ながよし/ちょうぎ
「長義」は、備前国(現在の岡山県東南部)の「長船派」(おさふねは)に属した刀工です。作刀時期は南北朝時代中期。
備前国ではこの時期、鎌倉時代に相模国(現在の神奈川県)で発展した、「相州伝」(そうしゅうでん)に影響を受けた「相州備前」(そうしゅうびぜん)の鍛法が盛んになっており、その代表格が長義です。「備前にあって、最も備前離れした刀工」と評されていた長義は、相州伝を完成させたことで知られる名工「正宗」(まさむね)に強く影響された10人の刀工、「正宗十哲」(まさむねじってつ)のひとりにも数えられています。
長義による太刀は、幅広で豪壮な作りが多く、短刀は小振りの物が目立ちます。「地鉄」(じがね)は「板目肌が詰む」(いためはだがつむ)作例と、やや肌立つ作例があり、地中の働き(じちゅうのはたらき)は、「地沸」(じにえ)が強く「地景」(ちけい)が現れ、「映り」(うつり)の立たない作例が多く見られるのが特徴。刃文は「湾れ」(のたれ)に「互の目」(ぐのめ)を交え、「刃中の働き」は、よく「沸」(にえ)付く物が多く、匂勝ち(においがち)となる作例も見られるのです。
銘については、「備州長船長義」や「備州長船住長義」、「備前国長船住長義」などがあります。長義は一般的に、音読みで「ちょうぎ」と呼ばれることが多いですが、訓読みで「ながよし」と呼ばれることもある刀工です。
長義の刀で最も有名な1振は、「本作長義」(ほんさくちょうぎ)の名称が付けられた打刀。別名「山姥切」(やまんばぎり)とも呼ばれています。相模国・小田原(現在の神奈川県小田原市)を本拠とした「後北条氏」(ごほうじょうし)が所有し、下野国(現在の栃木県)の国人領主「長尾顕長」(ながおあきなが)が、同氏に臣従する際に贈られました。1586年(天正14年)、敵対していた両氏の間で和平交渉がまとまり、長尾顕長が「小田原城」(現在の神奈川県小田原市)を訪れたときに授けられたのです。
本作長義は元々、刃長が約90.9㎝ある長大な日本刀でしたが、後世になってから「茎」(なかご)を磨上げた(すりあげた)ため、刃長は約74.2cmになっています。これを裏付けるように力強い「大鋒/大切先」(おおきっさき)が施されており、その姿は、見るからに豪壮な雰囲気。刃文には、「大互の目乱」(おおぐのめみだれ)が際立っています。
「豊臣秀吉」による後北条氏討伐戦「小田原征伐」が迫ると、長尾顕長は、名工「堀川国広」(ほりかわくにひろ)に、自身の命運を託す1振を打たせました。その際に参考とさせたのが、すでに「山姥切」の異称を持っていた「本作長義」だったのです。このことから、長尾顕長の命により、堀川国広が手掛けたこの打刀は、「山姥切国広」と呼ばれることになりました。
本作長義には1677年(延宝5年)に、「本阿弥光常」(ほんあみこうじょう)によって「代金子十五枚」の折紙(おりがみ)が付けられ、1681年(延宝9年/天和元年)6月、尾張藩(現在の愛知県名古屋市)2代「徳川光友」(とくがわみつとも)が、152両1分(現在の約15,000,000円相当)で買い上げて以降、「尾張徳川家」に伝来。
現在は、「徳川美術館」(名古屋市東区)が所蔵しています。