実は私、〇〇でした
西郷隆盛の病気と怪我
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西郷隆盛の病気と怪我

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身長5尺9寸8分(約180cm)、体重29貫(約110kg)。現代人と比べても見劣りしない、たくましい体に恵まれた西郷隆盛。しかし、子供時代には腕の神経を切る怪我を負い、流刑された沖永良部島では病気に感染し、晩年は肥満にも苦しめられるなど、西郷隆盛の一生は病気や怪我との戦いの日々でもあった。

12歳-右腕が不自由になる

西郷隆盛

西郷隆盛

西郷隆盛は、1828年(文政10年)に鹿児島の下級武士、西郷吉兵衛のもとに生まれた。

兄弟が多く経済的には困窮していたが、郷中(薩摩藩の武士階級の子弟のための教育制度。近所の子供同士で学び合った。)では、ともに明治維新にかかわることになる大久保利通ら、良き友と出会い友情を育んだ。

西郷は12歳のとき他の郷中とのトラブルに巻き込まれ、右腕に怪我を負って高熱で三日間寝込んでいる。

相手が鞘に刺した日本刀(刀剣)で西郷を叩こうとしたところ、勢い余って鞘が抜け、腕の神経を切ってしまったのだ。これにより、日本刀(刀剣)が持てなくなってしまったため、学問で身を立てることを決心したという。

30歳-月照とともに入水自殺を図る

成長して薩摩藩主、島津斉彬(しまずなりあきら)に見いだされた西郷は、斉彬のもとで、攘夷活動や、将軍継嗣問題に奔走した。

しかし、これは幕府の意向に逆らうものだった。1858年(安政5年)4月に幕府の大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)は、攘夷を推進し次期将軍に一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を推した一派を徹底的に弾圧。西郷達も目を付けられた。

清水寺

清水寺

さらにタイミングの悪いことに、この頃、島津斉彬が急死。直弼の弾圧の手は、攘夷派の清水寺の僧、月照(げっしょう)に及んだ。

西郷は月照を薩摩に逃がそうとするが、藩は幕府の追求を怖れて受け入れを拒否。そればかりか、月照の殺害をほのめかした。

行き場を失い絶望した西郷と月照は、錦江湾に身を投じた。2人はすぐに救助されたが、月照はあえなく死亡。

西郷はなんとか蘇生し3日目に意識を回復したが、月照を死なせひとり生き残ったことを悔やみ、後追い自殺しそうなほど塞ぎ込んだという。

西郷隆盛の座右の銘に「敬天愛人(けいてんあいじん)」がある。

天を敬い、天命に従って生き、天が人を愛するように、自分や人を愛して生きていこうという思いが込められているという。

このできごとをきっかけに、生き残った意味を考える中で辿り付いた境地だ。

34歳-病気(フィラリア症・象皮症)に苦しめられる

フィラリア症に感染し、象皮症という病気を発症してしまった西郷隆盛。ここでは、病気を患った経緯や、フィラリア症・象皮症の病気について見ていく。

西郷隆盛が病気にかかった経緯

入水自殺で一命をとりとめた西郷隆盛は、幕府からの追求を逃れるため、約3年間奄美大島に潜居した。1861年(文久元年)に呼び戻されるが、斉彬のあとに藩主となった島津久光(しまずひさみつ)との折り合いが悪く、翌年、再び沖永良部島に流されてしまった。

そして、沖永良部島の牢は風雨もしのげないほど粗末で、西郷隆盛はフィラリアに感染した。

西郷隆盛を苦しめた病気

フィラリア症という病気は蚊を媒介して、糸状の寄生虫が人のリンパ管やリンパ節に寄生し、体の末梢部の皮膚が増殖して硬くなる象皮症や、陰嚢に水がたまる陰嚢水腫などを引き起こす、とても恐ろしい病気である。

西郷隆盛の病気に関する逸話

西郷隆盛も晩年は病気によって陰嚢が人の頭ほどに腫れ、馬に乗れないため、いつも篭を使っていたという。

西郷隆盛は1877年(明治10年)に西南戦争に敗れ、別府晋介(べっぷしんすけ)の介錯で自害。西郷隆盛の首は見つからないように隠された。首のない遺体を西郷と決定づけた物は、病気が原因で腫れ上がった下半身だったというから切ない。

45歳-肥満のためダイエットを始める

1864年(元治元年)、沖永良部島からの復帰を許された西郷は、薩長同盟の締結や王政復古に尽力。

1868年(慶応4年)から1869年(明治2年)まで続いた戊辰戦争(ぼしんせんそう)では、新政府軍の指揮官として戦って勝利。徳川方の勝海舟と会談して、江戸城無血開城を果たした。

  • 勝海舟

    勝海舟

  • 岩倉具視

    岩倉具視

明治新政府では廃藩置県を行なった他、1871年(明治4年)から1873年(明治6年)まで、新政府首脳の岩倉具視(いわくらともみ)や大久保利通(おおくぼとしみち)らが条約改正のため欧米各国を歴訪する間の留守政府を担った。

留守政府では、朝鮮に開国を勧めるため遣韓使節として自ら朝鮮に行くことを提案するが、帰国した岩倉や大久保らと対立して辞職。西郷は鹿児島に戻って私学校を設立し、西南戦争に突入していった。

西郷隆盛の過激なダイエットプログラム

西郷が遣韓使節を志願した背景には、自身の体調不良があったと言われている。

薩摩名物の豚骨や甘い物に目が無かった西郷はかなりの肥満で、40歳を超えて胸の痛みを訴えるようになった。これを心配したのが、親交のあった明治天皇。

ドイツ人侍医のテオドール・ホフマンの診察を受けさせると「中風」(今で言うところの脳卒中)の危険ありとの診断。厳しいダイエットプログラムが用意された。

その内容は、1日5回の下剤(ひまし油)と食事制限と運動療法。元来、真面目な性格だったのだろう、下剤の服用で下痢をして体力が弱っている上に、少ない食事で、愛犬を連れて毎日ウサギ狩りに出かけた。

その甲斐あって体重は3年間で30kgほども落ちたというが、この厳しいダイエットは精神も衰弱させてしまった。当時、板垣退助(いたがきたいすけ)に宛てた手紙には「遣韓使節は暴殺されると思うので、私を派遣してほしい。死するくらいのことはできるのでよろしくお願いしたい」と悲壮感がただよっている。

厳しいダイエットがなければ、遣韓使節を志願することもなく、その後の西南戦争に突き進むこともなかったのかもしれない。

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