徳川十五代将軍

第9代将軍/徳川家重

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「徳川家重」(とくがわいえしげ)が徳川幕府9代将軍となったのは、数えで36歳のときでした。しかし、将軍となったことで大きな困難に直面します。徳川家重は、生まれながら身体に障碍(しょうがい)があり、人とコミュニケーションを取ることが難しかったのです。それでも将軍としての職務を果たした徳川家重は、一体どのように仕事をこなしたのでしょうか。何よりもまず、彼自身の身体と戦わなければならなかった徳川家重の、将軍としての生き様をご紹介します。

徳川十五代将軍徳川十五代将軍
江戸時代を語る上で欠かせない徳川十五代将軍の姿を紐解きます。

理解されない長福丸の気持ちと、危うかった将軍就任

将軍徳川吉宗の長男・長福丸が生まれたときの状況

1711年(正徳元年)、徳川御三家「紀州藩」(きしゅうはん)の5代藩主「徳川吉宗」(とくがわよしむね)に長男が誕生しました。江戸の紀州藩邸で生まれたその子の名前は「長福丸」(ながとみまる)。のちの「徳川家重」(とくがわいえしげ)です。5年後の1716年(享保元年)に、父親の徳川吉宗が8代将軍に就任することになりました。そこで、長福丸も父と共に「江戸城」(えどじょう)に入ります。

元服し結婚もした長福丸こと徳川家重を悩ませる障碍とは

徳川家重

徳川家重

長福丸は、1725年(享保10年)に14歳で元服し、名を徳川家重と改めました。

そして1731年(享保16年)には、20歳で皇族の伏見宮14代当主である「伏見宮邦永親王」(ふしみのみやくにながしんのう)の第4王女「増子女王」(ますこじょおう)と結婚。

徳川家」(とくがわけ)に生まれた嫡男として順調に成長しているようでしたが、実は徳川家重は大きな問題を抱えていたのです。

徳川家重は、生まれながらにして身体が弱く、障碍(しょうがい)を持っていました。

そのため言語が不明瞭で、コミュニケーションを取ることが大変難しかったと伝えられています。

周囲の人に理解されにくい徳川家重は、幼い頃から江戸城の大奥に籠もることがほとんどでした。

青年となってからは、酒や色事にふけってばかりの不摂生な生活を送り、学問にも武芸にも興味を示しません。

ただひとつ、江戸時代の武家達に人気があった「猿楽」(さるがく:滑稽な物まねなどを演じる伝統芸能)を観ることだけは大好きで、そればかりだったと言います。

当時、来日していたオランダ人学者「イサーク・ティチング」が、徳川家重の言葉はまるで合図のようだったと感想を述べるほど、徳川家重のことを深く理解できる周りの人間は少なかったのです。病気がちだったという徳川家重は、自分の苦痛を酒や芸能で和らげていたと思われます。

徳川家重は女性だった!?
戦国武将を主に、様々な珍説をまとめました。

徳川吉宗と取り巻く人々の徳川家重への思惑

徳川吉宗

徳川吉宗

そんな長男を見て、将軍・徳川吉宗は悩みました。

人とのコミュニケーションが取れず、酒や猿楽に時間を費やしてばかりいる虚弱な徳川家重を見て、家臣達は次期将軍にふさわしいのか疑問に思ったのです。

徳川家重には、4歳年下の弟「徳川宗武」(とくがわむねたけ)と9歳年下の「徳川宗尹」(とくがわむねただ)がおり、特に徳川宗武は幼少より聡明で、勉学もよくすると評判でした。

そのため、家臣達のなかには、徳川宗武を「継嗣」(けいし:跡継ぎ)として推す者もいたとされます。特に、老中の「松平乗邑」(まつだいらのりさと)は徳川宗武を強く勧め、徳川家重の嫡子としての権利をなくしてしまう「廃嫡」(はいちゃく)を提言するほどでした。

やはり9代将軍は徳川家重に決定!その理由とは?

