歴女について

新撰組とは

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江戸時代末期、京都治安維持のために結成された「新撰組」(しんせんぐみ)。新撰組は、「尊皇攘夷思想」(そんのうじょういしそう:天皇を敬い、外国人を打ち払う考え)を持ち、京都で乱暴狼藉を行なっていた、不逞浪士の取り締まりをするために結成されました。この組織のリーダーに「近藤勇」、副長「土方歳三」、隊士「沖田総司」らがいます。
彼らは様々なドラマや小説、漫画やゲームなどの登場人物として取り上げられ、今なお歴史ファンや歴女を魅了してやみません。そんな新撰組と、近藤勇、土方歳三、沖田総司の3人についてご紹介します。

歴女も夢中! 幕末のヒーロー・新撰組

新撰組を結成するまで

「新撰組」(しんせんぐみ)が誕生した江戸時代末期の幕府は、開国すべきか、外国人を排除すべきかの情勢渦巻く不安定な時代でした。

そして京都には、諸外国に対し弱腰な対応をする幕府をなくそうとする「倒幕」思想や、外国人を打ち払う「攘夷」思想を持つ脱藩浪士で溢れていました。京都の治安を守る官職の「京都所司代」と「町奉行」だけでは対応ができません。

近藤勇・沖田総司・土方歳三

近藤勇・沖田総司・土方歳三

そこで、14代将軍「徳川家茂」が京都まで上洛(京都に向かうこと)し、朝廷と話し合いをすることになりました。この上洛による将軍警護のための浪士組を、1862年(文久2年)に募集。

この警護に応募したのが、「近藤勇」、「土方歳三」、「沖田総司」をはじめとした「試衛館」(しえいかん)の8人です。

翌年の1863年(文久3年)に、近藤勇、土方歳三、沖田総司と試衛館の8人は、京都へ向かいました。その中で、同じ浪士組に応募した「清河八郎」が、「勤王」(天皇に忠義を尽くす)思想側の人物であることが発覚。浪士組は表向きの理由で、清河八郎の目的は、勤王運動を行なうことだったのです。

浪士取締役との協議の結果、浪士組は一旦、江戸に戻ることになったものの、近藤勇と土方歳三、「芹沢鴨」(せりざわかも)らが中心になり、京都残留を主張。

京都に残留した者達は「壬生浪士組」と名を付けられ、京都壬生村(現在の京都府京都市中京区)の「八木邸」、「前川邸」を屯所として使うことになります。壬生浪士組の中心メンバーである、近藤勇と土方歳三、芹沢鴨が隊士募集を行ない、隊士36人あまりの集団へと成長。

隊士が増えたこともあり、「京都守護職」を担う会津藩藩主「松平容保」(まつだいらかたもり)の庇護のもと、京都の市中警護や不逞浪士の取り締まりを任せて貰うことになりました。そして松平容保から、壬生浪士組を改め、新撰組と名付けられます。この新撰組の局長に就いたのが近藤勇、副長は土方歳三、一番隊隊長が沖田総司です。

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池田屋事件とは

新撰組の名を一躍世に轟かせたのが「池田屋事件」です。池田屋事件とは、1864年(元治元年)、長州藩土佐藩などの尊皇攘夷派の不逞浪士達を、新撰組が襲撃した事件。

京都放火と、「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ:のちの徳川慶喜[とくがわよしのぶ])、松平容保の暗殺などが計画に含まれており、これを突き止め、池田屋に討ち入りました。討ち入りをしたのは、近藤勇と沖田総司、試衛館の「永倉新八」(ながくらしんぱち)と「藤堂平助」(とうどうへいすけ)などです。

多くの浪士達を討ち取りましたが、新撰組隊士も重症を負っています。諸説ありますが、沖田総司は奮戦の最中に喀血して戦線離脱。命に別状はありませんでしたが、永倉新八は親指の付け根を切る重症、藤堂平助も額を切るなどの大怪我を負いました。

多数の犠牲者を出しましたが、池田屋事件によって、新撰組は広く世に知られるようになります。京都放火や一橋慶喜の暗殺を未然に防いだことで、江戸幕府からの評価も上がりました。

