関市における刃物の歴史
終戦後の関市の日本刀~昭和時代~
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鎌倉時代から積み重ねられてきた岐阜県関市の刀剣技術。2度の戦争を経験した大正・昭和時代には、新たな転換期を迎えます。ここでは戦時中と戦後、関市の刃物産業がどのような変化を遂げたのかをご紹介します。

日本刀の需要が一時的に高まった第一次世界大戦

平和な世の中になり、明治期の廃刀令でも打撃を受けた岐阜県の刀剣産業でしたが、1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発すると状況が変化。輸出拡大に伴い、日本刀鍛冶が息を吹き返すような兆しを見せます。

同戦争は1918年(大正7年)に終結し、戦後の国内は恐慌に陥り、輸出が激減。関市の刀剣産業も転業者が続出するなど、苦難の時代へ突入します。

岐阜県関市における刀剣産業の近代化

関の包丁

関の包丁

大正から昭和初期の不況期、岐阜県関市の刃物製造業者は淘汰が進みました。規模が小さな業者は転業を余儀なくされ、規模の大きな製造会社が生き残ります。

また、包丁やポケットナイフといった家庭用品などは、従来の注文生産から見込み生産へ移行。製造工程も分業化され、大きな工場で型抜きされた物を、別の場所にある工場や家内工業で完成させるといったシステムが確立されていった時代でもあります。

昭和初期における関市の日本刀

昭和初期にはアメリカ合衆国などの中国援助政策により、日本製品の海外輸出が制限されました。ナイフや包丁類などを作る工場は生産数が減り、軍需品の下請工場へと姿を変えていったのです。

そんななか、1933年(昭和8年)には河村兼永氏がステンレス鋼を使った日本刀鍛錬に成功。翌年には美濃刀匠擁護会が「日本刀伝集所」(のちの[日本刀鍛錬塾])を開くといった動きもありました。

ステンレス鋼による日本刀誕生

日本刀(刀剣)の主原料は、古来は鉄でした。ところが、錆びない性質で知られるステンレス鋼を使って日本刀(刀剣)を作ったのが、岐阜県関の地で活動していた河村兼永氏です。彼が日本刀(刀剣)へ銘するときには「奈良太郎藤原兼永」の名前が刻まれています。

彼は日本刀(刀剣)の他、ナイフなどの刃物制作でも活躍。ステンレス鋼を原料にした河村氏の日本刀(刀剣)は、関鍛冶伝承館(岐阜県関市)で展示されたことがあります。

昭和期の日本刀鍛錬塾

関鍛冶伝承館

関鍛冶伝承館

昭和初期に建てられた日本刀鍛錬塾は、刀工を育成するために建てられた施設です。現在の関鍛冶伝承館がある場所にありました。

日本刀鍛錬塾へは全国から塾生が集結。関鍛冶の伝統を継承しながら、現代へとつながる日本刀(刀剣)職人を養成しました。関鍛冶伝承館では日本刀鍛錬塾の立て看板が今も保存されています。

日本刀ではない昭和刀が作られる

1941年(昭和16年)には太平洋戦争が勃発。関の刀剣産業は再び盛んになりました。このころ作られた軍事用の日本刀(刀剣)は、古くからの日本刀(刀剣)とは区別して「昭和刀」と称されます。昭和刀は戦争が進むにつれ、粗悪品が出回るようになりました。

そこで関市の刀剣業者は製品のクオリティを保証するため、新しく制作された日本刀(刀剣)を関刃物工業組合で検査し、基準をクリアした物に証印を打つことに。近代的な製造システムによって価格を抑えられている上に、こうした品質保証制度が整えられた関市の日本刀(刀剣)は人気を集め、国内の市場シェアを伸ばしていったのです。

終戦直前の1944年(昭和19年)には、関の刀鍛冶は49人、昭和刀鍛冶200人、研師3,000人であったと記録されています。

岐阜県関市の刀剣業界を活性化させた昭和刀

昭和刀

昭和刀

昭和刀とは、日本刀(刀剣)の代用品として第二次世界大戦中に作られた刀剣のこと。日中事変が発生した1937年(昭和12年)から太平洋戦争が終結する1945年(昭和20年)の約8年間生産されました。