しかし徳川吉宗は、徳川家重を将軍にしなかった場合のデメリットについても考えなければなりません。もともと徳川家では「直系の長男による相続」が大原則です。それを破ってまで徳川宗武を将軍にすることで起こり得る、徳川家内部での争いは避けたいところでした。

さらに、徳川吉宗の胸中にあったのは自分の孫「徳川家治」(とくがわいえはる)のこと。徳川家重と側室の間に生まれた徳川家治は大変聡明で、徳川吉宗はそんな孫のことを可愛がり、期待していました。徳川家治にいずれ将軍を継がせるまでの間、徳川家重を将軍にしておく考え方もあったのです。

このように深く悩んだ結果、ついに徳川吉宗は徳川家重を将軍に就任させることに決めました。1745年(延享2年)、晴れて9代将軍・徳川家重が誕生したのです。ただし、徳川吉宗は完全に引退せず、「大御所」(おおごしょ)として政治の実権を握り続けました。

一方、ついに将軍となった徳川家重も動きます。自分の将軍継承について周囲の者が好き勝手に意見していたことは分かっていました。将軍就任後、徳川家重は自分を廃嫡しようとしていた松平乗邑を老中職から罷免して減封に、そして弟の徳川宗武にも謹慎を命じます。3年後には、徳川宗武の謹慎を解きましたが、生涯自分への謁見を許さなかったとのことです。

そののち、1751年(宝暦元年)に徳川吉宗が亡くなりました。ぎりぎりまで大御所として政治の実権を握っていた父親がいなくなり、そこから徳川家重の本当の政治力が試される時代となったのです。

徳川家重と大岡忠光。たった1本の絆が支える政治とは

田沼意次を発掘した徳川家重の眼力

徳川吉宗の死後、第9代将軍・徳川家重の前には、1755年(宝暦5年)の凶作や、徳川吉宗が推進した「享保の改革」(きょうほうのかいかく)による増税に反抗する「一揆」(いっき)など、解決しなければならない問題が山積していました。

言葉が上手く話せず、政務を円滑に行なえない徳川家重でしたが、それを補うため、優秀で信頼できる人材を自分の側に付ける「側用人制度」(そばようにんせいど)を復活させて政務をこなしたのです。

田沼意次

田沼意次

徳川家重は、「田沼意次」(たぬまおきつぐ)を重用しました。

後世、汚職政治家の印象が付きまとった田沼意次ですが、近年、彼に関する研究は進んでおり、経済に明るく、革新的な考えを持つ有能な人物だったことが分かっています。

田沼意次の父親は、足軽出身でありながら徳川吉宗に仕える幕臣となった人物です。

その関係で田沼意次は、徳川家重の小姓を務めていました。

やがて徳川家重の将軍就任に伴って将軍の側で働き、最終的には大名にまで出世。田沼意次は農民や藩主、幕府の要人までを巻き込む裁判を担当するなど、難しい役割をこなしています。徳川家重は、その才能を早い時期から見抜いていたのでした。

徳川家重を理解できる唯一の側近こそ真の友だった

徳川家重にはもうひとり、そして最も重要な側近がいます。それが「大岡忠光」(おおおかただみつ)です。彼がいなければおそらく徳川家重は、将軍として機能しなかったと考えられます。

将軍職に就いて以降、健康状態がますます悪化した徳川家重は、言葉の不明瞭さも進行させていました。誰も彼の話すことを理解できなかったなか、唯一言葉を聞き分けることができたのが、16歳から小姓として徳川家重に寄り添っていた、大岡忠光だったのです。

この大岡忠光は、テレビ時代劇などでも知られた「大岡越前守」(おおおかえちぜんのかみ)こと「大岡忠相」(おおおかただすけ)の遠縁に当たり、親交もありました。大岡忠相は町奉行として、将軍・徳川吉宗の享保の改革を支えましたが、大岡忠光はその子である将軍・徳川家重を支えたのです。

大岡忠光は、非常に高潔で真面目な人物でした。将軍の側用人として重用されながらも、それに奢って横暴に振る舞うことは決してありません。徳川家重の話が分かる大岡忠光は、将軍の怜悧(れいり:頭が良いこと)な頭脳に気付いていたのです。

