江戸時代、大名には江戸幕府から領地が与えられ、日本には200以上の藩が存在していました。領地は、「石高」(こくだか)という単位で数えられ、高さは藩の地位の高さに直結していたのです。江戸時代に用いられた石高制は、豊臣政権下で実施された「太閤検地」(たいこうけんち)を発端とし、明治時代まで施行。石高制の変遷と、江戸時代の大名の石高ランキングについて見てみましょう。
「石」(こく)は、明治時代以前の日本において、土地の生産性を表すために用いられていた単位です。「豊臣秀吉」が太閤検地を行ってから、1873年(明治6年)まで使われていました。
安土桃山時代の途中まで、土地の生産性を測る指標に、「米高」(こめだか)、「貫高」(かんだか)、「刈高」(かりだか)など、地域ごとにばらばらの単位を使用。測量もおおざっぱに行われていました。その後、豊臣秀吉が時の権力者になると、太閤検地を実施して石高制を導入。それが江戸時代にも引き継がれ、石高は武士や農民の身分、年貢徴収割合などの判断基準になりました。
1石は、「大人ひとりが1年間で消費する米の量」に相当します。例えば、100,000石の大名であれば、100,000石(100,000人が1年間で消費する米の量)の生産能力を持つ領地を有していました。大名はその土地から年貢を徴収し、それが藩の収入になります。領地は「知行地」(ちぎょうち)とも呼ばれるため、自身の領地を持つ身分の者は「知行取り」と呼ばれました。
一方、知行取りではない武士に対しては、米(扶持米:ふちまい)や現金で給料が支払われます。例えば「五人扶持」(ごにんぶち)の給料は、5人の大人を養える量の米ということです。なお、江戸幕府の統制下では、玄米約5合を大人ひとり分の食料として換算。つまり、五人扶持の武士は、1ヵ月で750合(=5合×5人×30日)の米を給料として受け取れたということです。
検地
1582年(天正10年)に起こった「本能寺の変」のあと、「明智光秀」(あけちみつひで)に勝利した豊臣秀吉は、山城国(現在の京都府南部)の検地を行いました。寺社に土地台帳を提出させて土地の所有権を整理したのち、それらを家臣に分け与えます。
その後、領地を拡大するごとに検地を行い、国ごとに御前帳(ごぜんちょう:地域ごとの検地帳)を提出させました。検地では1間(=6尺3寸)の検地竿を使用し、1間四方の土地を1歩として統一。また、それぞれの田畑は生産能力に応じたランクに分けられ、それに基づいて石高を計算しました。この石高制は、農民への年貢賦課、大名への知行給付、家格の基準など、全国共通の社会的な指標として成立。それまでの荘園制(しょうえんせい:公家や寺社が土地を通じて農民を支配する仕組み)が完全に廃止されました。
江戸時代になると、石高制をもとにして、江戸幕府は国単位の地図「国絵図」(くにえず)や、村落ごとの石高を記載した「郷帳」(ごうちょう)も作成させました。なお、郷帳に記載される石高は原則、額面上の石高を表す「表高」(おもてだか)。実際の米の収穫量に基づく石高は、「内高」(うちだか)と言いました。
国絵図と郷帳は江戸時代、複数回にわたって製作され、そのなかでも慶長年間(1596~1614年)に作成された物が「慶長郷帳・国絵図」(けいちょうごうちょう・くにえず)です。1604~1610年(慶長9~15年)にかけて地図と帳簿が作成されたと言われますが、原本はほとんど現存していません。慶長郷帳・国絵図の対象範囲は、豊臣政権に組した戦国大名の多い西日本に限定されていた可能性もあり、不明な点も多く残ります。
1632年(寛永9年)、「徳川家光」(とくがわいえみつ)が江戸幕府3代将軍に就任した頃に作成されたのが、「寛永十年巡見使・国絵図」(かんえいじゅうねんじゅんけんし・くにえず)です。
各藩に国絵図作成の命令が下ったのが1632年(寛永9年)とされており、1633年(寛永10年)に江戸幕府は各地へ巡見使(使者)を送り、国絵図を収集しました。作成開始から回収までの期間が短かったため、多くの大名は慶長国絵図をそのまま転用したと考えられています。原本は残っていませんが、その模写は現存。慶長年間から石高が増えたのは、陸奥国(現在の東北地方北西部)、越後国(現在の新潟県)、三河国(現在の愛知県東部)、対馬国(現在の長崎県対馬市)の4国だけだったとされます。
