関市における刃物の歴史
廃刀令と刀匠~明治時代~
関市における刃物の歴史
廃刀令と刀匠~明治時代~

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「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」のフレーズに象徴されるように、明治時代は長く続いた武家制度が廃止された時代。日本刀(刀剣)をはじめとする刀の需要が激減しました。変化の時を迎えた、明治時代における関(現在の岐阜県関市など)の刀剣産業についてご紹介します。

岐阜県の誕生以前に、関の刀剣産業は衰退

大政奉還

大政奉還

徳川慶喜が大政奉還を行なった翌年、1868年(慶応4年)に江戸は東京に改称され、明治時代が幕を開けました。

古くから日本刀(刀剣)作りで隆盛を誇った関(現在の岐阜県関市)の刀剣産業でしたが、この時代は衰退が顕著だったと言えます。

岐阜県関市の公式サイトにある「関市の刃物産業の歴史」によると、関鍛冶(関に在住した日本刀を作る職人)の数は、江戸幕府誕生前には全国300人以上、江戸中期の1597年(慶長2年)には172名へと半数近くに減少。世の中が平和になって日本刀(刀剣)の需要が減ったためでした。

日本地域社会研究所著「日本の郷土産業3中部・北陸」では、江戸後期、1830年(天保元年)~1844年(天保15年)に亘った天保年間には、関の鍛冶商は51軒。ほとんどが家内工業であり、弟子や従業員を雇う形態を取っていたのは、その5分の1程度であったとされています。

美濃国から岐阜県へ

明治時代が始まると、1868年(明治元年)、それまで美濃国(現在の岐阜県内)の名称だった地域は「笠松県」へ、飛騨国は「飛騨県」へと改称されます。

1871年(明治4年)の廃藩置県では笠松県は大部分が「岐阜県」へ。さらに、1876年(明治9年)に飛騨エリアも岐阜県に統合され、岐阜県は現在の形になります。

一方で「関市」が誕生するのは、これよりずっとあとの昭和期。明治期にはまだ関村の名称であり、昭和期に入ってから関村から他地域を合併して関市という市がようやく誕生します。

廃刀令が関の刀剣産業に打撃を与えた!?

江戸時代には、自由取引きの形態が取られていた関の刀剣産業。江戸中期から明治初期にかけては、「打物問屋株」という組合を結成して共存共栄できる道を探ったことがあります。

しかし、関の刀剣産業における衰退をとどめるまでには至りませんでした。明治時代には「廃刀令」などの新しい制度がスタート。岐阜県関市における刀剣産業の歴史上、さらなる苦難の時代を迎えます。

関にあった近代的な組合

関市の刃物業界において、江戸後期の1820年(文政3年)に動きがありました。刀鍛冶を営む兼成屋善兵衛、兼成屋源助、土屋甚七、鉄屋与蔵など8名の企業家が、打物問屋株という組合を結成したのです。

善兵衛たちは「ひとりは江戸、別のひとりは大坂」といった具合にそれぞれの販路を分け、互いに争わないしくみを考案。また、職人に対しても問屋以外とは取引きできないように規制をかけます。領主に権利金を納めることで、こうした取り決めを実現可能にしたのです。

ただし、日本刀(刀剣)を専門とする鍛冶は、打物問屋株による規制の対象外。同組合を考案したのは、古くから刀剣鍛冶とは異なる系統から生まれた、いわば「新興企業家」達だったからです。また当時、日本刀(刀剣)は大量生産することが困難だったので、商売として規制することもなかったのも理由のひとつです。

しかし、こうした打物問屋株による取り組みがあっても、関の刀剣産業は衰えていったのでした。

武士も庶民も日本刀を帯刀禁止に

廃刀令

廃刀令

明治時代の各制度は、岐阜県の産業にさらに影響を与えました。

まず1870年(明治3年)には武家制度が廃止され、武士は「士族」となり、庶民が日本刀(刀剣)を持つことが禁止されます。

1876年(明治9年)には、士族が帯刀することも許さない廃刀令を明治政府が発布。関の刀剣産業は廃刀令によりさらなる打撃を受けました。

この時期、日本刀(刀剣)を専門で扱う鍛冶の多くは、打刃物を扱う職人へとすでに転業していました。そのため、関の刀剣産業が廃刀令から受けた影響は少なかったと考える研究もあります。

