日本初の女性天皇、推古天皇のもとで数々の偉業をなしとげた聖徳太子(しょうとくたいし)。10人の声を同時に聞き分けるなどの超人的な伝説も多く、かつては1万円札の肖像にも選ばれた日本史上屈指のスーパースターですが、最近はその存在さえ否定されることもあります。主君である推古天皇との関係からその実像に迫ります。
聖徳太子/厩戸皇子
女性天皇として知られる推古天皇(すいこてんのう)は、554年(欽明天皇15年)生まれ。父は第29代欽明天皇(きんめいてんのう)、母は蘇我馬子(そがのうまこ)の姉の蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)です。
推古天皇は、蘇我氏が天皇と娘を結婚させることにより、権力の拡大を図るための政略結婚で誕生した皇女のひとりです。天皇になる前は炊屋姫(かしきやひめ)と呼ばれていました。
のちに夫となる第30代敏達天皇(びだつてんのう)は欽明天皇の皇子で、推古天皇にとっては異母兄でもあります。そして推古天皇は、敏達天皇との間に竹田皇子(たけだのみこ)をはじめ、5人の子をもうけました。
一方、聖徳太子(しょうとくたいし)は574年(敏達天皇3年)生まれ。父は推古天皇の同母兄にあたる第31代用明天皇(ようめいてんのう)。母は欽明天皇の娘で、推古天皇とは異母姉妹にあたる穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。つまり聖徳太子の両親は異母兄弟であり、推古天皇は母方・父方両方の叔母。2人の間には濃い血縁関係がありました。
推古天皇が女性初の天皇になった経緯については明らかになっていませんが、中継ぎ説が有力とされています。
585年(敏達天皇14年)、推古天皇が31歳のとき夫の第30代敏達天皇が崩御すると、第31代用明天皇が即位しますが、わずか2年で亡くなってしまいます。
蘇我氏と物部氏の対立
すると当時、朝廷に影響力のあった豪族の蘇我氏と物部氏(もののべし)が、皇位継承を巡って激しく対立。蘇我馬子は物部氏が推す穴穂部皇子(あなほべのおうじ)を殺害し、自らが推す泊瀬部皇子(はつせべのおうじ)を第32代崇峻天皇(すしゅんてんのう)として即位させました。
しかし、崇峻天皇の在位もわずか5年で幕を閉じることになります。即位した崇峻天皇は政治を牛耳る蘇我氏の存在を、やがて疎ましく思うようになったのです。
ある日、献上されたイノシシを前に「いつかこのイノシシのように、嫌いな者の首を斬りたいものだ」とつぶやいた崇峻天皇。これを聞きつけた蘇我馬子は自分の立場が危ういことを察し、崇峻天皇を暗殺してしまったのです。
こうなると難しくなるのが第33代天皇の人選。皇位継承権のある男子は、敏達天皇の第一皇子である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)や聖徳太子らがいましたが、誰が即位しても容易にまとまる状況ではありませんでした。そこで、朝廷での発言権があり、蘇我氏とも縁戚関係にある推古天皇に白羽の矢が立ったと考えられています。
一方で推古天皇も、将来は竹田皇子を天皇にしたいと考えていました。そこで、竹田皇子が成長するまでの中継ぎの天皇として即位することになったのです。しかし竹田皇子は、推古天皇の即位前後に亡くなってしまいました。
四天王寺
推古天皇は聡明な女性だったと言われ、即位すると聖徳太子を摂政に取り立てました。推古天皇も、蘇我馬子の専横を快く思っていなかったのです。しかし蘇我馬子の協力がなければ国を治めることができないことも知っていました。
この人事には、蘇我氏との勢力バランスを保ちながら、天皇中心の中央集権国家を目指そうという意図があったようです。そして蘇我馬子と聖徳太子の二頭政治(最高権力者が2人いる政治形態)が始まりました。
聖徳太子もこの期待に応え、摂政として実権を握ると、遣隋使(けんずいし)を派遣して中国のすすんだ文化を積極的に取り入れ、603年(推古天皇11年)に「冠位十二階」を、翌604年に(推古天皇12年)「十七条憲法」を制定。聖徳太子は、天皇中心の国際国家を目指した政治を行ないました。
聖徳太子は2つの目的を持って、先進国である「隋」(ずい:当時の中国)へ使者を派遣しました。
ひとつは、優れた文化や学問を学ぶこと。もうひとつは、途絶えていた中国との対等な立場での国交を再開することです。
2回目の派遣の際、聖徳太子が隋の皇帝「煬帝」(ようだい)に宛てた国書の「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。」(日の昇る国の天子から日が沈む国の天子に手紙を送ります。お変わりありませんか。)という書き出しを読んだ煬帝が激怒したというエピソードは有名です。
隋を「日が沈む国」と表現したことに怒った、日本の天皇が「天子」を名乗ったことに怒ったなど様々な解釈がありますが、この国書を運んだ遣隋使の小野妹子(おののいもこ)は、処刑されることなく国賓としてもてなされ帰国しています。
これは隋が高句麗(こうくり:当時の朝鮮半島北部)との戦争に苦戦しており、これ以上敵を作るわけにいかないという当時の国際情勢を知っていた聖徳太子の作戦であり、この国書により、日本は中国と対等の国であると認めさせることに成功しました。
天皇のもとで働く臣下を12の階級に分けて、それぞれの位に応じて色の異なる冠を授けるという日本初の人事評価制度「冠位十二階」。
儒教の徳目である、五常の仁・礼・信・義・智から取り、大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智の冠位に分けられました。「徳」は五常をあわせたものとして、最上位とされています。
この制度の導入によって、貴族の出身でなくとも有能であれば登用され、昇進のチャンスも与えられるようになりました。
「冠位」という用語は日本独自のものであると言われていますが、中国をはじめ、高句麗(こうくり)や新羅(しらぎ)、百済(くだら)といった国々ではすでに似たような人事制度があったため、外交上、日本も諸外国に負けない制度の整った国であることを示す効果もあったと言います。
ちなみに、前出の小野妹子は隋から帰国したあと、「大礼」から最上位の「大徳」に昇進しています。
十七条憲法は、憲法と言っても国民のためのものではなく、貴族や官僚に向けて道徳的な規範や心構えを説いた条文です。言わば、官人の心得です。
例えば第一条は「以和為貴、無忤為宗」(和をもって貴きとなし、さからうこと無きを宗とせよ)と始まります。
さらに仏教に帰依すること、天皇の命に従うこと、真心をもって民衆を治めることなどが続き、推古天皇と聖徳太子が目指した天皇中心の国造りの輪郭が見えてくるようです。
近年の研究では、聖徳太子の功績とされる膨大な事柄すべてを、たったひとりで行なったという説は否定されており、「聖徳太子」の称号に値する「すべてをひとりで成し遂げた」人物ではなかったという見方がされています。そのため、歴史の教科書には死去して50年後に贈られた聖徳太子という「称号」ではなく、「厩戸王[聖徳太子]」(うまやとおう)とカッコ書きで記されるようになりました。
厩戸王の正式な名前は厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)。この名前から馬小屋の前で生まれたというキリストめいた伝説もありますが、真相は闇の中。しかし、厩戸王という有能な皇子がいて、推古天皇を補佐していたことは間違いないようです。
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