関市における刃物の歴史
武将に愛された美濃刀~戦国時代~
関市における刃物の歴史
武将に愛された美濃刀~戦国時代~

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戦国時代には日本刀(刀剣)のニーズが高まり、刀鍛冶の技術はますます磨かれていくことになります。戦国時代をいつからいつまでと区切るのかについては定義がありませんが、ここでは1467年(応仁元年)の「応仁の乱」から、1603年(慶長8年)に徳川家康が江戸幕府を開くまでの約140年間と仮に定義します。この時代の関鍛冶や美濃刀についてご紹介します。

よく斬れる日本刀が好まれた戦国時代初期

室町時代初期に発展した関(現在の岐阜県関市)の日本刀(刀剣)作り。その職人達は関鍛冶と呼ばれ、戦国時代が幕を開けたころには全国でも最多を誇る「300人以上」が存在していました。

当時の関で作られた日本刀(刀剣)は、主に「美濃伝」と称され、日本刀(刀剣)における5つの主要生産地を表わす「五箇伝」のひとつです。美濃伝は、実用本位で切れ味と剛健さに秀でた日本刀(刀剣)として好まれました。

戦国時代初期には2人の名工が登場

戦国時代の中でも、応仁の乱以降から室町時代末期までに生まれた美濃伝については、「末関」(すえせき)または「末関物」(すえせきもの)と呼ばれます。

末関の作り手には、関鍛冶史上で最も有名と言える2人の名工がいます。それが、二代目兼元と二代目兼定です。

戦後時代初期の名工/二代目兼元

四方詰め

四方詰め

二代目兼元は、のちに「関の孫六」(せきのまごろく)と呼ばれる日本刀(刀剣)を生み出した名工で、「孫六」とも呼ばれます。1521年(大永元年)~1531年(享禄4年)頃に彼が手掛けた日本刀(刀剣)が確認されています。

兼元は独特の「四方詰め」という製法を編み出しました。これは、やわらかい芯鉄の周りをかたい鉄や粘り強い性質の刃鉄で固めて日本刀(刀剣)を作る手法。「折れず、曲がらず、よく斬れる」と評価が高まり、美濃伝は武士から人気を集めました。

ただし、関の孫六として有名になった二代目兼元ですが、実は関に住んでいた訳ではありません。関から約40km離れた赤坂(現在の岐阜県大垣市赤坂町)に暮らしていたのです。

当時すでに全国に広まっていた「関」ブランドを赤坂側が利用したか、あるいは、関市にあった刀鍛冶の自治組織「関七流」が赤坂の孫六を自分達のグループに取り込んだか、などと推察されています。

美濃刀の優秀さを表わす代名詞 関の孫六

二代目兼元は関の孫六と呼ばれ、生み出した日本刀(刀剣)も、江戸時代には関の孫六の名で広く有名になりました。関の孫六は、美濃刀の優秀さを表わした代名詞ともなったのです。

その人気は凄まじく、江戸期の刀剣書には、切れ味が最も優れた最上大業物として、関の孫六のほとんどが列記されたほど。なお、孫六という名前については六郎左衛門尉兼則の孫弟子にあたることに由来する、などの説があります。

また、関の孫六は斎藤道三が娘の濃姫を織田信長に嫁がせるときに持たせた話や、1860年(安政7年)の「桜田門外の変」に薩摩藩士が大老「井伊直弼」を斬るのに使われた話など、数多くの歴史的な場面に登場。多くのエピソードを持つ日本刀(刀剣)でもあります。

二代目兼定

二代目兼定は1493年(明応2年)~1526年(大永6年)頃に活躍しました。

兼定の日本刀(刀剣)は孫六に並ぶ最上大業物で、切れ味が大変良いのが魅力。武田信玄の父である武田信虎や、明智光秀など名だたる武将に愛され、1511年(永正8年)には「和泉守」(いずみのかみ)を朝廷から受領。守を受領するのは、日本刀(刀剣)職人としては珍しいことでした。

「定」の字を、う冠の下に「之」として日本刀(刀剣)に銘切り(名入れ)することが多かったため、二代目兼定は「之定」(のさだ)の通称が広まりました。彼のあとに続く三代兼定も有名で、兼定は定の字を楷書で銘切りしたため、「疋定」(ひきさだ)と呼ばれました。

和泉守兼定

和泉守兼定

刀剣技術が大名に求められた安土桃山時代

安土桃山時代に入ると、各地で戦国大名が領地を治めるようになりました。すると、切れ味鋭く剛健な美濃伝を作ることで知られる関鍛冶は、各地の大名のもとへ招かれ、お抱え工として腕を発揮することになります。

