徳川家を支えた武将

紀州徳川家

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紀州徳川家は、徳川将軍家に次ぐ地位を持つ「徳川御三家」のひとつです。紀州とは、紀伊国(現在の和歌山県、三重県南部)のことで、紀州徳川家は、紀伊国一国の他に伊勢国(現在の三重県北中部、愛知県北西の一部、岐阜県海津市の一部)を所領とし、石高は555,000石でした。歴代当主は、「和歌山城」(和歌山県和歌山市)を拠点に代々紀州藩主を務めています。
徳川御三家の中では尾張徳川家に次ぐ家格でしたが、将軍を輩出しなかった尾張徳川家に対し、紀州徳川家では2人の将軍を輩出しています。そのため紀州徳川家は、江戸幕府に対して大きな影響力を持っていました。尾張徳川家、水戸徳川家を抑えて出世の道を掴んだ、紀州徳川家の歴史を見ていきましょう。

紀州徳川家の興り

紀州徳川家の誕生

徳川頼宣

徳川頼宣

紀州徳川家の家祖は、「徳川頼宣」(とくがわよりのぶ)で、「徳川家康」の十男にあたる人物です。

徳川家康が再建した「伏見城」(ふしみじょう:京都市伏見区)で、1602年(慶長7年)に生まれました。

2歳のときに、水戸200,000石を与えられましたが、しばらくは徳川家康の隠居城である「駿府城」(すんぷじょう:静岡市)で育てられ、1609年(慶長14年)に駿府500,000石に加増転封(てんぽう:江戸幕府に命じられた、大名の配置換え)。この頃、熊本藩主「加藤清正」(かとうきよまさ)の娘「八十姫」(やそひめ)と婚約し、1617年(元和3年)に八十姫を正室として迎えました。

徳川頼宣は、晩年の徳川家康のもとに生まれた三兄弟(徳川頼宣、徳川義直[とくがわよしなお]、徳川頼房[とくがわよりふさ])の中でも、特に徳川家康から寵愛を受けていた子で、幼少期から徳川家康が自ら手をかけて育てた子でした。そのため、父に感化された徳川頼宣は、武将らしさを持つ覇気に富んだ性格でありながら、若いときから茶道を嗜み、文武両道な人物として成長していきました。

そののち、1619年(元和5年)に18歳になった徳川頼宣は、紀伊国和歌山(現在の和歌山県)に移封することに。これをもって、紀州徳川家が誕生しました。

紀州は古代より小豪族が多く独立性の高い地域だったため、徳川家康は親藩(徳川宗家の親族が当主の大名家)を置き、この土地を治めたかったのだと考えられています。

紀州の基盤を築いた徳川頼宣

徳川頼宣は、和歌山に入ると城下町整備に努め、「和歌山城」(和歌山県和歌山市)の大改修に取り掛かります。城郭を改築し、城下町を拡張した他、浪人問題の解決や土豪勢力を懐柔させるなど紀州藩(きしゅうはん:現在の和歌山県和歌山市)の基盤を築いたのです。

1641年(寛永18年)には、42ヵ条からなる「御家御条目」(おいえごじょうもく)を発布します。「兵具の他は無用の道具を好んだり、過度な贅沢をせず、すべて倹約を旨とする」「徒党を組んだり、徒党に加担することを禁じる」といった、藩士の日常生活を律する法令を定めて、紀州藩の統制に努めました。

さらに、領民への教育政策として「父母状」(ふぼじょう)を作り、領内での周知徹底を図ったのです。紀州藩の儒臣、「李梅渓」(りばいけい)とともに作成したこの父母状には、親孝行や法の遵守、謙虚でいることの大切さが掲げられていました。この教育方針は、藩祖・徳川頼宣の教えとして代々紀州藩に伝わり、明治時代の廃藩置県まで長く紀州藩内に浸透していくのです。

