「服部半蔵」(はっとりはんぞう)は、誰もが一度は聞いたことのある歴史上の人物のひとりとして挙げられます。「伊賀の忍者」というイメージが強いと思いますが、実は服部半蔵という名は特定のひとりを指す名称ではなく、代々「半蔵」を名乗る服部半蔵家の当主達の通称なのです。 今回は服部半蔵家のルーツを探り、私達がいわゆる服部半蔵として思い描く「服部半蔵正成」(まさなり)の歴史を振り返ると共に、正成に伝来したと言われている名刀「直江志津」(なおえしづ)についてご紹介します。
聖徳太子
服部氏の先祖をたどると、その歴史は思った以上に古く、服部姓のルーツは「聖徳太子」が生きた飛鳥時代にまでさかのぼります。
聖徳太子と言えば、「推古天皇」(すいこてんのう)のもとで自身の大伯父に当たる豪族「蘇我馬子」(そがのうまこ)と共に政治を行なった人物。
遣隋使(けんずいし)を中国に送ってその文化を学び、「十七条の憲法」や「冠位十二階」(かんいじゅうにかい)等の制度を導入したことで知られています。
仏教を受け入れようとする聖徳太子と蘇我氏は、激しく対立していた排仏派の物部(もののべ)氏に「大伴細人」(おおとものひさと)という人物をスパイとして送り込み、物部氏側の情報を収集させました。細人は「志能使」(しのび)と呼ばれており、これがのちに「忍び」となって「忍者」の存在に繋がっていきます。この細人が、服部氏の故郷である伊賀の人間だったと言われているのです。
さらに、聖徳太子は伊賀の情報を集めるために服部一族を使っていたという伝承も語られているとか。このことから、服部氏は7世紀頃にすでに伊賀に存在していたと考えられています。
また「服部家譜」によると、服部氏は5世紀半ば頃に朝廷で織物の生産に従事した「織部司」(おりべのつかさ)に就き、「服部連」(はとりべむらじ)と称しました。これが服部姓の始まりとされ、その後子孫が伊賀国阿拝郡(いがのくにあえぐん:現在の三重県伊賀市)の服部郷を領地としたことから、そこが服部姓の発祥地となったのです。
松平清康
伊賀の服部氏族は、その後「上忍三家」(じょうにんさんけ)と呼ばれる「千賀地」(ちがち)、「百地」(ももち)、「藤林」(ふじばやし)の三家に分かれました。
このうち服部半蔵家の初代で服部半蔵正成の父にあたる「保長」(やすなが)は、伊賀北部を支配していた千賀地服部の出身で、千賀地服部家の庶流だったのではないかと考えられています。
服部半蔵家の通称である「半蔵」 (保長は[半三]と記したとも言われている)は、もともと千賀地服部宗家の通称とされていたようです。これを保長が真似て名乗りだしたことから、代々引き継がれるようになりました。
1530年(享禄3年)ごろ、保長は出身地である伊賀国花垣村(はながきむら:現在の三重県伊賀市)を離れて上洛し、室町幕府12代将軍「足利義晴」(あしかがよしはる)に仕えるようになります。
保長は将軍・義晴のもとで忍者としての働きを見せていたと言われていますが、衰退していく足利将軍家を離れて、三河国(みかわのくに:現在の愛知県東部)に渡ることを決意するのです。
足利将軍家を離れる際、保長は将軍・義晴から「安綱」(やすつな)の日本刀を与えられたと言われています。しかし、将軍家が決して地位の高くない忍者に対して、かの有名な「大原安綱」(おおはらやすつな)の日本刀を授けるとは考えにくく、この刀はその後、各地に広まった安綱銘の1振だったと考えられるのです。
こうして保長は将軍家から授かったという刀と共に三河国へ渡り、のちに江戸幕府将軍となる「徳川家康」の祖父「松平清康」(まつだいらきよやす)と出会って、三河松平氏に仕えることとなります。ここから服部半蔵家と松平・徳川家の関係が始まり、次代の半蔵正成に受け継がれていくのです。
大樹寺
1542年(天文11年)、三河国伊賀(現在の愛知県岡崎市)で保長の五男「正成」(まさなり)が誕生しました。この年、家康も岡崎城で誕生したため、のちに主従関係となる2人は同年齢ということになります。
正成は「武功記」(ぶこうき)において、「初年より筋骨健やかに力も尋常ならず候」とあることから、生まれたときから丈夫な体をしており、幼い頃から力持ちの暴れん坊としてすくすく育っていったようです。