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新撰組と戊辰戦争

徳川慶喜

徳川慶喜

1867年(慶応3年)10月14日、15代将軍徳川慶喜が、朝廷に政権を返上する「大政奉還」(たいせいほうかん)を行ないます。

10月24日に将軍職を返上し、12月9日に、薩摩藩藩士「大久保利通」(おおくぼとしみち)や貴族の「岩倉具視」(いわくらともみ)達の働きかけで、朝廷側が「王政復古の大号令」を発令。

これにより、約260年続いた江戸幕府は終焉を迎えました。

形式上、徳川慶喜は政権を返上しましたが、実質的には統治を朝廷から委任されたままでした。倒幕派の筆頭、薩摩藩・長州藩はこのような状態に納得がいきません。そして、佐幕派の会津藩・桑名藩紀州藩からも政権を返上したことへの反発が強まります。

徳川慶喜は、旧幕府軍を結成し、1868年1月、「戊辰戦争」を開戦。これより、約1年半の期間、日本は新政府軍と旧幕府軍の内乱に巻き込まれます。

このとき新撰組は、戊辰戦争の初戦「鳥羽・伏見の戦い」に参戦。新撰組は政権を奪い返す戦だと、意気揚々と参戦しましたが、新政府軍は「錦の御旗」を掲げていました。錦の御旗とは、天皇家を象徴する印です。これを掲げている新政府軍は正式な朝廷の軍であり、敵対する新撰組含む旧幕府軍は、政敵となってしまいました。

新政府軍は、イギリスから輸入した当時最新式の銃や大砲を使用し、旧幕府軍に攻撃を続けます。当然、旧式の鉄砲や大砲、刀剣しか持たない旧幕府軍では太刀打ちできず、鳥羽・伏見の戦いで、旧幕府軍は大敗。しかし戦線は、京都から江戸、東北、北海道へと続いていきます。

新撰組は、旧幕府から命じられ、新撰組を「甲陽鎮撫隊」(こうようちんぶたい)と改名。元新撰組局長・近藤勇は、江戸で新政府軍と戦っていましたが、板橋宿(現在の東京都板橋区)で新政府軍に捕縛されました。1868年(慶応4年)4月25日、近藤勇は板橋刑場で斬首。首は、京都でさらし首にされました。

一番隊隊長だった沖田総司は、同年1868年(慶応4年)5月30日、江戸千駄ヶ谷(現在の東京都渋谷区)で病没しました。体調の悪化により、1867年(慶応3年)以降、沖田総司は活躍することができず、鳥羽・伏見の戦いにも参加していません。

元新撰組副長・土方歳三は、新政府軍との交戦を続け、北海道函館へと戦線を伸ばし続けていました。1869年(明治2年)5月11日に、戊辰戦争最後の戦場「函館五稜郭防衛戦」で、狙撃され戦死。

遺体は、首を捕られまいと隠すよう埋葬されたため、今なお明確な場所は分かっていません。ここに、江戸時代末期の幕末を生きた新撰組も終わりを迎えました。

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近藤勇

近藤勇とは

近藤勇

近藤勇

近藤勇(こんどういさみ)は、1834年(天保5年)、武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)に「宮川久次郎」の3男として生まれます。幼名を「勝五郎」と言い、百姓の家系でした。

しかし、1838年(天保9年)の上石原村の「宗門人別改帳」(しゅうもんにんべつあらためちょう:戸籍原簿や租税台帳のこと)によると、宮川家の石高は当時としては中流クラスであり、裕福な家庭であったと考えられます。

1848年(嘉永元年)、勝五郎は、「天然理心流」の流派を持つ試衛館に入門しました。試衛館のある多摩周辺は、幕府直轄地であったことから、農民達にも自然と「幕府のため戦う」、「将軍を守る」ということを意識している人々が比較的多い地域。そのため、剣術を習う農民も多く、勝五郎もそのひとりでした。

勝五郎は、試衛館でめきめきと剣術を上達させ、道場主である「近藤周助」に認められます。入門から翌年の1849年(嘉永2年)には、免許皆伝し、近藤周助に養子入りをし、近藤勇と名乗るようになりました。

近藤勇は拳が口に入る!

