武田信玄
武田信玄は、戦国武将の中でも最強と呼ばれた、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名です。もとの名は「晴信」(はるのぶ)でしたが、39歳で出家した頃より、「信玄」と号するようになりました。
幼少時から学問や武術に長けており、「神童」と称されていた武田信玄は、父・武田信虎(たけだのぶとら)からも疎まれます。
しかし、血を流すことなく、武田家の家督を相続することに成功したのです。
父の寵愛を受けた弟・武田信繁(たけだのぶしげ)は兄をよく支え、兄弟仲は良好だったと言われています。
武田信玄は、三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)で徳川軍を撃破しましたが、織田信長の本拠地陥落を目前にして、結核が悪化。甲斐への帰途において、その生涯を閉じました。
ここで武田信玄が倒れていなければ、その後の歴史は変わっていたとも考えられているのです。
武田信玄の代名詞とも言える「風林火山」は、古代中国の兵法書・孫子(そんし)にある軍争編の一節から引用された言葉。多くの戦国大名は、この「風林火山」を記した軍旗を見ただけで恐れたと言われています。
西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
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1521年(永正18年/ 大永元年) |
1歳 | |
1525年(大永5年) | 5歳 |
弟・武田信繁(たけだのぶしげ)が誕生。
父の寵愛が弟に移る。 |
1533年(仁安4年/ 嘉応元年) |
13歳 |
上杉の方(上杉朝興[うえすぎともおき]の娘)を正室として迎える。
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1536年(天文5年) | 16歳 |
元服して名を晴信と改め、継室として、三条の方を迎える。
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1541年(天文10年) | 21歳 |
海野平の戦い(うんのたいらのたたかい)に参加。武田家19代目の家督を相続。
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1542年(天文11年) | 22歳 |
父・武田信虎を、今川義元のもとへ追放。
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1543年(天文12年) | 23歳 |
諏訪家(すわけ)所領への侵攻を開始し、制圧に成功。
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1544年(天文13年) | 24歳 |
今川家と後北条家の対立(第2次河東一乱)を仲裁。
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1547年(天文16年) | 27歳 |
小田井原の戦いで上杉・笠原連合軍に大勝する。「甲州法度之次第」(信玄家法)を制定。
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1548年(天文17年) | 28歳 |
上田原の戦い(うえだはらのたたかい)で、村上軍に敗れる。塩尻峠の戦いでは、小笠原軍を撃破。
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1550年(天文19年) | 30歳 | |
1551年(天文20年) | 31歳 |
北信地方を除き、信濃国(現在の長野県)をほぼ平定。
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1553年(天文22年) | 33歳 | |
1554年(天文23年) | 34歳 |
嫡男・武田義信の正室に今川義元の娘を迎え、甲駿同盟を強化。娘を北条氏康(ほうじょううじやす)の嫡男に嫁がせ、甲相同盟を結び、甲相駿三国同盟成立。
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1555年(天文24年/ 弘治元年) |
35歳 |
川中島で再び長尾景虎(ながおかげとら:上杉謙信の初名)と対陣。
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1557年(弘治3年) | 37歳 |
信濃守護に補任される。
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1559年(永禄2年) | 39歳 |
長禅寺(現在の山梨県甲府市)の住職を導師として出家。「徳栄軒信玄」(とくえいけんしんげん)と号す。
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1561年(永禄4年) | 41歳 |
第4次川中島の戦い。
有力家臣を失い、武田信玄自身も負傷。 |
1564年(永禄7年) | 44歳 |
第5次川中島の戦い。上杉軍と対峙するも衝突せず。
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1566年(永禄9年) | 46歳 | |
1568年(永禄11年) | 48歳 | |
1569年(永禄12年) | 49歳 | |
1570年(永禄13年/ 元亀元年) |
50歳 |
駿河で韮山城(にらやまじょう:現在の静岡県伊豆の国市)を攻略するが、攻め落とせず。
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1571年(元亀2年) | 51歳 |
遠江国(現在の静岡県西部)・三河国(現在の愛知県東部)侵略を行い、5つの城を落とすが武田信玄が喀血(かっけつ)したため、甲斐に帰還。
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1572年(元亀3年) | 52歳 | |
1573年(元亀4年/ 天正元年) |
53歳 |