伊達家を繁栄に導いたと言われているのが、17代「伊達政宗」です。伊達政宗は、16代「伊達輝宗」(だててるむね)の長男として、出羽米沢城(山形県米沢市)に出生。幼少期に天然痘を患い、右目を失明したことから「独眼竜」と呼ばれています。伊達政宗が当主に就任したのち、畠山家(はたけやまけ)、蘆名家(あしなけ)、二階堂家(にかいどうけ)を滅ぼし、瞬く間に奥羽(現在の東北地方)中・南部を支配。そののち、豊臣秀吉に降伏し、「小田原征伐」から「関ヶ原の戦い」という主要な戦に参加し、数々の功績を挙げました。今回は、伊達政宗をはじめ、伊達家の歴史において重要な刀剣や甲冑(鎧兜)をご紹介します。
鎌倉幕府崩壊後の南北朝時代には、7代「伊達行朝」(だてゆきとも)が「後醍醐天皇」の南朝方に属しましたが、南朝の劣勢となると、「光明天皇」の北朝方に移りました。
8代「伊達宗遠」(だてむねとお)と、9代「伊達政宗」(17代「伊達政宗」とは別人)の代から、伊達家は急速に奥羽の勢力を拡大。11代「伊達持宗」(だてもちむね)の頃になると、室町幕府と鎌倉公方の対立により関東が一足早く戦国時代に突入し、伊達家は幕府方として戦い始めます。
12代「伊達成宗」(だてなりむね)は、陸奥国(むつのくに:現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県、秋田県の一部)の国分家と3度戦いましたが、互いの兵が疲弊したため和睦。そのあと、出羽国(でわのくに:現在の山形県と秋田県)の「寒河江家」(さがえけ)を攻めましたが、敗退しました。
1483年(文明15年)には京都へ上洛し、多くの進物を朝廷に献上。この上洛は、陸奥国(奥州の別称)の統括を担う役職である「奥州探題職」を得るためだったと言われています。伊達成宗の死後、14代「伊達植宗」(だてたねむね)のときに、奥州探題と立場上ほぼ同位の「陸奥国守護」に任命されます。
さらに伊達植宗は政略結婚によって勢力を伸ばし、奥州で地位を固めました。また、もともと奥州探題であった大崎家に次男・小僧丸を養子に入れて大崎家を支配し、伊達家が奥州を統括する立場になります。
伊達政宗
しかし、伊達植宗とその長男である15代「伊達晴宗」(だてはるむね)の確執により、「天文の乱」が勃発。奥羽の諸大名をも巻き込む大乱となり、この乱で伊達家の勢力は一時的に大きく後退。
そののち、伊達政宗の父である16代「伊達輝宗」が勢力を回復させ、伊達政宗へと引き継ぎました。
18歳のときに17代当主に就任した伊達政宗は、会津(福島県の西部)の蘆名家(あしなけ)を攻略、さらには二階堂家が支配していた須賀川(現在の福島県須賀川市)を手に入れ、伊達家の領土は歴代で最大の広さとなり、奥州の大部分を統治しました。
「関ヶ原の戦い」後は、仙台城(現在の宮城県仙台市青葉区)へ移り、当時の最高の技術と文化を注ぎ、仙台の地で大崎八幡宮や瑞巌寺(ずいがんじ)などの造営に着手。伊達政宗自身は諸大名や一流の文化人と交流を深め、高い教養を身に付けたと言われています。
鎌倉時代から江戸時代まで、数々の功績を残し奥州一の大名となった伊達家。伊達政宗は、片倉重長や伊達成実などの屈強な家臣に恵まれ、戦国の世を駆け抜けてきました。伊達政宗の没後は伊達忠宗が家督を継ぎ、土地の改良や街づくりに力を入れます。
現在の仙台市の美しい町並みがあることや、宮城県が国内有数の米どころとなったのも、伊達家の繁栄があったからこそだと言えるでしょう。
来国俊は、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて繁栄した「来派」 (らいは)の刀工で、山城国(やましろのくに:現在の京都府)で活動していたこの一門を代表する名工として知られています。その作風は、来国俊らしい堂々とした力強い姿の刀身となっています。
現在は重要美術品として、刀剣ワールド財団にて所蔵しています。
伊達政宗が粗相を行なった家臣を斬った際に、傍らにあった燭台までもが斬れたことが、名前の由来です。
肌の黒い牛のような大男を切ったという説と、敵を追いかけて切った際、馬の鞍まで切れたという説があり、黒ん坊切景秀、または鞍切り景秀(くらきりかげひで)という2つの名前があります。