近藤勇は口が大きかったことから、拳を丸ごと口の中に入れるという特技を持っていたと言われています。

なぜこのような特技を習得したのかと言うと、近藤勇の尊敬した戦国武将「加藤清正」も同じ特技を持っていたから。加藤清正も、農民から武勇一本で名を挙げ、一国の主にまで上り詰めた人物。

近藤勇は、加藤清正の大出世にあやかりたいと話していたと、作家「子母澤寛」(しもざわかん)氏の「新撰組始末記」に紹介されています。

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近藤勇の所持した刀剣

近藤勇が所持した刀剣は数振ありますが、なかでも愛刀と語られているのは「長曽祢虎徹」(ながそねこてつ)です。

長曽祢虎徹は、近江国(現在の滋賀県)長曽祢村出身とされている刀工「長曽祢虎徹興里」(ながそねこてつおきさと)が打ったとされる刀剣。江戸時代の流行を反映した、反りが浅く、地金は強く冴え渡っているのが特徴です。切れ味も最上級で「最上大業物」と評価されています。そして、人気の刀剣であったため、当時から贋作が出回っていたことでも有名です。

そんな理由から、近藤勇が持っていた長曽祢虎徹も偽物であったのではないか、という説があります。しかし、その説を覆すのが池田屋事件への討ち入り。多くの隊士の刀剣は激闘の末、刃こぼれや折れてしまうなど、ボロボロの状態でした。

しかし、近藤勇の長曽祢虎徹は折れることなく無事な姿だったことから、「下拙刀は虎徹故に哉、無事に御座候」(自分の刀は虎徹だったので命が助かりました)と養父・近藤周助に手紙を送っています。残念なことに、近藤勇の所持した長曽祢虎徹は現存しておらず、真贋を確かめることは不可能です。

近藤勇の所持刀ではありませんが、「柏原美術館」(山口県岩国市)には、別の長曽祢虎徹が常設展示されています。新撰組ファンや歴女の皆さん、近藤勇の愛した「虎徹」を観に行ってみてはいかがでしょうか。

また、「刀剣ワールド財団」〔東建コーポレーション〕でも、同じ長曽祢虎徹興里作の刀剣とされる「長曽祢興里入道乕徹」(ながそねおきさとにゅうどうこてつ)を所有。ぜひ、ご覧下さい。

刀剣ワールド財団所有の刀剣

刀 銘 長曽祢興里入道乕徹
刀 銘 長曽祢興里入道乕徹
長曽祢興里
入道乕徹
鑑定区分
重要刀剣
刃長
68
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

刀工「長曽祢虎徹」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。

近藤勇の墓所

近藤勇のお墓の場所は、現在3ヵ所存在します。それは、近藤勇が1868年(慶応4年)に、新政府軍により斬首されたことが理由です。斬首された首は、京都でさらし首となり行方不明。そして、遺体は刑場に埋められました。

ここでは、遺族や土方歳三、新撰組元隊士達により建立されたお墓や供養塔をご紹介します。

龍源寺
刑場に埋められていた遺体を、近藤勇の親族らが掘り起こして埋葬したのが「龍源寺」(りゅうげんじ:東京都三鷹市)です。
寿徳寺境外墓地
「寿徳寺境外墓地」(じゅとくじけいがいぼち:東京都板橋区)は、1876年(明治9年)に、永倉新八や元隊士達により建立されたお墓です。

また、永倉新八達は、近藤勇と土方歳三の供養碑も建てており、この供養塔の側面には新撰組隊士達の名前が刻まれています。足を運んだ際は、供養塔の側面もチェックしてみると良いかもしれません。

天寧寺
「天寧寺」(てんねいじ:福島県会津若松市)には、土方歳三が近藤勇の遺髪を埋葬し、建てたお墓があります。また、毎年、近藤勇の命日である4月25日には、墓前祭りが開催されています。

土方歳三

土方歳三とは

土方歳三

土方歳三

土方歳三は、1835年(天保6年)、武蔵国多摩郡石田村(東京都日野市石田)に生まれました。

土方歳三の生まれた家は、「お大尽」(おだいじん)と呼ばれる豪農の一族。土方歳三は10人兄弟の末っ子でしたが、父親は生まれる前に亡くなり、母親は土方歳三が6歳のときに亡くなっています。そのため、土方歳三を育てたのは、次兄「土方喜八」(ひじかたきはち)の妻「なか」でした。