日本刀からポケットナイフへ

暗い時代が続いた岐阜県関市の刀剣産業でしたが、明治中期に光が灯ります。

1888年(明治21年)に関の職人「福地廣右衛門」(ふくちひろえもん)が、日本産で初めてのポケットナイフを制作。後世になって、世界中で広く愛用される関のポケットナイフの礎をここで築きました。

岐阜県関市がホームページで公開している情報によれば、今では関のポケットナイフは、諸外国に対する出荷額の50%以上を占める年もあるほどです。

福地廣右衛門のポケットナイフ

福地廣右衛門は、鉄物商組合(現:岐阜県利器工匠具協同組合)の初代総代を務めた人物です。同役在任中に国産初のポケットナイフ制作に挑むことになります。

きっかけは、当時、関の刃物卸商であった佐藤久八が、東京の商店から外国製ポケットナイフの見本を手に入れたこと。佐藤は同じ岐阜県で活動する福地に、ポケットナイフの製造を委託。

福地は抉小刀匠の協力を得ながら開発に取り組み、約2年間の試行錯誤を経て、ポケットナイフの制作に成功します。これは日本刀(刀剣)の製造技術が活用された製品でした。

日清戦争・日露戦争のころの関鍛冶

1894年(明治27年)~1895年(明治28年)は、日本と清(現在の中国)との間で日清戦争が起こった時期。これまでのところ、関の刀剣産業は争乱が起こると需要は増える傾向がありました。

しかし、日清戦争のときには大きく繁栄することはありませんでした。また、1904年(明治37年)~1905年(明治38年)の日露戦争でも同様。これは当時、関には鎌や鍬(くわ)といった農機具を打つ「野鍛冶」が点在する農村地帯になっていたためと考えられています。

岐阜県関市から外国へ

打刃物については、日清戦争のころに岐阜県関市から海外へ輸出が始まります。当時の主な輸出先は朝鮮半島の国。古くからの日本刀(刀剣)作りで培われた関の技術や製品が海外へ飛び出したのです。

株式会社貝印が岐阜県関市で創業

生活に根差した刃物

生活に根差した刃物

1908年(明治41年)には、遠藤斉治朗が岐阜県関市で「遠藤ナイフ製作所」を創業。現在、カミソリ、包丁、ハサミ、ツメキリなど生活に根差した刃物のメーカーとして知られる株式会社貝印の原点です。

当初は小さなポケットナイフ製造所からのスタートでした。昭和期には国産初のカミソリ替刃を製造開始するなど進化を続け、関市から世界各地へと商品を供給する企業へと発展していきます。

日本刀作りの伝統技術を守る

岐阜県関市で積み重ねられてきた、日本刀(刀剣)をはじめとする刀作りの技術。多くの鍛冶が野鍛冶へ転向する一方で、明治後期にはこの伝統の火を消してしまわないための取り組みも行なわれていました。

日本刀鍛錬所の設立

1907年(明治40年)には関に「日本刀鍛錬所」が設立されました。これは美濃伝・関七流のひとつ「善定派」の刀鍛冶である兼吉が私財を投じて建てた物。弟子には渡辺兼永、小川兼国、丹羽兼信、藤原兼永などがいました。

その弟子のひとりである小川兼国は、1910年(明治43年)に岐阜県庁の後援を受け、施設名を「関日本刀鍛錬所」として、春日神社(岐阜県関市)前に創ります。

日本刀鍛錬所を創った兼吉の意思は、1938年(昭和13年)に設立された「日本刀鍛錬塾」へと受け継がれたのでした。

日本刀を作る鍛冶と野鍛冶

日本刀(刀剣)などの刀を扱う「刀鍛冶」に対し、鎌や鍬(くわ)、鋤(すき)といった農機具や生活に根差した打刃物を作る職人を野鍛冶、「打刃物鍛冶」と呼んで区別することがあります。

大量生産による収益を得やすいのは野鍛冶や打刃物鍛冶で、関市の鍛冶は、世の中の動きに応じて刀鍛冶から野鍛冶へ、野鍛冶から刀鍛冶へと転向した人も多かったと考えられています。

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