昨今の仏像ブームにより「仏像が好き」、「お寺めぐりが好き」という女性が急増中。そんな仏像や仏教に惹かれる女性達のことを、「仏像女子」と呼びます。彼女達は、仏像を観ると癒される、または安心した気持ちになるということで、仏像に会うためお寺に足を運んでいます。仏教の伝来から、仏像女子も癒される「アルカイック・スマイル」を持つ仏像について見ていきましょう。
「仏像女子」は、2009年(平成21年)に、「東京国立博物館」(東京都台東区)で行なわれた「国宝 阿修羅展」をきっかけに、女性達からの注目を集めるようになったと言われています。
作家「みうらじゅん」氏・「いとうせいこう」氏の共著「見仏記」も、ブームの立役者となったことで人気を博しました。
仏像女子は、知識欲が高く好奇心旺盛なため、全国各地の寺院・美術館・博物館へと旅をして仏像を鑑賞します。それだけに留まらず、御朱印集めやパワースポット探しなど、多くを吸収することにも余念がありません。
そして、大好きな仏像の前で手を合わせ、ゆったりとした時間を楽しむのが仏像女子の醍醐味なのです。
欽明天皇
仏教は、実は日本に伝わってからすでに1,500年の時が経過しています。
仏教はインドで生まれ、紀元前後に中国へ、4世紀頃までに朝鮮半島へ伝来。538年(欽明7年)に、朝鮮半島南部にある百済(くだら)の「聖明王」(せいめいおう)より思想・仏典・仏像などが大和朝廷へともたらされました。
そして、この仏教に日本で最初に触れた天皇こそ、「欽明天皇」(きんめいてんのう)です。
「日本書紀」の仏教公伝の項には、欽明天皇による「仏の相貌瑞厳し」(ほとけのかおきらぎらし)とあり、天皇自ら仏像の荘厳な顔立ちに感動している様子が書かれています。
なお、伝来した年代について、日本書紀には552年と記載されていますが、現在では、「元興寺縁起」に記されている538年とするのが通説です。
日本へもたらされた仏教ですが、日本古来の信仰では、神は目に見えない存在で、山や木に宿るという考え方が基本。そのため仏像を作って偶像崇拝をすることはありませんでした。
日本に昔から根付く神々を大切にする保守派からしてみれば、仏像は「蕃神」(ばんしん:本来、土地にいない神を無理やり布教すること)にしか見えません。大和朝廷の豪族「物部守屋」(もののべもりや)も、仏教を警戒視する「廃物派」でした。対して、仏教を推進しようとしたのが、「崇仏派」の「聖徳太子」(厩戸皇子とも)と「蘇我馬子」(そがのうまこ)です。
この「崇仏論争」(すうぶつろんそう)は、587年(用明2年)に大和朝廷を二分させ、大規模な戦へと発展し、日本最初の仏教をめぐる戦争へと向かいます。結果は、崇仏派の聖徳太子と蘇我馬子の大勝利。これにより、日本ではよりいっそう仏教が隆盛していきます。
「アルカイック」とは、「古い」、「古風な」といったことを意味するギリシア語の「アルカイオス」から派生した言葉です。
このアルカイック・スマイルを浮かべた仏像は、「飛鳥仏」とも呼ばれ、飛鳥時代の仏像によく見られるスタイル。そして、仏像女子に人気の高い仏像のひとつです。
ここでは、アルカイック・スマイルの仏像を作る「仏師」(ぶっし:仏像を作る職人)についてお伝えします。
法隆寺金堂の釈迦三尊像を作ったのが、仏師の「鞍作止利」(くらつくりのとり:鞍作鳥とも書く)です。釈迦三尊像は、中央に「釈迦如来」、向かって右に「薬王菩薩」、左に「薬上菩薩」が配置されています。
鞍作止利は、渡来人の一族出身で、推古天皇の時代に聖徳太子や蘇我馬子に仕えた飛鳥時代を代表する仏師のひとり。鞍作止利の祖父「司馬達等」(しばだっと)は百済出身で、仏教が公に伝わる以前から日本に仏教を広めていました。また司馬達等の娘「善信尼」(ぜんしんに)は、日本初の尼として仏教を広め、仏法興隆に貢献。
仏教を広く人に伝えることが当たり前の環境で育った鞍作止利が、仏師となるのもまた必然と言えます。
鞍作止利の作る仏像は、細身で顔の輪郭もやや面長で、スラリとした印象。目はぱっちりと見開かれ、目尻を尖らせた「杏仁形」(きょうにんがた:アーモンド・アイとも言う)です。口元は、ほのかに微笑するアルカイック・スマイルを浮かべています。
釈迦如来の着ている服は台座の前に垂れ、流れるような衣文を表現。写実的ではありませんが、デザインセンスのある文様となっています。
そして特徴は、「正面観照」という正面から観ることのみを考慮した彫刻。正面から観ると立体的ですが、横から観ると後ろ側の彫刻はなく薄い形状になっています。