土方歳三は、のちに「冷徹な鬼の副長」と呼ばれるようになるとは信じられない、やんちゃな逸話を残しています。呉服屋へ奉公に上がっていた頃女性と問題を起こして解雇になったことや、上司を殴って解雇されたことなどです。

しかし、郷里の石田村「人物帳控」(じんぶつちょうひかえ)には、14~17歳の頃に奉公に出ていた記録はありますが、どこへ奉公に出ていたかまでは残っていません。そのことから、これらの逸話は信憑性が低く、後世に付け加えられた話だと考えられています。

土方歳三は、実家秘伝の「石田散薬」を行商しながら、各地の剣術道場で剣術の腕を磨いていました。土方歳三の姉「のぶ」の夫「佐藤彦五郎」が、試衛館に所属するようになり、自宅に道場を設けます。そこへ剣術の指導に来ていたのが、試衛館の跡継ぎである近藤勇でした。「武士になりたい」、「徳川将軍家を守りたい」と、そんな気持ちが意気投合した土方歳三と近藤勇は、義兄弟の契りを結びます。

土方歳三は、1859年(安政6年)、天然理心流に正式に入門しました。土方歳三が、のちの新撰組一番隊隊長である沖田総司と出会ったのも、同じ時期です。

土方歳三の趣味は俳句

土方歳三は、「バラガキ」(乱暴者)と称されるほど、荒っぽく喧嘩っ早い性格。しかし、俳人でもあった祖父「土方義徳」(ひじかたよしのり)や、長兄「土方為次郎」(ひじかたためじろう)の影響で、趣味は俳句という風流な一面を持ちました。

京都に向かう直前に詠んだとされる、「さしむかふ 心は清き 水かがみ」や「梅の花 一輪咲いても 梅はうめ」からは、バラガキというよりも、純粋で愚直な青年像が想像できるのではないでしょうか。

これらの句は、「豊玉発句集」(ほうぎょくほっくしゅう)に全41句がまとめられ、現在は「土方歳三資料館」(東京都日野市)に収められています。

土方歳三の所持した刀剣

土方歳三の持っていた刀剣は、「和泉守兼定」(いずみのかみかねさだ)です。

和泉守兼定は、会津藩御抱鍛冶であった11代目「兼定」(かねさだ)の作と言われています。11代目兼定は、新撰組の上司である会津藩主松平容保が京都へ向かう際、連れて来た名刀匠。

この和泉守兼定について、近藤勇が佐藤彦五郎宛てに手紙を書いています。そこに記載されている和泉守兼定は、2尺8寸であったと書かれており、現存していません。

土方歳三は、兼定作の刀剣をもう1振所有していました。こちらは、土方歳三が「箱館戦争」(はこだてせんそう)のときに、形見にと佐藤彦五郎に送っています。このときの兼定は、2尺3寸1分6厘。12代目兼定の作とされ、刃こぼれがあったと言われています。

昭和初期に修理され、土方歳三の実家に送られたあと、土方歳三資料館の所蔵となりました。

和泉守兼定

和泉守兼定

刀工「和泉守兼定」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。

土方歳三の墓所

戊辰戦争の局面のひとつ、箱館戦争で、土方歳三は亡くなったと言われています。しかし、首が晒されないよう、遺体を隠すように埋められたことから、正確な埋葬地は分かっていません。埋葬地の候補にも、「五稜郭城」近くの松の下、数年経ってから「碧血碑」(へきけつひ)に収めたなど、数ヵ所の候補があります。

2005年(平成17年)、土方家の子孫が函館を訪れ、土方歳三の埋葬地の候補を巡り、その土地の土を持ち帰りました。持ち帰られた土は、土方家代々の墓がある、現在の東京都日野市「石田寺」(せきでんじ)で弔われています。こうして、土方歳三は亡くなってから数百年振りに故郷に帰ったのです。

石田寺境内には、土方家代々の墓に並んで土方歳三の墓があり、土方歳三の命日である5月11日には、法要が執り行なわれます。「歳三忌」とも呼ばれるこの法要には、全国から訪れる土方歳三を偲ぶファンがやってきて大賑わいです。

