実は私、〇〇でした
おくのほそ道で忍者、松尾芭蕉に託されたミッションとは?
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おくのほそ道で忍者、松尾芭蕉に託されたミッションとは?

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おくのほそ道で知られる江戸時代前期の俳人、松尾芭蕉。「閑さや岩にしみ入る蝉の声(しずけさや いわにしみいる せみのこえ)」、「五月雨をあつめて早し最上川(さみだれを あつめてはやし もがみがわ)」など、旅の途中に見た風景を詠んだ句は、東北の豊かな自然をありありと想像させ、旅情を誘う。そんな、きな臭い話とは無縁そうな松尾芭蕉だが、その正体は忍者で、おくのほそ道は幕府の密命を受けた隠密の旅だったという説がある。

おくのほそ道の旅に出るまでの松尾芭蕉

伊賀での芭蕉

1644年(寛永21年)、芭蕉は忍者の里で知られる伊賀国に生まれた。

父は無足人(むそくにん:苗字と帯刀を許された農民)の松尾与左衛門(まつおよざえもん)。母ははっきりしないが、一説には、伊賀流忍術の祖とされる百地丹波(ももちたんば)の子孫と言われている。

忍者の里に生まれ、忍者の血を受けついでいることも、芭蕉忍者説のひとつの根拠となっている。

  • 松尾芭蕉

    松尾芭蕉

  • 藤堂高虎

    藤堂高虎

成長した芭蕉は、伊勢や伊賀を治めていた藤堂高虎(とうどうたかとら)の流れをくむ藤堂良忠(とうどうよしただ)に仕えるようになる。

芭蕉が俳句に目覚めたのは、良忠の影響と考えられる。良忠は松永貞徳(まつながていとく)や北村季吟(きたむらきぎん)に俳句を学び、蝉吟(せんぎん)という俳号を持っていた。

年の近かった芭蕉と良忠は、主従を超えた友情関係を育んでいたのだろう。やがて芭蕉も北村季吟に師事して俳句をたしなむようなった。

しかし、1666年(寛文6年)に良忠が若くして急逝。芭蕉は1675年(延宝3年)に藤堂家を出て、江戸に向かった。

江戸での芭蕉

江戸で生活を始めた芭蕉は、当時江戸で流行っていた談林派俳諧(だんりんははいかい)に影響を受け、奥州俳壇の始祖と呼ばれる磐城平(いわきたいら)藩藩主の内藤義概(ないとうよしむね)らと交流を持った。

しかし、経済的に困窮したのか、はたまた藤堂家との関係か、1677年(延宝5年)から4年間、神田上水の水道工事にも携わっている。藤堂藩は高虎以来、築城や土木水利技術に長けていたという。

その後、宗匠(そうしょう:師匠)となった芭蕉は深川に暮らし、「侘び(わび)、寂(さび)、撓り(しおり)、細み(ほそみ)、軽み(かるみ)」を重んじる蕉風俳諧を確立した。

1694年(元禄7年)に50歳で亡くなった芭蕉。晩年10年間は、敬愛する平安・鎌倉時代の歌人、西行(さいぎょう)にならって吟行の旅に出て、「野ざらし紀行」や「更科紀行」を生んだ。

隠密の旅おくのほそ道の旅に出発

芭蕉が弟子の河合曽良(かわいそら)を伴っておくのほそ道の旅に出発したのは1689年(元禄2年)、45歳のこと。この旅が隠密の旅だったのでは?という説は、いくつかの疑念から生まれた。

疑念1 不自然な行程

出発前、芭蕉は「松島の月まづ心にかかりて(まつしまの つきまずこころ にかかりて)」と松島を訪れることを楽しみにしていた。しかし実際は、肝心の松島では1泊しかしていない。場所によっては13泊、10泊と長期滞在しているにもかかわらずだ。

日光東照宮

日光東照宮

このことから、松島観光はカモフラージュで、仙台伊達藩内で他に遂行すべきミッションがあったのではないかという発想が生まれた。

そのミッションとは、仙台伊達藩の動向を探ること。当時、仙台伊達藩は幕府から日光東照宮の修繕を命じられていた。

これには莫大な費用がかかることから、幕府は不満を持った伊達藩が謀反を起こすのではないかと警戒していたという。

疑念2 強すぎる足腰

おくのほそ道は東北・北陸を巡って美濃に入る、長六百里(約2,400km)、約5ヵ月の旅だった。長いときで1日に十数里(約40km)歩いたことから、「年齢のわりに健脚なのは忍者だからにちがいない」と、芭蕉忍者説を後押しした。

しかし、車も電車もない江戸時代の人々にとって、40km程度は何でもなかったとも言われている。

疑念3 旅の資金と手形はどこから?

5ヵ月にわたって旅を続けるには相当な資金が必要だ。また当時、関所を通るには通行手形が必要で、庶民の旅行は今よりも不自由だった。

幕府の命を受けた隠密旅だったからこそ、芭蕉は自由に動き回ることができたのではないかという主張もある。

疑念4 「曽良旅日記」との齟齬

弟子の曽良が記した旅の記録「曽良旅日記」とおくのほそ道の間には、行程などに多数の齟齬(そご:くい違い)が見られるため、芭蕉は特別な意図があって違う日付や内容を記録したのではないかという説がある。

しかし実際のところは、おくのほそ道は旅を終えたあとに推敲(すいこう:文章を何度も練り直すこと)を重ねて完成した作品であり、日付や内容の齟齬は芭蕉の演出と考えられている。

疑念5 弟子の河合曽良は何者?

実は弟子の河合曽良こそ忍者で、芭蕉を隠れ蓑にして諜報活動を行なったのではないかという説もある。その根拠は、芭蕉の死後、1709年(宝永6年)に幕府の巡見使(じゅんけんし)随員として九州に渡ったことにある。

巡見使とは諸藩の政治状況や幕令の実施状況を調査するために、幕府が派遣する役人のこと。隠密か否かの違いはあれど、やっていることは諜報活動のようなもの。曽良こそ幕府の密命を受けておくのほそ道を旅した忍者だったのではないかという訳だ。

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