1644年(正保元年)、晩年の徳川家光が各地の大名に指示して作らせたのが「正保郷帳・国絵図」(しょうほうごうちょう・くにえず)です。郷帳と国絵図のほか、大名が所有する城を記載した「城絵図」(しろえず)や、街道・海路・古城を記した付帯書類も同時に提出させました。また、東海道沿いに城を持つ大名に対しては、城の模型も提出させています。
この頃になると新田開発が進み、表高よりも内高のほうが高くなり、表高と内高が大きく乖離する現象が見られるようになりました。
「元禄郷帳・国絵図」(げんろくごうちょう・くにえず)の作成が命じられたのは、江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)の治世であった1697年(元禄10年)です。各大名には郷帳と国絵図の提出だけが求められ、上納は1702年(元禄15年)頃に完了。郷帳の記載方法が簡易なものになり、国・郡・村ごとの石高のみが記載される形でした。
江戸幕府11代将軍「徳川家斉」(とくがわいえなり)の治世であった1831年(天保2年)に製作が命じられたのが、「天保郷帳・国絵図」(てんぽうごうちょう・くにえず)です。天保郷帳から作成方法が変わり、各藩に修正点のみを提出させ、それをもとに実際の帳簿を江戸幕府の勘定奉行所で作成しました。
また、天保郷帳ではそれまでの表高ではなく、新田や改田を加味する内高での報告が求められています。この際、年貢は内高を基準に計算されるため、内高を低めに報告する大名が少なくなかったそう。例えば、長州藩(現在の山口県萩市)は、藩内では実際の内高を約970,000石と把握していましたが、江戸幕府には約890,000石で報告しました。
江戸時代、100万石を超える大藩から、10,000石に満たない小藩まで、様々な藩が存在していました。石高の大きかった藩と藩主の家系をランキング形式で紹介します。
加賀藩は、現在の石川県と富山県のほとんどを領地としており、代々前田家によって統治されていました。前田家の祖は、戦国武将「前田利家」(まえだとしいえ)。「織田信長」に仕え、能登国(現在の石川県北部)を中心に勢力を拡大したのです。
前田利家の死後、「関ヶ原の戦い」では、東軍に前田利家の長男「前田利長」(まえだとしなが)、西軍に次男「前田利政」(まえだとしまさ)が加勢し、東軍と西軍のどちらが勝っても家系が途絶えないように工夫しました。東軍が勝利したため、前田利長は前田利政の領地を所有することとなり、加賀藩が成立。この時点での石高は、約119万石です。
前田家は外様大名でありながらも徳川将軍家とのつながりが強く、江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の娘「珠姫」(たまひめ)をはじめ、徳川将軍家の娘は度々前田家に嫁いでいます。その後、1639年(寛永16年)に加賀藩3代藩主「前田利常」(まえだとしつね)が隠居する際、息子達に領地を分け与えて加賀藩の領地は102.5万石となり、それが明治時代まで続きました。
加賀藩
尾張藩(現在の愛知県名古屋市)は江戸時代初期、清須藩(現在の愛知県清須市)の名で知られていました。清須藩は、徳川家康の四男「松平忠吉」(まつだいらただよし)が初代藩主を務めますが、1607年(慶長12年)に急死。それにより清須藩は廃藩となり、新たに尾張藩が成立します。
その際に藩庁が現在の名古屋市に改められ、尾張藩の初代藩主に徳川家康の九男「徳川義直」(とくがわよしなお)が就任。尾張徳川家は、紀州藩(現在の和歌山県和歌山市)の紀州徳川家、水戸藩(現在の茨城県水戸市)の水戸徳川家とともに徳川御三家と呼ばれる名門家です。立藩当初は540,000石でしたが、1671年(寛文11年)に加増となり、619,000石になりました。
尾張藩
紀州藩は、現在の和歌山県と三重県周辺を領有していた藩で、「紀伊藩」とも呼ばれます。関ヶ原の戦い後には浅野家が2代にわたって藩主を務め、1619年(元和5年)に徳川家康の十男「徳川頼宣」(とくがわよりのぶ)が移封されました。555,000石を領有し、徳川御三家のひとつとして繁栄します。
5代藩主の「徳川吉宗」(とくがわよしむね)は、江戸が財政難に苦しむなか、倹約の徹底、新田開発、商業自由化などを進め、藩の財政を再建。1716年(享保元年)に江戸幕府7代将軍「徳川家継」(とくがわいえつぐ)が亡くなると、徳川吉宗は8代将軍に就任しました。