飛鳥時代の像は正面観照で作られた仏像が多数残されており、どれもやわらかなアルカイック・スマイルを浮かべ、すらりとした体格の仏像です。これらの技法は、鞍作止利の祖国である百済を経由して日本へ渡ってきました。
もとは中国・北魏の様式であるとも言われますが、飛鳥時代の造形特徴のある仏像を「止利様式」(とりようしき)と呼びます。
飛鳥時代は激動の時代であり、政治も文化も移り変わりの早かった頃。そのなかにあって、アルカイック・スマイルを浮かべた止利様式の仏像が廃れるのは仕方のないことでした。
663年(天智2年)、「天智天皇」は百済を援助する形で、中国・唐と新羅との戦「白村江の戦い」に臨むものの日本は大敗。このときに、百済からは王族、民衆達の多くが日本へと亡命してきました。仏師をはじめ、色々な職人達が日本に新しい風を呼び込むこうした動きが、飛鳥文化に影響を与え、仏像作りが変化していく要素になります。
さらに次代の「天武天皇」は、妻「鸕野讚良」(うののさららのひめみこ:のちの[持統天皇])の病気平癒を祈願して、「薬師寺」(奈良市西ノ京町)を建立。仏教は当初、哲学などの教養として日本に輸入された思想でした。
しかし、飛鳥時代末期には、天皇自ら祈願のために寺を建立するほど仏教が身近になっていることが分かります。
飛鳥時代に制作された、アルカイック・スマイルを持つ仏像をご紹介。これらの仏像は、すべて国宝に指定されており、仏像女子も気に入ること間違いありません。
救世観音
法隆寺の「夢殿」は、法隆寺の境内にある伽藍のひとつ。夢殿には、秘仏とされる「救世観音」(ぐぜかんのん/くせかんのん:正式名称は救世観音菩薩立像)が安置されています。
像高180cmで、聖徳太子等身大の像だと伝わっていますが、救世観音は謎が多いとされる仏像です。聖徳太子存命中に作られたとする説、または死後に作られたとする説があり、制作年代が分からないのです。ただ、飛鳥時代に制作された木造の仏像だと伝わっています。
そして救世観音は、観ると呪われると恐れられていたこともあり、1,000年以上誰の目にも触れることなく保管されていました。
しかし、1884年(明治17年)に、東洋美術史家「アーネスト・フェノロサ」と「岡倉天心」(おかくらてんしん)により、長い封印が解かれることとなります。アーネスト・フェノロサは、仏像に巻かれた布を取り除いていき、いざ救世観音の姿が観えるようになると、近くにいた僧が呪いを怖がり逃げ出したという逸話が残ります。
拝殿は秘仏のため、春・秋の限られた日のみ参拝可能です。ぜひ、仏像女子の皆さんも参拝してみませんか。
中宮寺
「中宮寺」(奈良県生駒郡斑鳩町)の本尊「菩薩半跏像」(ぼさつはんかぞう:正式名称は木造菩薩半跏像。別名、如意輪観音菩薩とも)は、飛鳥時代における最高傑作のひとつ。
中宮寺は、7世紀創建とされ聖徳太子にゆかりのあるお寺です。菩薩半跏像は、寺伝では如意輪観音菩薩とも記録されていますが、もともとは「弥勒菩薩像」であったと考えられています。
弥勒菩薩とは、仏教の天界に住み釈迦が亡くなったあと56億7,000万年後に目覚め、人々を救済してくれるとされている仏です。日本には、仏教伝来と共にやってきて、その後、多く制作されるようになりました。
中宮寺の菩薩半跏像は、他の半跏思惟像に比べ背筋がまっすぐ伸び、調和の取れたなめらかな体型が特徴。直線的な飛鳥時代前期の様式とは異なる、やわらかな雰囲気をまとっています。
仏像女子の方も、歴史と仏像を併せて学んでみてはいかがでしょうか。
弥勒菩薩半跏思惟像
「広隆寺」(京都市右京区)の「弥勒菩薩半跏思惟像」(みろくぼさつはんかしいぞう:正式名称は木造弥勒菩薩半跏思惟像[宝冠弥勒])は、仏像の中でも人気が高いことで有名です。この理由には、写真家「小川晴暘」氏の功労があります。
1924年(大正13年)に、古美術研究誌「仏教美術」の創刊号に小川晴暘氏の撮影した写真が掲載されたことにより、世に弥勒菩薩の魅力が広められたのです。
広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像は、鼻筋の通った端正な顔立ちと、ほのかに微笑む口元。アクセサリーなど装飾品の少ない身なりからは「飾らない美しさ」を表現。そして、やや前項姿勢となっている背筋からは、現世の人々に耳を傾けている様子であると捉えることができます。
癒しを求める仏像女子必見、美しい微笑みをした仏像を観に行ってみませんか。