歴史上の実力者

大岡越前守忠相 ~徳川吉宗を名君にした名奉行~

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お白州(おしらす)で繰り広げられる「大岡裁き」は、テレビ時代劇ではお馴染み。数々の名俳優が演じ、天下の名裁きで視聴者を魅了する大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)は、実在した人物です。
名君・徳川吉宗(とくがわよしむね)の側近として、40歳という異例の若さで南町奉行に就任。そして8代将軍・徳川吉宗の治世、最大の出来事「享保の改革」では、徳川吉宗を支えたナンバー2として多大な功績を残しました。

大岡越前守忠相の出世街道

大岡忠相

大岡忠相

1677年(延宝5年)、大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)は、1,700石の旗本である大岡美濃守忠高(おおおかみののかみただたか)の四男として江戸屋敷に生まれました。

大岡氏は代々三河松平氏に仕え、通字(とおりじ:祖先から代々名前に付けられる一文字)である「忠」は、徳川家康の父、松平広忠(まつだいらひろただ)から与えられたと言われています。

1686年(貞享3年)、同族である大岡家2代当主・大岡忠真(おおおかただざね)の養子となり、1687年(貞享4年)に5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)に、初めて御目見(おめみえ)することになります。

しかし、1693年(元禄6年)、実兄・大岡忠品(おおおかただしな)が徳川綱吉の怒りを買って島流しを申し受け、さらに1696年(元禄9年)には、従兄弟・大岡忠英(おおおかただふさ)が上役(上司)を斬って自刃、世を去ったのです。

これにより大岡家は閉門となりますが、翌年には赦され、1700年(元禄13年)に義父・大岡忠真が病死すると大岡忠相が24歳で大岡家の家督を継ぐことになります。

1702年(元禄15年)に徳川将軍直属の親衛隊である書院番(しょいんばん)に就くと、1704年(宝永元年)に徒頭(かちがしら:将軍外出のおり、徒歩で先駆け務める役人をまとめる役職。街道の整備も行なった。)、1707年(宝永4年)に使番(つかいばん:諸国を巡回して大名の治績動静を視察する役職)、翌年に目付(めつけ:旗本・御家人の監察を行なう役職)、と順調に出世しました。

時代は6代将軍・徳川家宣(とくがわいえのぶ)の世となり、1712年(正徳2年)、36歳の大岡忠相は幕府が設けた遠国奉行(おんごくぶぎょう:要地である幕府直轄領の政務を行なった奉行の総称)のひとつである伊勢山田奉行に就任し、同年、従五位下能登守に任じられます。

徳川吉宗も認めるほどの名奉行っぷり

大岡忠相が伊勢山田奉行として在任したその5年間には、後世まで語り継がれるほどの名奉行っぷりが逸話として残っています。

そのひとつが、紀州藩主を務めていた頃の徳川吉宗に認められることになったある出来事。

当時、伊勢山田奉行の管轄内では、たびたび幕府領と紀州藩領の境界争いが生じていました。代々の伊勢山田奉行は、徳川御三家である紀州藩を恐れ、明確な判定を下すことを避けていたのです。

しかし、大岡忠相はその権威に屈することなく公正に判断をした上で境界を定めます。この境界はなんと紀州藩領内に引かれました。それにもかかわらず、徳川吉宗は大岡忠相の裁断に甚く感心したのだとか。

この出来事は後世の創作であると言われていますが、大岡忠相が弱冠40歳で江戸町奉行に抜擢されたことを考えると、なくはない話かもしれません。

徳川吉宗の享保の改革が成功したのは大岡忠相のおかげ

1717年(享保2年)、40歳という若さで南町奉行に就任した大岡忠相。当時の奉行の平均年齢は60歳前後であったことを考えると、かなりの大抜擢だったと言えます。

信頼する大岡忠相に徳川吉宗が命じたのは、「享保の改革」の推進役。では大岡忠相が行なった改革を紹介しましょう。

消防署の元祖「町火消し」を組織

江戸は世界でも類を見ないほどの、火事が頻発する都市でした。

100万人が暮らす世界有数の大都市でしたが、木造住宅が多く、火事になれば隣の家を壊して消火するしかなかったのです。そしてこの消火作業を行なったのが町火消しです。

大岡忠相は、江戸の町を火事から守るために、1718年(享保3年)、町火消し(まちびけし)を創設。火事を前にして威勢よく働く男達は、江戸の粋な名物として非常に人気がありました。なかには女性ファンが付いた火消しもいたようです。1720年(享保5年)には、いろは48組、深川16組が組織されました。