のちの江戸時代には、日本刀(刀剣)職人はお抱え工として腕を振るうことが多くなっていきました。

信長や信玄らに仕えた関鍛冶達

徳川家康

徳川家康

武将のお抱えとなった関鍛冶の中には、日本刀史に名を残す名工も多く存在しました。

例えば、尾張・織田信長のもとで推挙されて若狭守(わかさのかみ)を受領し、織田信長のお抱え工として活躍したのは関出身の氏房(うじふさ:兼房5代目)。

徳川家康には兼法(かねのり)が駿河に招かれて厚い信頼を得ました。兼法は、関の孫六を生んだ兼元と同じ赤坂地域で活動していた関鍛冶です。

また、甲斐の武田信玄には兼道(かねみち)が仕えました。兼道は、関鍛冶の基礎を築いた人物のひとり、志津三郎兼氏の九代目の孫と称する人物。「三品派」(みしなは)という刀鍛冶の流派を興したことで知られます。

ポルトガルから鉄砲伝来後は国産銃の開発へ

戦国時代には、日本刀(刀剣)製造の技術は他の武器にも活かされました。

1543年(天文12年)、明国船に乗って種子島へ流れ着いたポルトガル人が、鉄砲を日本へ持ち込みます。このとき、模造品を作るために関鍛冶が活躍。

種子島の主、種子島時堯(たねがしまときたか)がポルトガル人から鉄砲を購入し、関出身の刀鍛冶、八板金兵衛清定(やいたきんべえ)に模造を命じたのでした。

関鍛冶の技術が活かされた国産火縄銃

伝八板金兵衛作火縄銃

伝八板金兵衛作火縄銃

鉄砲を真似た品を作るように、と種子島時堯から命を受けた八板金兵衛清定は、関出身で種子島に移って活動していた日本刀(刀剣)職人です。

八板金兵衛清定は失敗を繰り返しながらも、苦労の末に国産火縄銃を完成させました。

八板金兵衛清定は、島へ来訪したポルトガル人の鉄砲鍛冶から、技術を学び続けます。正しい技法を教わるのと引き換えに、八板金兵衛清定自身の娘をポルトガル人に嫁がせたという説も伝わるほどでした。

こうした関鍛冶の活躍によって、国産銃が誕生。日本国内の戦法に大きな影響を与える結果となったのです。

火縄銃・大筒写真火縄銃・大筒写真
生産地や流派によって様々な個性を持つ火縄銃・大筒をご覧頂けます。

天下統一が進むにつれて刀剣需要が激減

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などにより天下統一へ向けて時代が動いた戦国末期。戦乱は徐々に減り、日本刀(刀剣)の需要も減っていきました。

さらに1586年(天正14年)には、農民による反乱を防止するため、豊臣秀吉が「刀狩令」を発布。農民は日本刀(刀剣)や弓、、鉄砲といった武器を所持できなくなり、農作業に専念することを求められたのです。

こうして、関鍛冶達は、戦の場で求められる美濃刀を作るよりも、日々の暮らしの中で必要とされる打刃物や農機具を主に扱うようになっていきました。戦国時代初期には、全国300人以上が存在した関鍛冶でしたが、1597年(慶長2年)には172名に減少。172名のうち、刀剣鍛冶を主とする職人がどれだけの割合を占めていたのかは分かっていません。

市では打刃物や農機具が売れ筋に

戦国時代末期から江戸時代初期にかけては、関は大島氏の所領となっていました。大島氏は「市」を奨励する政策を取ったので、品物や農産物を売る商人や農民が内外から訪れます。

関ではこうした来客と関鍛冶との間で、活発な商取引が行なわれるようになりました。ただし、当時の関鍛冶が扱うのはやはり、日々の暮らしに必要な農機具や打刃物が主体。美濃伝をはじめとする日本刀(刀剣)を専門に扱う職人はごくわずかであったと伝わります。

関の市はしばらく賑わいましたが、その繁栄は長くは続きませんでした。1606年(慶長11年)、上有地(現在の美濃市)を治めていた金森氏が、関の市へ向けて往来する商人や農民らを自領に誘い込む政策を実施。その結果、関の市は次第に衰退していったのです。

江戸期には日本刀から家庭用刃物へ

江戸時代を迎えて国内が平和になると、日本刀(刀剣)の需要はさらに激減。特に江戸幕府将軍が4代目徳川家綱となる1661年(寛文元年)頃からは、日本刀(刀剣)のニーズが目立って縮小していきました。

関鍛冶は数が減るとともに、取扱い品目を小刀などの家庭用刃物や農業用刃物へ転向する人が増加。江戸時代中期、1750年(寛延3年)には関鍛冶は、全70名であったと記録されています。

美濃伝の日本刀

美濃伝の日本刀(刀剣)をご覧頂けます。

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