お参りに訪れようと考えている歴女の方々は、お寺やご近所の方の迷惑にならないよう手を合わせましょう。

沖田総司

沖田総司とは

沖田総司

沖田総司

沖田総司は、1842年(天保13年、または1844年[天保15年])、陸奥国白河藩士・沖田勝次郎(諸説あり)の子として、江戸の白河藩邸(東京都港区西麻布)で誕生。

沖田総司が4~5歳のときに両親を亡くします。沖田総司は長男でしたが、幼かったため家督を継げず、姉が代わりに家督を相続しました。

1850年(嘉永3年)、9歳になった沖田総司は、貧しかったため口減らしであったと考えられますが、天然理心流道場・試衛館に入門。近藤周助の内弟子となります。沖田総司は、入門当初から大人顔負けの実力を持ち、若くして免許皆伝し、塾頭を務めるほど剣の腕に優れていました。そして、兄弟子である近藤勇を本当の兄のように慕っており、近藤勇の方も弟のように可愛がったと言います。

また、沖田総司は、剣豪としての顔とは別に、年相応の青年らしい一面も持ち合わせていました。作家「司馬遼太郎」(しばりょうたろう)氏によると、新撰組を題材とする作品執筆をするにあたり、実際に沖田総司に遊んでもらったという高齢女性を取材。新撰組屯所の近くに住む子供達と遊ぶなど、朗らかな人物であったと伝わっています。

若くして活躍した沖田総司でしたが、体調の悪化により、第一線での活動が困難となっていきました。新撰組が京都を退き、江戸で新政府軍と交戦している最中も、沖田総司は近藤勇や他の隊士達を気にかけていたと言います。

1868年(慶応4年)4月25日に近藤勇が処刑されると、沖田総司もあとを追うように、同年5月、江戸千駄ヶ谷で27歳の生涯を終えました。

沖田総司の剣術の腕前

沖田総司は、若くして免許皆伝するほどの剣術の腕でしたが、実際はどのくらい強かったのでしょうか。

新撰組八番隊長永倉新八は、「沖田総司と、本気で立ち会ったら、師匠である近藤勇も倒されてしまうだろう、と皆言っていた」と語ったと言います。

また、尊王攘夷派で新撰組に批判的であった「西村兼文」(にしむらかねふみ:京都西本願寺侍臣)も、「近藤秘蔵の部下にして、局中第一等の剣客である」と、外部の人間も沖田総司を高く評価しています。

そして、沖田総司は「三段突き」という、有名な得意技を持っていました。三段突きとは、刀剣を正面に構えて、踏み込みの足音が1度だけしか鳴らないのに、3発の突きを繰り出すことができる技。目にも止まらない速さで動くことにより、技をかけられた方は、1度だけ突きを受けたようにしか感じないわけです。まるで漫画の世界のような大技からは、沖田総司の超人的な強さがよく分かります。

沖田総司の所持した刀剣

沖田総司が所有していたとされる刀剣は、「菊一文字則宗」(きくいちもんじのりむね)、
「大和守安定」(やまとのかみやすさだ)、さらに「加州清光」(かしゅうきよみつ)の3振です。

菊一文字則宗に関しては、国宝級に貴重な刀剣のため流通するわけもなく、加えて金銭的にも入手困難であることから、沖田総司が所有していた説は否定されています。

加州清光
沖田総司の刀剣である加州清光を作刀したのは、加賀国(現在の石川県)出身の刀工で6代「清光」です。

1668~1669年(寛文8~9年)に加賀国で起きた水害で飢饉になり、加賀藩4代藩主「前田綱紀」が「非人小屋」(窮民収容所)を設置。6代清光は、非人小屋に住みながら作刀したことから、「非人清光」とも呼ばれます。

この加州清光は、池田屋事件の際に、沖田総司が差していたと言われる刀剣です。この戦いの最中、加州清光は「帽子」(刃先)が折れてしまい、修復不可能となってしまいました。鍛冶屋に修理を頼んだものの、修理不可で戻ってきたという記録が残っています。

刃先の折れてしまった加州清光は、残念ながら後世には伝わっていません。実戦力のない刀剣は、持っていても仕方がないとして捨てられたのではと言われています。

大和守安定
大和守安定は、切れ味が鋭いことから、幕末の志士達から支持されていた刀剣で、沖田総司も所持していました。大和守安定は、紀伊国(現在の和歌山県)の刀工で、江戸時代に記された刀工ランクでは「良業物」(よきわざもの)に分類されています。