また、瓦葺屋根や土蔵などの防火建築を奨励、道幅を広げて延焼を防止し、避難路としても活用した広小路(ひろこうじ)、火除地(ひよけち)などを設置しました。

各町には町内会事務所と交番、消防署の機能を持った自身番(じしんばん)が設置され、自身番屋(自身番の詰め所)の屋根には、火の見梯子(はしご)と半鐘が設けられていました。火消道具も揃えてあったと言います。

これらによって、江戸の防火体制は強化されていったのです。

貧しい人々のヒーロー!?

目安箱

目安箱

1722年(享保7年)、大岡忠相は江戸幕府の薬草園「小石川御薬園」(こいしかわおやくえん)の中に、貧しい人や身寄りのない人達を無料で治療する医療施設「小石川養生所」(こいしかわようじょうしょ)を設置します。

この施設は、将軍徳川吉宗による享保の改革の政策のひとつ「目安箱」に寄せられた庶民の声から生まれ、1868年(明治元年)に明治維新によって廃止されるまでおよそ140年間、江戸の貧しい人々を支える医療施設として活躍していました。

サツマイモの栽培助成

1733年(享保18年)、大岡忠相は青木昆陽(あおきこんよう)を書物奉行に任命し、小石川御薬園他で飢饉のときの救荒食物(緊急時に備えて備蓄・利用される代用食物)としてサツマイモを試作。

江戸を始め、関東地方に栽培を普及させました。

「奥付」の義務化

現在でこそ書籍の最終ページに「奥付」(おくづけ:書物の巻末に、書名・著者・発行者・印刷者・出版年月日などを記したページ)が記載されていますが、これを義務化したのも大岡忠相です。

米将軍・徳川吉宗が誕生したきっかけ

徳川吉宗

徳川吉宗

徳川吉宗を「米将軍」とまで言わしめた幕府の物価対策。その推進役が大岡忠相でした。

当時、江戸の経済は、米価安の諸物資高という現象が起きていました。幕府の財政は火の車、旗本・御家人は生活に窮するという事態。

そこで大岡忠相は、1723年(享保8年)、相役(同じ役職)の諏訪頼篤(すわよりあつ)と連名で、七箇条から成る「物価引き下げに関する意見書」を提出します。

あまりの大胆さに一度は取り下げられたものの、同年幕府はこの意見書を受け入れ「物価引き下げ令」として発布。その対象となった品目は、米を原料に作る物、さらには米を食べている職人が作る物と、少々強引な対象品もあったようです。

大名になった大岡忠相

大岡忠相は、徳川吉宗から三河国西大平(現在の愛知県岡崎市)一万石を拝領し、正式に大名となりました。

町奉行から大名になった者は、江戸時代を通して大岡忠相だけです。

名君徳川吉宗と大岡忠相

1751年(寛延4年)、大御所(将軍職を退いて隠居すること)となった徳川吉宗が亡くなります。そして徳川吉宗の葬儀の手配中に、大岡忠相も体調を崩してしまいます。

寺社奉行を辞任し、自宅療養していた大岡忠相ですが、1752年(宝暦2年)に亡くなりました。

60歳までの約20年間、大岡忠相は江戸の市政・司法・治安を取り締まる名奉行として、徳川吉宗を支え続けました。徳川時代最大の名君として、徳川吉宗が語り継がれているのも大岡忠相の活躍あってこそです。

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