誠意を持って徳川家重の言葉に耳を傾け、粛々と将軍の政治を実行していった大岡忠光。徳川家重にとって大岡忠光の存在は、非常に心強かったと思われます。側用人・大岡忠光を信頼する徳川家重と、将軍・徳川家重を立てる大岡忠光との間には、主君・家臣の関係を超え、真の友情が育まれていきました。

将軍・徳川家重を悩ませる問題の数々

宝暦の飢饉

徳川家重の治世は、比較的安定していた時代ではありますが、それでも頭を悩ませるできごとは数多く起きています。

1754~1757年(宝暦4~7年)にかけ、東北地方を「宝暦の飢饉」(ほうれきのききん)が襲いました。大洪水、冷害、長雨などによる凶作が続いたのです。米はおろかヒエ、アワ、栗、豆などの雑穀類も採れず、それらの市場価格も高騰。現在の岩手県宮城県青森県などで約5~6万人の餓死犠牲者が出ています。

郡上一揆

1754年(宝暦4年)の「強訴」(ごうそ:掟に反し、集団で領主に訴えること)に始まる、「美濃国郡上藩」(みののくにぐじょうはん)で起きた大規模な一揆が「郡上一揆」(ぐじょういっき)です。

もともと豊かではなかった藩領のところに、藩主の派手な生活などで圧迫された藩の財政を、さらなる増税で安易に解決しようとした藩に対する農民の一揆でした。

藩からの弾圧に農民達が耐えかね、ついに老中への「駕籠訴」(かごそ:大名などの乗る駕籠が来るのを待ち、直訴すること)と呼ばれる直訴を決行。しかも同時期に、郡上役人の汚職騒動も勃発したこともあり、藩政の惨状を幕府が知ることとなります。藩や幕府の要人をも巻き込んだ事件は、一地方の一揆から幕府評定所で裁判が行なわれる大きな事件に発展しました。

宝暦治水事件

1754~1755年(宝暦4~5年)に幕府の命令によって「薩摩藩」(さつまはん)が担当した木曽川、長良川、揖斐川(いびがわ)の治水工事に伴った事件が「宝暦治水事件」(ほうれきちすいじけん)です。

幕府の指揮下にありながら、薩摩藩の資金で行なう工事は、薩摩に大きな負担がかかり、不満が募りました。幕府側の不適切な指揮のために作業がはかどらず、幕府へ抗議のために自害した藩士が51名、現場での揉め事で自害した幕府役人も2名、人柱で殺害された者が1名。

さらに赤痢の発生で、過酷な労働と粗末な食事により体力の弱っていた者33名が病死しています。このような悲惨で過酷な労働を強いた、幕府と将軍・徳川家重は怨みを買いました。

宝暦事件

1758年(宝暦8年)に起きた、幕府による日本の歴史上初の尊王論者を弾圧する事件が「宝暦事件」(ほうれきじけん)です。

「尊王論」(そんのうろん)とは、将軍よりも天皇を尊ぶ思想。尊王論者「竹内式部」(たけのうちしきぶ)が、公家達を相手に行なった尊皇思想についての講義に、当時まだ10代の若さだった「桃園天皇」(ももぞのてんのう)までもが参加し、天皇中心の朝廷政治に、興味を持ち始めました。

しかし、この尊王論が朝廷内に広がって朝廷と幕府の関係が悪化することを恐れた公卿(くぎょう)が、における幕府の出先機関「京都所司代」(きょうとしょしだい)に告発したのです。危険思想を広めたとされる武内式部は、幕府により京から追放され、尊王論の講義を受けていた公家ら8人も謹慎処分となりました。

人事能力に優れた第9代将軍・徳川家重の終焉は側近の死

将軍徳川家重の功績

先述した様々な問題に耐え、解決するために取り組んだ将軍・徳川家重の在任期間は15年。側用人・大岡忠光と田沼意次の力を借りながら、徳川家重は幾つもの功績を残しています。

