実は私、〇〇でした
グルメ将軍、伊達政宗のお料理レシピ
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あと数年生まれてくるのが早ければ、天下人になっていたかもしれないと言われる伊達政宗。1581年(天正9年)に14歳で初陣を飾ると、破竹の勢いで畠山氏や蘆名氏を倒し、東北各地を制覇した泣く子も黙る戦国武将だ。しかし、実は料理好きという一面も。地元仙台には、伊達政宗が生み出したと言われる料理が数多く存在する。

料理にまつわる伊達政宗の名言

伊達政宗

伊達政宗

伊達政宗は毎朝起きて身支度を整えると、閑所(かんじょ)という畳二枚ほどのトイレ付きの小部屋にこもり、その日食べる献立を考える習慣があった。閑所には刀掛けや棚がしつらえてあり、硯や紙、香炉が置かれていたという。

そんなグルメな政宗は、料理にまつわる数々の名言も残している。

「仮初にも人に振舞候は、料理第一の事なり。何にても、其の主の勝手に入らずば、悪しき料理など出して、差当り虫気などあらば、気遣い千万ならん」

「気ながく、心穏やかにして、よろずに倹約を用い、金を備うべし。倹約の仕方は不自由を忍ぶにあり、この世に客に来たと思えば何の苦もなし。朝夕の食事はうまからずとも誉めて食うべし。元来、客の身なれば、好き嫌いは申されまい。今日の行くを送り、子孫兄弟によく挨拶して、娑婆の御暇申するがよし」

「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理してもてなすことである」

「少しも料理心なきは、つたなき心なり」

「誰かをもてなすときに一番大事なこと、それは心のこもった料理を出すことである。それも主人自らが作った料理でなければならない。もし自分が作らず人任せにして、悪い料理を出して腹痛(虫気、むしけは腹痛もしくは生理痛)でも起こされたら、こちらの気遣いなどあったものではない。」

「気を楽に、心を穏やかにして、多少の不自由があっても倹約を心掛けるように。この世に客としてきていると思えば不足に思うことはない。朝食や夕食がおいしくなくても「おいしい」と言って食べること。元々、お客であれば好き嫌いを言う立場にはないのだから。そうやって生きて、あの世へ帰るときには家族や子供にちゃんと挨拶をして旅立てば良い。」

「人をもてなす際に一番重要なのは料理であり、そのメニューを管理するのは主人の仕事。」

「少しも料理の心得がない人は貧しい心の持ち主だ。」

伊達政宗ゆかりの食品

政宗が料理に目覚めたきっかけは兵糧の研究から。兵糧攻めという戦法があるように、戦において、兵糧の確保は、勝敗を左右しかねない重要な要素。

日持ちする上、旨い兵糧の開発は、配下の者達の士気も高めたことだろう。

仙台味噌

仙台味噌

仙台味噌

米麹を使った辛口の赤味噌で、関西の白味噌に比べると変質しにくいのが特徴。朝鮮出兵の折、政宗が持参した味噌だけが腐らなかったことから、他の武将達が欲しがったと言われている。

江戸時代になって仙台藩初代藩主となった政宗は、城下に「御塩噌蔵」(ごえんそぐら)という味噌蔵を建てて、大量生産を開始。江戸の味噌問屋にも払い下げられるようになった。

ずんだ餠

ずんだ餅

ずんだ餅

枝豆をすりつぶして砂糖を加え、餠にからめて食べる「ずんだ餠」。諸説あるが、ずんだ餠も政宗が考案したメニューのひとつと言われている。

なんでも、政宗が出陣するとき、陣太刀(じんたち)という儀礼用の太刀で枝豆を刻んで食したことから、「じんたち」が「じんた」、「ずんだ」と訛って、ずんだ餠になったという。

凍り豆腐(こおりどうふ)

豆腐を凍らせて乾燥させた「凍り豆腐」は、高野山名物の「高野豆腐」とルーツは同じ。したがって、政宗が考案したと言うと語弊があるが、兵糧に最適な保存食として凍り豆腐に目を付けたのは確かなよう。

仙台の凍り豆腐は、政宗が幼少の頃過ごした岩出山に住む斎藤庄五郎という人物が、奈良の小倉山で作り方を習い、持ち帰ったと言われている。

伊達巻

政宗はヒラメのすり身に玉子を混ぜて焼いた「平玉子焼」という料理を好んでよく食べていたことから、いつしかこれが「伊達焼」と呼ばれるようになり、伊達焼を巻き簀で巻いた物が「伊達巻」と呼ばれるようになったと言われている。しかし、真偽のほどは不明。

笹かまぼこ

笹かまぼこが誕生したのは明治のはじめ頃。政宗が考案した食品ではないが、「笹かまぼこ」という名称は、伊達家の家紋「竹に雀」の笹にちなみ、1935年(昭和10年)に仙台の蒲鉾店が名付けた。それまでは「ベロかまぼこ」や「木の葉かまぼこ」などと呼ばれていたという。

将軍へのおもてなし料理

江戸時代に入ると、徳川幕府は積極的な大名改易政策を行ない、言いがかりのような理由で多くの外様大名がお取り潰しになった。

将軍の機嫌を損ねれば、伊達家もいつ改易されてもおかしくなかった。そこで政宗は、江戸の仙台屋敷に将軍を招待し、得意の料理で取り入った。

第2代将軍徳川秀忠の場合

1628年(寛永5年)に秀忠を招待したときのこと。政宗が自ら膳を運ぼうとすると、秀忠の側近が「毒見がまだゆえ」と制止した。

すると政宗は「10年前ならともかく、今さら大御所さまに毒を盛って天下を取るつもりなどないわ! いや、昔だって戦で討ち取ろうとは思っても、毒を盛ろうなど考えたこともない」と大激怒。この騒動を聞いた秀忠は、かえって政宗の忠誠を感じて喜んだという。

第3代将軍徳川家光の場合

1630年 (寛永7年)に家光を招待した際は、全国から山海の珍味を集めて、豪華なおもてなし料理を振る舞った。

「伊達氏治家記録」によると、部屋を変えて2回の宴が催され、一の膳から最後のデザートまで約54種類もの料理が供された。そのなかには鶴の吸い物といった珍しい物も。鶴を食べることは当時でも珍しかったらしく、本物の鶴であることが分かるように、脚も添えられていたという。

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