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茶の聖人・千利休はキリシタンだった!?

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「侘び茶」の大成者として、今日の茶道の道を切り開いた茶人、千利休。戦国時代の真っ只中、織田信長の時代に台頭し、豊臣秀吉のブレーンとして絶大な信頼を得ながら、最期は豊臣秀吉の命によって斬首の道を辿ることになります。その原因は、千利休がキリシタンであったからと言う説が存在します。その根拠とはいかに?

侘び茶の大成者千利休の誕生

千利休

千利休

千利休(せんのりきゅう)は1522年(大永2年)、大阪の港町・堺に生まれました。当時の堺は交易で栄えた日本一の商業都市。千利休は10代の後半から武野紹鷗(たけのじょうおう)に師事し、茶の湯を学んでいます。

武野紹鷗は「侘び茶」の祖である村田珠光(むらたじゅこう)に影響を受けたとされる人物で、千利休にもその教えが受け継がれました。

千利休は「見立て」(物を本来のあるべき姿ではなく、別の物として見ると言う物の見方)や「利休形」(千利休が定めた寸法で作られた茶道具)と呼ばれる独特の感性で侘び茶を築き上げ、その大成者として、多くの武将とも深いつながりがありました。当時、茶の湯の場は武将にとって最も大切な政治の場であったのです。

千利休は織田信長(おだのぶなが)の時代に頭角を現し、1574年(天正2年)に今井宗久(いまいそうきゅう)や津田宗及(つだそうぎゅう)に次ぐ三番手の茶頭(さどう)に選ばれます。そして、織田信長の死後、天下人となった豊臣秀吉(とよとみひでよし)の時代には筆頭茶頭に上り詰めます。

禁中茶会と呼ばれる天皇を招いての茶会で、正親町天皇(おおぎまちてんのう)より「利休居士」(りきゅうこじ)の号を与えられ、幼名の田中与四郎(たなかよしろう)から改名した千宗易(せんのそうえき)を改め、千利休と名乗るようになりました。

このときの禁中茶会は豊臣秀吉が関白に任命されたことを記念して行われたもので、豊臣秀吉にとって非常に大切な場でした。

千利休に下された切腹の命とその原因

大徳寺山門

大徳寺山門

千利休の自刃の理由として最もよく知られているものは、京都にある大徳寺の山門に千利休の等身大の木像を置いたことに対してというものです。大徳寺は臨済宗大徳寺派の大本山で、織田信長の菩提寺でもあります。

この木像が置かれた経緯ですが、そもそもは1589年(天正17年)正月に千利休が大徳寺の聚光院(じゅこういん)に家族の永代供養を願い出たことに始まります。同じ年に山門の2階部分の増築を行ったことに対して、寺側からの好意で木像が設置されました。

12月5日に山門には「金毛閣」(きんもんかく)と額が掲げられ、新築落成の祝賀儀式の法要である落慶法要がなされました。これに対し、勅使が通る山門の上に木像を置くとはなにごとだと豊臣秀吉は腹を立てたのです。

しかし、豊臣秀吉がこのことを理由にしたのは設置から1年も経ってからで、これは単なる口実にすぎないのではないかと言われています。千利休の木像はどうなったのかと言うと、1591年(天正19年)、千利休切腹の直前に一条戻橋に磔にされました。

千利休の首は、磔にされた木像に踏み付けられるかたちでさらされます。そのときの様子は「時慶日記」(ときよしにっき)や「多門院日記」など、当時の史料からも見て取れます。

千利休キリシタン説を裏付ける物とは?

山門の木像以外にも、豊臣秀吉の腹の内に秘められた本当の罪状として様々な説があります。

例えば、茶器売買の不正行為、豊臣秀吉との美意識の違い、朝鮮出兵への反対、千利休の娘を豊臣秀吉が所望し、それを千利休が断ったから等々が残ります。ちなみに、豊臣秀吉の申し入れを断った直後に娘は自害しています。その中でまことしやかに信じられているのが「千利休キリシタン説」です。

キリシタン大名として知られている大友宗麟(おおともそうりん)や、千利休の高弟7人のうち2番目に数えられるほど茶の湯の世界に受け入れられた高山右近(たかやまうこん)をはじめ、当時の茶人や大徳寺の僧にはキリスト教の洗礼を受けている者も多くいました。茶の湯が政治にとって意味を持つ時代。茶人として最高位にいた千利休は、当然そうした人々とつながりが濃く、自らもキリスト教を学んでいたとしてもおかしくありません。