紀州徳川家が誇る和歌山城

和歌山城

和歌山城

紀州徳川家を象徴する物と言えば、徳川頼宣によって大改修された和歌山城です。

徳川頼宣は、紀伊国に移封した際に、幕府から下付された銀2,000貫(現在の金額で約25億円)で城郭の拡張と改修を実施。

当時、あまりにも大規模な城の改修を行う紀州藩に対し、幕府は謀反の疑いをかけていたと言われています。

この騒動は、徳川頼宣が信頼を置いていた家老「安藤直次」(あんどうなおつぐ)が幕府に対して必死に弁明したことにより、無事収めることができました。

和歌山城の天守は、標高48.9mの「虎伏山」(とらふすやま)頂上に築かれています。美しい緑の中に輝く白亜の天守は、大天守と小天守が連結して建てられており、徳川御三家の威光を示していたのです。さらに、「江戸城」(東京都千代田区)と「名古屋城」(愛知県名古屋市中区)のように、大奥が造られたことも紀州徳川家の家格を示すポイント。

徳川頼宣によって造営された西の丸の「紅葉渓庭園」(もみじだにていえん)も、徳川御三家の風格を現わす場所のひとつです。

徳川吉宗による再興

紀州藩の礎を築いた藩祖・徳川頼宣の没後、紀州藩はしばらく財政難に苦しむこととなります。

この危機を救ったのが、5代藩主「徳川吉宗」(とくがわよしむね)です。徳川吉宗は、緊縮財政を行って藩財政の再建に努めました。そして、産業政策や新田開発に積極的に取り組んだ結果、徳川吉宗は紀州藩を再び繁栄させることに成功。

徳川吉宗は紀州藩主を10年半務めたあと、江戸幕府8代将軍に選ばれることに。紀州藩主時代に藩財政を再建させた経験が、のちに幕府で行う「享保の改革」(きょうほうのかいかく)に活かされていたのです。

徳川吉宗は将軍になる際、紀州藩を廃藩せず、親族によって存続させています。そののち、13代藩主「徳川家茂」(とくがわいえもち)も14代将軍に選ばれることとなり、この2人の将軍輩出を機に明治時代に至るまで紀州徳川家の血統は繁栄を続けたのです。

紀州徳川家の著名な人物

紀州藩5代藩主・徳川吉宗

徳川吉宗

徳川吉宗

紀州徳川家で最も著名な人物と言えば、紀州徳川家から初めて将軍となった5代藩主・徳川吉宗です。

紀州藩2代藩主「徳川光貞」(とくがわみつさだ)の三男として、1684年(貞享元年)に和歌山で生まれた徳川吉宗は、1705年(宝永2年)に、22歳で紀州藩5代藩主となり善政を尽くしたあと、1716年(享保元年)に徳川宗家の跡継ぎに選ばれ、8代将軍に就きました。

紀州藩主時代、藩財政を再建させた名君であった徳川吉宗は、徳川宗家においても中興の祖と称される人物です。曾祖父にあたる徳川家康を手本に政治を行い、幕府だけでなく江戸の庶民にも「質素倹約」を推奨する享保の改革を打ち出しました。この改革は、「江戸3大改革」のひとつとして大きな功績として語り継がれているのです。

また、徳川吉宗は、「葵紋禁止の法令」を発布しており、徳川氏だけが使用を許された家紋「葵紋」の無断使用などを厳しく罰しました。

紀州藩13代藩主・徳川家茂

徳川家茂

徳川家茂

徳川吉宗に次いで紀州徳川家で著名な人物が、紀州藩13代藩主・徳川家茂です。

紀州徳川家から出た2人目の将軍で、江戸幕府11代将軍「徳川家斉」(とくがわいえなり)の孫にあたる人物。

1846年(弘化3年)に紀州藩邸で誕生し、4歳で紀州藩主の跡を継ぎました。

1858年(安政5年)、江戸幕府14代将軍の座を勝ち取った徳川家茂は、前代の13代将軍「徳川家定」(とくがわいえさだ)の従兄弟で、近しい血縁であることが将軍継承争いの決定打になったと言われているのです。

在位中は、「日米修好通商条約」(アメリカ合衆国側に領事裁判権を認め、日本に関税自主権がないなど、日本に不利な不平等条約)に始まる様々な問題を抱え、「尊王攘夷運動」(そんのうじょういうんどう:天皇を尊重する思想のもとに、江戸幕府の外交政策などに批判、反発する政治運動)が過激化するなか、22歳という若さで病死しました。

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