また、長曽袮虎徹に影響を与えたと言われ、作風が似ているのが特徴です。沖田総司の敬愛する近藤勇が長曽袮虎徹(偽物説あり)を愛用していたことから、よく似た大和守安定を身に着けていたのかもしれません。

大和守安定

大和守安定

沖田総司の墓所

沖田総司の墓は、「専称寺」(せんしょうじ:東京都港区元麻布)の境内にあります。戒名は「賢光院仁誉明道居士」。

現在、沖田総司のお墓は立入禁止となり、一般の方は参拝することができない状態です。一部のファンによる迷惑行為のため、一般の方の立ち入りは禁止となりました。しかし、まったく見られないわけではなく、境内の堀越しに沖田総司のお墓を覗くことが可能です。

また、一般の人が入ることのできない沖田総司のお墓ですが、年に1度だけ参拝できる日があります。それは「新撰組友の会」という新撰組の同好会により、毎年7月に行なわれている「沖田総司忌」です。沖田総司のお墓参りができる唯一の日、ということで、多くの歴史ファンや歴女達が集まる日となっています。

新撰組が集った試衛館

新撰組の中核をなすメンバーは、天然理心流の試衛館(現在の東京都新宿区)道場出身の者が大多数でした。それはなぜかと言うと、新撰組局長の近藤勇が、試衛館の師範だったからです。門弟には、沖田総司、土方歳三、「山南敬助」(やまなみけいすけ)、食客の永倉新八、藤堂平助、「原田左之助」がいます。

この試衛館は、1839年(天保10年)に、近藤勇の養父・近藤周助が創設した道場です。天然理心流は、江戸時代の剣客「近藤内蔵之助」(こんどうくらのすけ)が創始した流派で、剣術のみに特化した流派ではなく、柔術や棍棒なども指導にある総合武術でした。

近藤内蔵之助は、江戸の農村を中心に指導していましたが、2代目の「近藤三助」が、埼玉県神奈川県まで範囲を広げたことから普及したと言われています。

天然理心流は、農村を中心とした門弟が多く、無名であったため「田舎剣法」、「芋道場」とも呼ばれていました。しかし、そんな天然理心流の強みは、真剣同様の重さに合わせた木刀を使用し、剣術と並行した柔術を取り入れるなど、実戦を意識した練習方法にあったと言います。沖田総司の三段突きも、この厳しい修行で鍛えられた足腰の賜物です。

新撰組は、実戦を意識した流派だからこそ、攘夷志士達の跋扈(ばっこ)する京都で活躍することができたのだと考えられます。

まとめ

新撰組は、江戸時代末期に活躍した剣豪の集団です。江戸幕府に庇護されていましたが、所属したのは武士ばかりではなく、町民や農民が大半。新撰組局長の近藤勇、副長の土方歳三は農民出身です。そして、一番隊隊長の沖田総司は、武士の身分でしたが下級武士。出自や身分の違う人達による集団でしたが、徳川将軍家を守りたいという志は同じでした。

新撰組が、いまなお歴史ファンや歴女の皆さんを夢中にさせるのは、命をかけて将軍を守ろうとした姿に、胸を打たれるからかもしれません。

新撰組とは

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城ガールとは

城ガールとは
近年、若い女性を中心に「〇〇ガール」や「〇〇女子」、「〇女」といった造語が生まれていますが、そのひとつである「城ガール」とは、「お城女子」とも呼ばれるお城が好きな女性のこと。城ガールはフットワークが軽いため、様々なお城を巡り、楽しんでいます。 そんな城ガールの特徴と、人気のお城をご紹介します。

城ガールとは

御朱印とは

御朱印とは
神社仏閣を参拝した際に、その証しとして授与される「御朱印」(ごしゅいん)。昨今の日本史ブームとパワースポットブームが相乗効果を生み、収集する人達が急増しています。そんな中で、実際に御朱印巡りを行なっていても、そもそも御朱印とはいったいどんな物なのか、また、御朱印を拝受する際のマナーはどのようなことに気を付ければ良いのかなど、疑問に思っている方も多いのではないでしょうか。御朱印の由緒や歴史についてご説明すると共に、御朱印巡りの実状についても解説します。

御朱印とは

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