現在は、国の重要文化財に指定され、個人が所有しています。
当時、伊達政宗は仙台在国だったため、次男の18代「伊達忠宗」(だてただむね)が拝領したと伝えられています。表に大きな剣巻の竜「倶利伽羅」(くりから)が彫ってあることが名前の由来です。現在は、法人が所有しています。
黒漆五枚胴具足
黒漆五枚胴具足は、全体を黒漆塗りにした伊達政宗所用と伝えられる中でもっとも著名な具足。兜の前立は細い金色の月です。胴は漆を塗った厚い鉄板5枚を繋げた五枚胴形式で、「解き胴」とも呼ばれています。
仙台藩ではこの形式の胴が藩主だけでなく家臣にも踏襲されているため、「仙台胴」と呼ばれるようになりました。
現在は国の重要文化財として仙台市博物館(宮城県仙台市)に収蔵されています。
黒漆五枚胴具足とほぼ同じ五枚胴具足ではありますが、一回り小振りに作られています。手甲に盛り上がった三引両紋は回すと蓋になって外れ、薬入としても利用可能。2度修理され、現在は仙台市指定文化財として仙台市博物館に収蔵されています。
兜の前立は、「毛虫は決して後ずさりしない」という意味を込め、毛虫をモチーフにしています。胴は鉄黒漆塗五枚胴で、胴の前後には火縄銃による試し撃ちの形跡があります。それに耐えられるほどの強度だったということです。
現在は、伊達市開拓記念館(福島県伊達市)に収蔵されています。
将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の養女で播州(現在の兵庫県南西部)姫路城主「池田輝政」(いけだてるまさ)の娘、「振姫」(ふりひめ)を正室として迎えるなど、将軍家との密接な関係を保つことにも努め、伊達家の安定に意を尽くしました。
伊達忠宗が使用していた日本刀に、「太鼓鐘貞宗」(たいこかねさだむね)があります。鎌倉時代末期から南北朝時代に相模国(さがみのくに:現在の神奈川県)で活躍した刀工「彦四郎貞宗」が制作した刀で、堺の「太鼓鐘」という商人が持っていたためにこの名前が付いたと言われています。
1607年(慶長12年)に徳川家康が振姫と伊達忠宗を婚約させた際に、伊達忠宗へ太鼓鐘貞宗を与え、以後伊達家に伝来しました。現在は、国の重要文化財に指定され、個人で所蔵されています。
伊達輝宗
片倉重長は、伊達政宗の父・伊達輝宗に長く仕えた「片倉景綱」(かたくらかげつな)の長男。父子で伊達政宗を支えた異能の猛将と言われています。17歳時の1600年(慶長5年)に、「刈田郡白石城の攻撃」(白石の役)に父・片倉景綱とともに出陣。これが初陣でしたが、父譲りの戦いぶりを見せつけ、若くして武功を挙げます。
「大坂夏の陣」では徳川方として伊達軍一千人余を率い、豊臣方の「後藤又兵衛」(ごとうまたべえ)、「薄田隼人正」(すすきだはやとのしょう)を激戦の末、討ち取りました。このときの激烈な戦いぶりから、「鬼小十郎」と呼ばれています。
片倉重長が使用した甲冑(鎧兜)は、「黒漆五枚胴具足」(くろうるしごまいどうぐそく)です。兜の前立には「合印」(あいじるし/あいいん)と呼ばれる、戦において敵と味方を把握するための印が付いています。伊達家の合印である八日月とともに、片倉重長が信仰した愛宕権現の守り札が添えられているのが特徴です。
愛宕権現の本地仏は勝軍地蔵ですが、地蔵の姿だけでなく、馬に乗った武人の姿で表されることも多く、武将の信仰を集めました。現在は仙台市博物館に収蔵されています。
「郡山合戦」(こおりやまがっせん)では、伊達成実、片倉景綱らとともに、「案積郡窪田砦」(あさかぐんくぼたとりで)を守り、伊達軍の軍議にも参加するなど、伊達家の重鎮として活躍。
そんな白石宗実が使用した甲冑(鎧兜)は「鉄黒漆塗五枚胴具足」(てつくろうるしごまいどうぐそく)です。兜の前立に銀箔を施した「成」の字を装着。胴は鉄黒漆塗の五枚胴形式、草摺(くさずり)は黒漆塗五段で浅黄糸と言う緑がかった薄い藍色の糸で縫い付けられています。現在は登米懐古館(宮城県登米市)に収蔵されています。
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