職人が手間暇をかけて作る日本刀(刀剣)とは異なり、機械で制作されたのが最大のポイント。鋼鉄板を打ち抜いて磨き上げたような物であったり、機械のハンマーで叩き鍛えて成型する物であったりと、製法は様々です。

昭和刀が作られ始めたころには、年間7,131本が生産できる程度であったのが、太平洋戦争に突入した1941年(昭和16年)には年間8万6722本が製造できるまでに発展。1942年(昭和17年)ごろには生産業者数も最大に膨れ、法人31件、個人209件にも上りました。

価格も8年間で当初の1本30円から、高い物では1本1,000円へと高騰。岐阜県関市の歴史上、例がないほどの軍需景気をもたらしたのです。

廃刀令以降の日本刀「現代刀」とは

日本刀(刀剣)を主に作られた時代で区分する用語として、「古刀」、「新刀」、「新々刀」、「現代刀」があります。

古刀は安土桃山時代まで、新刀は江戸時代後期の1764年(明和元年)まで、新々刀はそのあと1876年(明治9年)の廃刀令までに作られた日本刀(刀剣)を主に指します。「現代刀」は、新々刀よりあとの年代に制作された日本刀(刀剣)です。

先述の昭和刀が現代刀と同義であるように誤解されることもありますが、厳密には異なります。昭和刀が現代刀の一部である、とするかどうかについても様々な考え方があるのです。

文化財としての日本刀制作へ

1945年(昭和20年)に第二次世界大戦が終結します。戦後はGHQ(連合軍総司令部)により日本刀(刀剣)作りが禁止されました。昭和刀を含む日本刀(刀剣)制作で収入を得ていた職人たちは、包丁やポケットナイフといった家庭用刃物を扱う仕事へと移行することを余儀なくされます。

一方で、日本の文化財を守りたいと考える人々の間で、古くから伝わる日本刀(刀剣)の技術が注目されていました。これに追い風が吹くように、1950年(昭和25年)には文化財保護法が施行されます。

この文化財保護法の施行は刀剣制作再興のきっかけとなり、日本刀(刀剣)にまつわる伝統技術を守る組織や施設などが、昭和期にいくつか誕生しています。

関市で日本刀鍛錬技術保存会結成

1950年(昭和25年)には市制が施行され、岐阜県関市が誕生します。その関市に1970年(昭和45年)、日本刀鍛錬技術保存会が結成されました。

関市産業振興センターの創設

1984年(昭和59年)には、関市内に関市産業振興センター(現:関鍛冶伝承館)が創設。同センターでは、日本刀(刀剣)を中心とした日本刀(刀剣)の歴史や制作工程、関市でかつて活躍した刀工による日本刀(刀剣)の展示コーナーなどが設置され、日本刀鍛錬の様子を近くで見学することもできます。

文化財保護法は日本刀も守る?

文化財保護法とは、1950年(昭和25年)に施行された日本の法律。「文化財を保存し、かつ、その活用を図り、もつて国民の文化的向上に資するとともに、世界文化の進歩に貢献すること」が目的とされています。

この法律で文化財とされるのは、「建造物、絵画、彫刻、工芸品、書跡、典籍、古文書、その他の有形の文化的所産で我が国にとって歴史上または芸術上価値の高い物」など。国宝もこの法律に基づいて指定されるため、文化財に数えられる日本刀(刀剣)が存在。

日本刀(刀剣)を国宝に指定する動きは明治時代からありましたが、岐阜県関市の公式サイトの情報では、文化財保護法が「刀剣制作復興の基盤となった」と紹介されています。

昭和初期には日本刀は国宝に指定されていた

文化財保護法よりも前、1929年(昭和4年)には国宝保存法という法律が公布されていました。同法以前には古社寺保存法がありましたが、社寺以外の文化財への保存措置を求められたことから、国宝保存法が誕生。同法施行時には、絵画や彫刻、工芸などと並び、日本刀(刀剣)268振が国宝に指定されています。

国宝と指定された物は、輸出または移出が許可制とされ、現状変更についても許可を取ることが必要になりました。

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