江戸幕府15人の将軍のうち、第9代家重はあまり存在感がない。生まれながらに障害があり言語が不明瞭だったため、人前で話すことはほとんどなかったという。そんなミステリアスな生涯からか、実は女性だったのではないかという噂がある。
徳川家重
1712年(正徳元年)に第8代将軍徳川吉宗と側室のお須磨の方(深徳院)の長男として生まれた家重。
「徳川実紀」には「惇信院(じゅんしんいん)には御多病にて、御言葉さわやかならざりし故、近侍の臣と言えども聞きとり奉ることかたし」とある。
惇信院は家重の院号。家重の言葉が聞き取れた家臣は、大岡越前と呼ばれた大岡忠相(ただすけ)の子孫にあたる大岡忠光だけだったという。
将軍になったのは1745年(延享2年)、家重31歳のとき。体の弱い家重ではなく、弟の宗武(むねたけ)や宗尹(むねただ)を将軍にするべきという声もあったが、継嗣争いを避けるため、吉宗は長男の家重を将軍に据え、自身は大御所として実権を握り続けた。
将軍としての家重は、政治を重臣らに任せ、吉宗の偉功でなんとか無難に乗りきった無能な将軍というイメージがある。しかし、最近は実は名君だったのではないかとも言われている。
田沼意次
徳川御三家に次ぐ家格として「御三卿」を確立させたのは家重。吉宗の次男、宗武を初代とする田安徳川家と、4男、宗尹を初代とする一橋徳川家に、家重の次男、重好(しげよし)を初代とする清水徳川家を加えて御三卿とした。また、のちに老中となる田沼意次(たぬまおきつぐ)とともに独自の経済政策も実行した。
家重は意次の実力を買っていたようで、次期将軍となる息子の家治に意次を重用するよう遺言を残して、1761年(宝暦11年)に亡くなった。
側近の大岡忠光も人格者として知られている。人徳のある忠光と実務に優れた意次を身近においた家重は、人を見る目は確かだったよう。名君という可能性もまんざらあり得ないことでもなさそうだ。
家重の言語障害は脳性麻痺によるものと考えられている。徳川記念財団に収蔵されている家重の肖像は顔がゆがみ、上半身が強ばっているようにみえる。これは意志に反して体が動いてしまうアテトーゼ型の脳性麻痺だったことを示している。
また、1958年(昭和33年)に増上寺に祀られていた徳川家の霊廟が発掘調査された。家重の遺体は、常に歯ぎしりをしていたのか、歯が約45度の角度で擦り減っていたという。歯ぎしりはアテトーゼ型脳性麻痺の不随意運動によって生じる特徴のひとつだ。
余談だが、第13代将軍徳川家定も脳性麻痺だったと言われている。家定の祖父である第11代将軍徳川家斉は一橋家から将軍になっていることから、遺伝的なものだとすれば、家重より上の代の遺伝子に原因がありそうだ。
家重女性説は家重にまつわるいくつかのエピソードを根拠としている。家重が女性だとするなら、長男の家治と次男の重好は誰の子かという疑問がわいてくるが、大御所である吉宗の子か、家重自身が生んだ子ではないかと考えられている。
家重の遺体は、頭蓋骨や骨盤が女性のような形をしていたという。また、通常将軍の遺体は胡坐を組んで埋葬されているが、家重の遺体は女性の埋葬姿勢である正座だったともいう。
しかし、増上寺に埋葬されていた将軍はみな胡坐をかいていたという説もあり、信憑性は不明。ちなみに、遺骨から推定される身長は156.3cmで、頭頂部は禿げ上がっていたという。当時の女性の平均身長は145.6cmというから、女性だとしたらかなりの大柄。禿げていたということからも男性と考える方が自然にも思える。
いずれにしても、家重の遺体は発掘調査後に火葬されたため、女性説の真偽を科学的に解明する術はなくなってしまった。
頻尿との関連があるのかないのかは不明だが、家重の死因は尿路感染症や尿毒症などが疑われている。尿路感染症は尿道の短い女性がかかりやすい病気であることも根拠とされている。
家臣の前であまり話をしなかったのは、脳性麻痺の影響で言葉が不明瞭だったからと言われているが、実は女性声を隠すためのカモフラージュだったとも考えられる。