南北朝の争乱。1392年(元中9年)に、足利義満がついに南北朝を統一します。
争乱が落ち着いてくると、兼光(金重の孫)の子孫から成る関の日本刀職人達は、鍛冶仲間の自治組織である鍛冶座を結成しました。どんな組織だったのか、少し詳しく見てみましょう。
室町時代、関では鍛冶組合が7つ作られました。この7組織を総称して関七流(または七派)と呼び、7つの派が誕生。7派はお互いに切磋琢磨しながら、協力して日本刀作りに励んだと伝わります。
兼光の直系子孫である兼吉が組頭の「善定派」を筆頭に、兼則による「三阿弥派」、兼常による「奈良派」、兼安による「得印派」、兼弘による「徳永派」、兼行による「良賢派」、兼在による「室屋派」の七派がありました。
各派は日本刀を作る職人のみならず、槍、長刀、小刀、包丁類などの打刃物を作る人々が集まったグループでした。
室町時代に活動した有名な日本刀職人には、金重の子である金行、兼氏の弟子である兼仲、兼光の祖父である兼永、他に関七流の組頭である兼常などがいます。
砂鉄
古来の日本刀は砂鉄を原料として作った玉鋼(たまはがね)が主な原料です。
関は長良川の流域に位置していますが、砂鉄はこの流域で採れました。また、鉄が足りなくなっても、近くの京都や大阪から取り寄せることが比較的容易にできたのです。
室町時代、砂鉄を熱して溶解するときには燃料として木炭が使われました。
養老山脈を背景に持つ関の地は、燃料となる木炭も入手しやすい土地。これも美濃鍛冶の隆盛に貢献しました。