正成は7歳になると両親からお坊さん修行に出されることになり、伊賀の町からも近く、松平家の菩提寺である「大樹寺」(だいじゅじ)に預けられました。元気はつらつとした正成にとって修行は退屈極まりなく、10歳になると両親に「出家は嫌だ」と訴えるようになります。
しかし、保長がこれを認めなかったため、力を持て余したわんぱく坊主の正成は、とうとう寺から逃走してしまったのです。寺から逃げ出した正成に激怒した保長は、正成を勘当することにしましたが、わんぱくな正成を可愛がっていた4人の兄達は、正成を救い出します。こうして正成は両親に勘当されたものの、弟を愛する兄達に匿われながら成長していきました。
正成が16歳の頃(年代は諸説あり)、初陣を果たします。伊賀衆の一員として、兄達と共に三河上郷城(かみのごうじょう)の夜襲に参陣した正成は、初陣にして敵を討ち取り戦功を挙げます。この首級を持って家康に拝謁した際に、家康から槍を拝賜し「汝の眼光、只者にあらず」との言葉をかけられたそう。このとき初めて家康との対面を果たし、正成は目見(めみえ:領主や将軍と対面できる身分)となりました。
服部半蔵正成
その後、正成は服部半蔵家の家督を継ぎ、半蔵正成として家康と共に戦場を駆け回り、忍者としてではなく「武将」として頭角を現していきます。
1569年(永禄12年)、家康が今川氏真(いまがわうじざね)の居城を包囲した掛川城(かけがわじょう)攻めでは、28歳の正成は使番(つかいばん)として戦場に入り、先頭に立って人も馬も大槍で薙ぎ倒しました。
戦場での正成の暴れっぷりは尋常ではなく、人を礫のように投げ飛ばし、飛ばされた人に当たった敵2人が血を吐いて死んだ、とまで記録されており、敵方は剛腕な正成を恐れ誰も戦いを挑まなくなったのだとか。
このとき正成は「鬼槍半蔵」と敵からも称えられ、その勇猛ぶりを世に知らしめることになりました。この戦い以降、正成は鬼半蔵という異名を持つことになります。
その後も正成は猛将として活躍し、武田軍との「三方ヶ原の戦い」(みかたがはらのたたかい)では戦には敗れたものの、正成は「一番槍」の功を挙げ、乱戦の中で槍を担いで暴れ回りました。この戦いのあと、正成は論功行賞を受けて槍一本を授かると共に、「伊賀衆150人」を預かることに。こうして着実に武功を挙げていった正成は、伊賀衆を束ねる身になったのです。
1575年(天正3年)、正成は34歳で徳川家の家臣である長坂(ながさか)家の娘を娶ります。その翌年に長男の「正就」(まさなり)が誕生し、正就はその後1596年(慶長元年)に55歳で亡くなった正成の家督を継ぎ、3代目半蔵となりました。
しかし、伊賀衆との間にできていた確執が原因で改易となり、正就は「大坂夏の陣」において行方不明となってしまうのです。その後、正成の次男「正重」(まさしげ)が兄に代わって跡を継ぎ、服部半蔵家は4代目以降幕末まで存続していくこととなりました。
正成は、1582年(天正10年)の家康最大のピンチとなった「伊賀越え」にも同行していました。家康は伊賀に詳しい正成を呼び出し、岡崎へ帰るまでの道案内を命じたのです。このとき、家康の身を護るために先頭に立っていた「徳川四天王」のひとり「本多忠勝」(ほんだただかつ)からも、「お前は伊賀にゆかりの者であるから、自分に代わって道案内せよ」と言われたそう。
正成は伊賀衆の忍者達に警護を頼み、独自のルートを組んで脱出成功へと導きました。その後、このときの恩に感謝した家康は、伊賀衆等の忍者を召し抱えて正成に統率させることにしたのです。
ここでご紹介する日本刀は、この伊賀越えで正成の道案内のもと協力して先導した本多忠勝に関する刀で、正成が彼の家老である「梶金平勝忠」(かじきんぺいかつただ)に贈った「直江志津」という名刀です。
直江志津は、美濃国多芸庄志津(みののくにたぎしょうしづ:現在の海津市南濃町志津)の地に「正宗十哲」のひとりである「兼氏」(かねうじ)が来て繁栄した一派。兼氏の門人がのちに同国直江へ移住して作刀したために、彼ら一門の刀工集団を2つの地名を合わせた直江志津と呼ぶようになったのです。
本刀は身幅が広く大鋒/大切先で、南北朝時代を感じさせる豪壮な姿が特徴的な1振となっています。