しかも、千利休生誕の地、大阪・堺は、1550年(天文19年)にイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが京都へ向かうために平戸から降り立った場所。その後もイエズス会宣教師ジョアン・ロドリ-ゲスが日本の茶の湯をヨーロッパへ広めるなど、茶の湯が世界中に知られるきっかけとなった、キリスト教とは切っても切り離せない場所です。

対して、キリシタンの一揆を恐れた豊臣秀吉は、1587年(天正15年)に発令した伴天連追放令(ばてれんついほうれい)など、キリスト教の弾圧に着手していきます。豊臣秀吉にとって、千利休がキリシタンであるかどうかと言うことは見過ごせない噂だったのです。

そこで、豊臣秀吉が取ったのが千利休に切腹を命じることでした。キリスト教では自ら命を絶つことを禁止していますが、日本においては切腹をすることは一種の美学。千利休が切腹を申し出れば、疑いも晴れると言うわけです。

このとき、千利休と並び、大徳寺の和尚3人も尋問されます。そのうちの1人である古嗘宗陳(こけいそうちん)は尋問に対し、「木像のことは自分達で相談してやったことだ」とし、懐から刀を出し自害することを伝えたと言います。キリスト教が禁止している自害を申し出たことで、豊臣秀吉を納得させることができ、古嗘宗陳達は放免になったのだとか。

しかしながら、この時千利休は切腹を申し出なかったのです。切腹しないと言うことは、キリスト教の教えに則ると言う意思の表れでした。

一般に千利休は切腹をしたと伝わりますが、実は千利休が切腹をしたと言う直接的な記録は残っていません。さらに、豊臣秀吉は斬首された者が本人であるかを確かめる首実検をしなかったとされ、これも切腹の流儀に反する行為でした。その上、千利休の首は十字架のように磔にされた木像に踏まれ、見せしめにされたのです。

切腹に関して言えば、娘の死にもヒントがあります。千利休の死の直前に娘が自害していますが、自害を選ぶことで、父である千利休にかけられたキリシタンの疑いをかわそうとしていたと言う説です。

また、千利休と言うその名にもキリシタン説を匂わせる話が残ります。千利休の名を授けた正親町天皇の時代は、フランシスコ・ザビエルの後任者として、コスメ・デ・トーレスがキリスト教の布教活動を行っていました。

「センノリキュウ」と言う名の響きは、キリスト教の「ルカによる福音書」で知られている医者や画家の聖人「セント・ルカ」の響きに似ており、茶の湯の世界の完成者として、茶聖とも言われた千利休の洗礼名に由来するのではないかと言われています。

ちなみに「利休」と言う名は簡単に言うと「名利ともに休す」、つまり「名誉も利益も求めない」と言う意味です。

しかし、名が持つ意に反し、千利休は政治の舞台でその地位を不動のものにしていくことになります。その力は、大友宗麟が「利休以外には関白様に一言も物を申し上げられない」と書き記したほどでした。

加えて、千利休の木像が杖を持ち、雪駄履きであったことも大きな要因であったと指摘されています。雪駄は千利休が考案したと言われる履物で、草履の底に動物の皮を付けた物ですが、これが当時のイエズス会の宣教師達が履いていた履物と酷似していたのです。杖は司教が持つ杖のようでした。千利休が生み出した新しい花器にもその類似が見られました。

極め付けは、豊臣秀吉が茶の湯を通じてキリスト教の作法を教え込まれていたと言う話。千利休が構築した茶の湯の作法と様式には、カトリックのミサの作法や聖書的な教えが盛り込まれていると感じさせる部分がいくつもあります。

ひとつの茶碗の同じ飲み口から同じ茶を飲む「濃茶」の作法は、ミサのときにイエスの血の象徴であるワインを入れた杯を回し飲みする様子に、茶入れを拭くときの袱紗さばきや茶巾の扱い方などは聖杯を拭くしぐさに似ていると言われています。

また、茶室の「にじり口」はキリストの言葉である「狭き門から入れ」を象徴的に表したものではないかと言う説も。豊臣秀吉は茶の湯にのめり込むほど、知らず知らずのうちにキリスト教の教えを習得させられていたと言うことになります。そうした数々の疑いが千利休=キリシタンを連想させ、斬首と言う末路につながっていったのです。

そのあと、我に返ったのか、豊臣秀吉は千利休の死をたいそう悔やんだと言います。

千利休の教えを継いだ弟子達はそれぞれに茶の湯の道を発展させ、千利休が大成した侘びの心は、死後400年を経た現在も受け継がれています。

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