経済政策では、幕府の財務を監査する「勘定吟味役」(かんじょうぎんみやく)を充実させ、幕府各部局の予算制度を導入しました。醸造業(じょうぞうぎょう)の免許制度を整え、酒造の統制も行なっています。

また、徳川将軍家の血筋を絶やさないための御三家に次ぐ「御三卿」(ごさんきょう)の体制を確立し、将軍家を強化しました。

さらに、郡上一揆に際しては、徳川家重の鋭い洞察力が光ります。徳川家重は、複雑化した問題の背後に幕府要人がかかわっていることを見抜いたのです。徹底究明を命じられた田沼意次が見事に手腕を発揮し、将軍の期待に応えた上、徳川家重の政治的・行政的手腕も世に知らしめました。

大岡忠光の死は、将軍の終わり

郡上事件も決着し落ち着いた頃、徳川家重にとって悲しむべきことが起きてしまいます。1760年(宝暦10年)6月9日、徳川家重の側用人・大岡忠光が亡くなったのです。享年52歳。

そのとき49歳の徳川家重には、まだ政治家としてやりたいことがあったと推定されますが、徳川家重が取った行動は、将軍職を退くことでした。真の友であり、盟友であった大岡忠光を失った徳川家重は、自らの意志を正確に周囲へ伝えて政治を執り行なうことなど無理だと悟っていたのです。大岡忠光の死は、つまり第9代将軍・徳川家重の終わりでした。

徳川家重は、同月25日に長男である徳川家治に将軍職を譲り、大御所となっています。しかし、翌1761年(宝暦11年)6月12日、享年50歳で死去。自分のことを最も良く理解してくれた人物が去ったあと、ときを置かずに徳川家重もこの世を去ってしまったのです。

鋭い頭脳と思うようにならない身体の葛藤

徳川家重の身体や発話(はつわ)の問題は、脳性麻痺が原因だったと考えられています。徳川家重の肖像画では、他の徳川将軍達の描写に比べ、口をすぼめるようにして描かれました。この表情も顔面麻痺によると思われます。

増上寺

増上寺

近年の1958年(昭和33年)、東京都港区の「増上寺」(ぞうじょうじ)にある徳川家将軍の墓を改葬する際に、徳川家重の遺骨について調査されました。

血液型はA型。徳川家重の頭蓋骨は、歴代の徳川将軍の内、骨が確認されている者の中で、最も整った気高い顔立ちだったと、調査にあたった人類学者の「鈴木尚」(すずきひさし)氏がコメントしています。

また、徳川家重の歯が日常的な歯ぎしりのせいで、かなり磨滅していたことが確認されました。これは、アテトーゼタイプの脳性麻痺の典型的症状です。

現代の医学なら、徳川家重の身体を正確に診断できますが、江戸時代にはその障碍は正しく理解されていませんでした。徳川家重は、頻尿にも悩まされており、人からは陰で「小便公方」(しょうべんくぼう)などと揶揄されたと言います。徳川家重の死因も、尿路感染か尿毒症だったのではないかとの推測もあるのです。

このように、徳川家重が死ぬまで続けなければならなかった、自分の身体との孤独でつらい戦いの痕跡は、彼の遺骨にも残されました。

徳川家重を彷彿とさせる佩刀「長船長光」の太刀

徳川家重の佩刀として徳川家に伝わっていた2尺6寸7分(約80.9cm)という長寸の太刀があります。重要美術品認定されたこの刀剣は、「長光」(ながみつ)。

鎌倉時代に備前国(びぜんのくに:現在の岡山県)で隆盛を誇った長船派2代当主「長船長光」(おさふねながみつ)による作品です。長光の刀剣は国宝重要文化財に指定されている作品も多く、日本史上最高峰の刀工のひとりと言われています。

徳川家重の長光は、国宝作品として知られる「大般若長光」(だいはんにゃながみつ)のような華やかさとは一味違う、堅実な太刀姿の格調高い刀剣です。静かな存在感と、抜けば触れる物すべてを斬るような鋭い刃は、人々に理解されなかった徳川家重が、実際には鋭い目と、怜悧な頭脳を持つ将軍だったことと似ていると言えます。

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